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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネーの初期ロメール評:La maison cinéma et le monde を読む(10)

*Serge DANEY : La maison cinéma et le monde, tome1, Le Temps des Cahiers 1962-1981, P.O.L., 2001.

 (承前。)同じくベルール編「映画事典」(1966年)の記事より。「エリック・ロメールの映画の第一の長所は辛抱強さだ」。待つ術をしっていること。見ることを学ぶこと。映画においてはこの二つは同じことがらである。ロメールにとって「世界とはけっしてそのすべてを知りつくすことのできない事物たちの教訓であるかのようだ」。ロメールはなにごとをも強調せず、ましてや特権化しない。しかし見かけの中立性の裏側に、ある教訓が、ある秩序が、ある真理が、かくれている。それらが熟成するのには長い時が必要だ。一本のフィルムにふくまれるむだな瞬間やどうでもいい細部とみえるものは、じつはそれらを熟成するために不可欠な要素なのだ。さまざまな観念をさまざまな経験にぶつけ、その結果として何がでてくるかをじっと観察すること。ロメールの映画にあっての経験なるものはかつてのホークスの映画におけるそれにもにている。可能なものと不可能なものを見分け、不可能なものをしりぞけて可能なものをきわめつくすただひとつの現実が経験というものなのだ。経験されることのないどんな観念も存在しない。登場人物にしてもおなじだ。登場人物がなにかを見ることができるためには、ながい旅が、通過儀礼が、試練が、ひつようであり、その果てにかれはすでにじぶんのなかにすでにあったなにものかをはじめてじぶんのものにすることができる。『獅子座』しかり、『モンソーのパン屋の娘』しかり。ロメール地理学に、都市に、地図に、[敷]石に憑かれた映画作家である。こうした非個人的なものの試練をとおしてはじめてかれの人物の冒険は個性的なものとなる。一方、教育映画におけるロメールのあしどりはこのようにまわりくどくはない。代表作といえるであろう『18世紀の物理学研究室』においては、実験の段取りをひとつひとつ忠実に記録することからもっとも簡明な感動がうまれる。ただ正確さだけからうみだされるものであるかぎりで、この感動はもっとも奇妙な感動でもある。

 ロメールはダネーがそのキャリアをとおしてもっとも熱心に論じた映画作家のひとりである。不屈さ(persévérence)という美徳は、ダネーがロメールの辛抱強さ(patience)から引き出した教訓なのかもしれぬ。