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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネーのプレストン・スタージェス評:La maison cinéma et le monde を読む(11)

* Serge Daney : La maison cinéma et le monde, tome 1 Le Temps des Cahiers, 1962-1981, P.O.L., 2001.

 承前。ベルール編『映画事典』より「マウリッツ・スティレル」。「スティレルのすべての作品は誘惑の物語だ。つねに宙吊りになっているプロットは、それいがいのいかなる法則にもしたがわない。何も起こらない時間、いつおわるともしれぬショットは、ひとりの人間がかれをじぶんじしんの外部へとおしやる漠とした呼びかけにすこしずつみずからをゆだねていくさまをスローモーションさながらにえがきだす。さからうことのできないこのよびかけは、しかしながらかれをどこへもつれていかない」。このたったひとつの主題をダネーはさまざまな言葉で変奏していく。いわく「彷徨い」「ためらい」「後悔」「旅への誘い」「予期せぬものの魅惑」「不安げな熱狂」「魂の奔出」「たえざる運動」「忘我」「選択不可能性」……。「fragile映画作家であるスティレルは、つねに二つの要請に引き裂かれている。冒険への呼びかけと休息への郷愁に。このようなすこしく茫漠たるロマン主義に関して、かつてジードヘルマン・ヘッセについて述べたことを想起するのも一興だ。『またしてもおなじこころのためらい。こころの輪郭にはとらえどころがなく、そのねがいはやむことがない。こころはこのもしいとりとめのなさにすすんでおぼれゆき、どんな偶然の出会いの要請にもその身をゆだねる。過去への屈服に目的を、生きる理由を、そのゆらいだ意志のよりどころをもとめるほどにはたしかな過去に根をおろしているかもうたがわしい』。[……]この錯綜、このいきまどった画面、この外見的な厳密さの欠如がもとづく芸術[技法]は、なんとしてでもものごとをいみづけようとするそれではなく、むしろいくつかのめずらしい和音やいくつかの特権的な状況をはてもなく変奏させるそれである」——ダネーがスティレルの芸術をえがきとる筆致そのものがこうした「技法」を忠実になぞってはいはしまいか……。がむしゃらに「表現」をもとめることなく、ただものごとを「見る」ことに徹するこうした芸術[技法」ゆえに、スティレルは「もっともサイレント的ならざるサイレント映画作家」である。
 「プレストン・スタージェス」。「プレストン・スタージェスの作品の主題はまずもって安易さである」。ひとつの世界から別の世界へ、現実世界から夢の世界へのいともかろやかな移動。しかしその教訓はどこまでも重い。鏡の裏側は存在しないというのがそれだ。そのいみでスタージェスのすべての映画は絶望の物語である。ふたつの世界の境界がどこにあり、それをまたぎこえることにどんないみがあるのか。かずあるスタージェスの作品中「ただ一本の厳かな名作」である『サリバンの旅』は、この問いにとりくんでいるがゆえに最良のスタージェス作品なのだ。
 というわけで、「映画事典」に寄稿された五本の記事はいずれも才気あふれる作家論に仕上がってはいるけれど、いまひとつオリジナリティに欠けるうらみなしとしないというのが正直なところ。若書きといってしまえばそれまでだけどね。