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精神分析と映画をめぐる読書案内

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その3)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l'antiphilosophie 3, 1994-1995. Fayard, 2013.

 第三回講義(1994年12月21日)。哲学が意味を真理と鏡像関係に置く(spéculatif 思弁的=鏡像的)のにたいし、反哲学は意味を真理の上位に置く(そこに序列の関係はない)。意味は真理におくりかえされるかぎりで、覆いの影に隠れているものと規定される。しかるに「知」におくりかえされることによって、意味(sens)は ab-sens としての現実界におくりかえされる(ab-sens は「無意味」non-sens のことではない)。精神分析にとっての「知」とはなにか。「行為」であるかぎりで精神分析は言述のうちに書き込まれることがない。その沈黙を証し立てるなにかが「知」である。端的にマテームのことである。真理はなかば言う(mi-dire)ことしかできないが、マテームは行為の完全な伝達が可能である。あるいはパス(passe)という制度のことである。バディウによると、ラカンとそれ以前の反哲学者を分かつ点は、行為はそれに固有の「場」をもつ(じっさいに avoir lieu[=起こる])という考えであるらしい。知は行為の起こった「場」を証し立てる。はじめに行為ありき。さいしょにフロイト精神分析的行為をおこなった(たとえば、五大症例というかたちで)。ニーチェウィトゲンシュタインが来るべき行為に照準を定めた「プログラム型反哲学」であったのにたいし、ラカンはじっさいに「起こった」行為に目を向けている……。「フロイトへの回帰」というラカン的身振りの特異性をバディウはそんなふうに説明しようとしている。ラカンは「最初の内在的反哲学者」であるかぎりで「最後の反哲学者」である……