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精神分析と映画をめぐる読書案内

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その2)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l'antiphilosophie 3. 1994-1995, Fayard, 2013.

 (承前。)ラカンは『エクリドイツ語版序において、「友人」ハイデガーに言及しつつ、「形而上学は政治の穴をふさぐ」という謎めいたテーゼを提出している。政治的なものにうがたれた穴が形而上学そのものなのではなく、政治の穴は形而上学の条件なのだとバディウは解説する。そして問う。この「穴」とはなんなのか?

 バディウはまずラカンによる「形而上学」の捉え方が、ハイデガーのそれと一致しないことを確認する。ハイデガーにとって形而上学は存在の歴史の一範疇としてあるが、ラカンにとってはそのかぎりではない(よってラカン哲学の「終焉」というカントハイデガー的主題をも共有していない)。では、ハイデガー的な「非人間主義」についてはどうだろう。ここでいう「非人間主義」とは、「わたしが言うのではなく、ことば(ロゴス)がものを言うのである」というヘラクレイトス的な「非人間主義」のことである。バディウによれば、ラカンにとっての形而上学(méta-physique)は、その「物質性」が物理学的ないみでの物質性によっては理解できないシニフィアンなるものの超-物理学形而上学のことである。シニフィアンは、「形而上学的排除」によって意味作用を「脱存在」(désêtre)へとおくりかえす。そのとき意味作用は物理的な次元から自律したそれ自体の存在をもつ。こうしてラカンにとって「意味」は存在から切り離される。「意味」において問題になるのはその「内容」ではなく「効果」である。

 一方、自然学(physique)が思考可能なもののすべてをカバーしないという前提において、ラカンにとっての「形而上学」はアリストテレス的な形而上学と重なる部分をもつが、ラカンにおいて形而上学を存在(実体)の科学におくりかえすことはできない( << (h)ontologie >>)。ハイデガーによれば、アリストテレス的な実体の形而上学は「自己自身への回帰」としての、「存在の真理の開花」としてのピュシス(physique)を忘却している。対してラカンにとって、形而上学は自然学の「引き算による」規定である。ラカンハイデガーよりもストア派的である。ラカン的な形而上学が << incorporel >>(それはすぐれて言語的なものである) の科学であるかぎりで。
 
 ハイデガー形而上学を存在の歴史に一元化しているが、ラカンにとって形而上学は二つの歴史の「切断的接続」(ドゥルーズ)である。すなわち、形而上学の歴史は存在と脱存在の分断された歴史である。ラカンにとって形而上学の歴史はプラトンからはじまるのではなく、それ以前、存在と思考を同一視したパルメニデス(「存在は思考する」)にはじまる。パルメニデスにたいしてラカンは前述のヘラクレイトス的なロゴス観を対置する。「パルメニデスは間違っており、ヘラクレイトスはただしい」(ラカン)。ラカンにとって形而上学の歴史はさいしょから分裂しているのだ。ハイデガー形而上学の歴史に起源となる母胎を想定している(ハイデガーにとって、パルメニデスヘラクレイトスを対立させることは存在忘却の一症状にほかならない)。ラカンにとっては起源ではなく、起源の分裂がある。

 形而上学における存在と脱存在とおなじように、[発話]行為における言葉と沈黙もまた表裏一体のかんけいにある。「行為はいつあるか? 言うこと(dire)が言われたこと(dit)に生起する(surgir)ときである。言うことはつねに ex-sister するまでにいたれるわけではない」(セミネール『アンコール』)。言うことにおいて、言われることにむすびついた言われないこと(non-dit)があらわれる。そこに行為は到来する。それゆえ dire の到来においては沈黙へのむすびつきがきわだつのだ……。


 そして第三のテーゼが来る。いわく「愛が哲学言説の核にある」(『アンコール』)。バディウによれば、ラカンにあって「愛」は「一なるもの」とならんでもっとも複雑な観念である。

 以上が第二回(1994年12月21日)の概要。