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精神分析と映画をめぐる読書案内

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その4)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l'antiphilosophie 3, 1994-1995. Fayard, 2013.

 第四回講義(1995年1月11日)。反哲学数学プラトン)と対峙する。ニーチェウィトゲンシュタイン数学を思想ではないと貶めた。しかるにラカンにとって、数学はただひとつの現実界科学である。ウィトゲンシュタイン哲学数学のなかにありもしない思想を探し求めてきたとしているが、ラカンはぎゃくに哲学数学に内在する現実界科学という次元を無視してきたことをもって哲学を批判する。ラカンにとって、数学は「真理の骨」、すなわちあらゆる意味を削ぎ落とした真理である。数学は「現実」(réalité)ではなく、言うこと(dire)を問題にする。数学は「絶対的な言述(dit)」として実現される in-sensé (常軌を逸した)な「言うこと」である。それにくらべれば哲学宗教にすぎない。ここでいう宗教はその厳密ないみにおいて理解されねばならない。すなわち、「意味の実在能動的な贈与」として。バディウラカンがそれまでの反哲学者たちの数学についての立場を逆転させただけではなく、宗教についての立場をも逆転したとしている。ラカンは意味なるものの本質的な宗教性を問題にしている。「宗教が揺らぐことがないのは、意味というものがつねに宗教的であるからだ。そこにマテームへのわたしのこだわりも由来している」(「解散の辞」)。ラカンが意味の宗教性にマテームを対置しているのは、ニーチェおよびウィトゲンシュタイン数学的真理の形式的な空虚にかれらの反哲学の行為の沈黙を対置させる身振りに対応している……。つづけてバディウは、哲学数学を意味に従属させることによっていわば宗教化することで数学の可能性を抑圧してきたというラカンテーゼを、プラトンデカルトヘーゲルという三人の哲学者の吟味にかける。そこにおいてラカンテーゼは確証されると同時に反駁されることになるだろう。

 まずプラトンについてはその想起説が俎上に載せられる。想起される知を現実世界の空間と結びつけているかぎりで(『メノン』の奴隷にとっての図形)、プラトンは意識と現実(réalité)を対にし、数学を意味に従属させている。また、デカルト数学を方法的枠組みとして利用することで(『精神指導の原理』)、ヘーゲル数学的無限を説明されるべき「盲目な」概念とみなすことで(『論理学』)、それぞれ数学を意味に還元している。その一方で、プラトン数学にたいしてみずからの基づく仮説を説明できないという批判を投げるとき、かれは数学が純粋な「言うこと dire 」に基づいていると認めている。デカルトについては、数学的言述が疑いえないことにおいて(永遠真理創造説)、ヘーゲル数学的無限を哲学的無限の下位に位置づけ、知りえないものとすることによって、それぞれラカンテーゼに反駁している。ことほどさように哲学は<一者>への誘惑を内在させると同時にこれに抵抗している。それゆえラカン的反哲学は、哲学を非分割する(indiviser)するというかたちで哲学の「分割」に依拠している(たとえば「最初の精神分析家ソクラテスプラトンから横領する身振りにおいて)。つづく。