alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その5)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l'antiphilosophie 3, 1994-1995. Fayard, 2013.


 承前。ついで「水道管工事」つながりで、「形而上学は政治の穴をふさぐ」というテーゼの検討に移る。「政治の穴」は、ボロメオの結び目にそくして、想像界象徴界現実界それぞれについて規定されるひつようがある。まず、[資本という]現実界における[集団という]想像的な穴。政治は集団という想像界をまとめるための糊(d’Ecolles)であるかぎりにおいて意味に貼り付いている。ここでバディウは「解散」(dissolusion)という本質的なラカン的概念を導入する。「フロイトは、精神分析団体が[精神分析家の]言説を凌駕し、教会となることを許容した」(「解散の辞」)。そのことによって、精神分析は「意味へと方向転換を遂げた」。「団体言説を凌駕するとき、言説に穴がうがたれる」。哲学はこのとき、団体言説を凌駕することについての言説提示することでこの穴をふさごうとする。マルクスは「現実的な穴」としてのプロレタリアートを意味によってふさいでしまった哲学者であるかぎりで批判される。「わたしは症状の発明者としてのマルクスにつねにオマージュをささげている。そのマルクスは秩序の復興者でもある。プロレタリアに dit-mension du sens を吹き込んだからだ」(「A氏」)。マルクスプロレタリアートにことばをあたえたひととみなされているが、じっさいにはプロレタリアートからことばをうばったひとなのだ。団体言説の条件であると見なしてプロレタリアートを「団結」させ、言説を凌駕させてしまった。それゆえ団体を「解散」することが言説の条件になる。1980年パリフロイト派の解散は、1871年の第一インターナショナルのそれに範を取っている。解散とは、穴としての政治が哲学によってふさがれない瞬間であり、言説団体乖離を維持する瞬間である。「行為」としての解散は、「団体から解散的に離反することによる言説の脱隠蔽化[découvrement]の操作」と定義される。この行為がはたらきかける「素材」は言説にたいする団体の優位であり、国家の権威である(哲学はつねに国家を正当化する)。解散は「もっとも明白な反哲学的な行為」である。パリフロイト派の解散にあたって、ラカン自身が明白に述べている。「このA氏[ツァラの創作になる人物]は反哲学者だ。これはわたしだ。いうなればわたしは哲学者に謀反を起こす。たしかなことは、哲学は終わったということだ」(「A氏」)。終わってしまったものにたいして謀反を起こさなければならない理由はともかく、革命的活動はつねに言説の脱隠蔽化としてある。十月のレーニンしかり、毛沢東しかり。ラカンはかれらの「絶対的な後継者」である。ラカンマルクスにたいするじぶんの立場をレーニンになぞらえているのは必然なのだ。

 政治は「現実界における想像的穴」であると同時に「想像界言説の想像的一貫性]における象徴的な穴」でもあり、「象徴界[法]における現実的穴」でもある(哲学はこの三重の穴を一度にふさぐ)。ラカンにとって政治は言説でない。科学言説ヒステリー言説分析家言説などと同列の言説ではない。ここにおいてラカンドゥルーズと結びつく。科学、芸術、哲学を「思考」と規定したドゥルーズは、政治を「思考」とはみなしていない(『哲学とは何か』)。政治の言説が存在しないために、政治は言説においてつねに穴をうがたれる。「政治は見せかけ(semblant)における象徴的穴」である。