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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジャック・リヴェットの映画批評集成(その3)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.

 Gazette du cinéma 終刊後、二年あまりのブランクを経て「カイエ・デュ・シネマ」への執筆が開始される。

「羞恥の新たな相貌」
 「カイエ・デュ・シネマ」1953年2月号掲載。同誌デビューとなるボリス・バルネット『豊穣な夏』評。
 「うわべだけ無邪気な映画であるとともにほんとうの、内奥の無邪気さをともなうこの映画がわたしはすきだ。世界およびソヴィエトという場所に向けられたバルネットの眼差しは無垢なるものの眼差しであるが、無垢な人の眼差しではない。バルネットはこの苛酷な(exigeante)純粋さを知っており、それを慎重にじぶんじしんの秘密のなかにしまい込んでいる。おそらくは残酷なこの世界にたいするもっとも貴重な抵当、もっとも確実な保証として」。「この映画の無邪気な外見は仮面か罠もしくはなんらかの防衛にほかならず、ときとしてあまりにもありきたりな見かけの下にひとつの謎を隠している」。


ハワード・ホークスの天才」
 同5月号掲載。「自明さはホークスの天才のトレードマークだ」「存在するものは存在する」という冒頭と締めくくりの一句はすっかり人口に膾炙している。


フーガの技法
 同8-9月号掲載の『私は告白する』評。ヒッチコックの職業的な秘密[秘訣]は同業者にしか理解できない。「われわれの時代のもっとも気高い思想が映画をとおして表出されることを選んでいるとしても、その思想がそのあとでなんらかの外国語に翻訳できるということではなく、映画というアートの外見そのものへの感受性をもたない人にはその思想は目に見えないままなのだ。映画の権能の日常的な実践をとおしてこそ映画作家はその思想をもっとも厳密に表現する。そのときもっとも内奥のものが一見してもっとも外部にあるもの、もっとも形式的な諸要素の使用と混じり合うのだ」。このような芸術の典型として挙げられるのはバッハである。「外的なものときわめてひそやかなものとの結びつき。ひとつのおもいがけない身振りが説明なしに露呈させるそのような結びつき」こそ映画なるものの定義である。ヒッチコックの芸術を一言で要約するなら、“きびしさ”(exigeance)ということになる。ヒッチコックの望むものはたえまのない不均衡状態だ。あらゆるショットに危険の予感が刻印されている。安易な解決を拒否し、「根本的な思想」を厳密に帰結に導く(これが“サスペンス”の謂である)。心のうちから魂に由来しない部分を抽出するという問題意識をヒッチコックルノワールおよびロッセリーニと共有している(これが「カタルシス」の謂である)。「笑わせるにはあまりにもコミカルな映画、感動させるにはあまりにも悲劇的な映画というものがある。[ヒッチコックは「極端さを処世訓とする」]そこではエモーションが押さえつけられ窒息させられる。ヒッチコックに関心があるのはさまざまな情熱ではなく、それを押し潰してそのうえにそれら情熱の偉大さを打ち立てるものである」。「人間そのものよりも人間を蝕むものに関心を向ける」「非人間的な映画」。「ヒッチコックにとって演出は身体[物体]の秘密に照準を合わせた倦むことなき武器である」。


「創意について」
 同10月号掲載の『ザ・ラスティ・メン』評。「ニコラス・レイはアイディア[観念]を惜しまない」。それは「演出のアイディア[さまざまな演出の観念]」だ。ただフレーミングやショットの並べ方においてのみ深遠なるものが宿り、それらのみがあらゆる芸術作品の目的であるひそやかな figure[形態] に到達する」。トリュフォーはレイとブレッソンを結びつけたが、それは「抽象」への強迫観念においてであろう。この強迫観念が狙いをつけるのはただこの「理想の顔」(くだんの figure)のみであり、「そこにすばやくたどりつくためには不器用さをも辞さないのだ」。『ザ・ラスティ・メン』においては「役柄」の観念および「場面」の観念そのものが、しばしばその観念の「実現(réalisation)」に優先されている。それゆえリヴェットは réalisateur ではなく metteur en scène と呼ぶことでレイへの敬意を表する。その瞬間その瞬間の「創意」がその都度「ただ一体の埋もれた彫像」を彫り出すための鑿の一撃となる。
 ニコラス・レイの映画全般についての有益な指摘に満ちた一篇。


「仮面」
 同11月号掲載の『たそがれの女心』評。オフュルスの複雑なテクニックはエモーションに横槍を入れようとする意図に発する。「なにほどかの冷淡さが心のもっとも奥深い豊かさの保証となる」。「浮薄」とおもわれているオフュルス作品は「容赦のない分析」であり、その「見せかけの優雅さ」は「厳粛さ」を隠そうとしていない。
 いまではわりと常識化しているオフュルス観が綴られる。


アンソニー・マンの『裸の拍車』」
 同12月号に掲載された短評。「努力、疲労アウトローたちのあらあらしいライバル関係、かれらの闘いや友情のはげしさといったものについてこれ以上に心をうつ映像は存在しない。ジェームズ・スチュアートロバート・ライアン、ラルフ・ミーカー、ミラード・ミッチェルのもっとも原始的な、しかしときとしてもっとも本質的なエモーションによって歪んだ厳格な顔相とジャネット・リーのとり繕うところのない童顔は、ただ汗や傷跡や不意の微笑みのまとう威光だけによって忘れがたいものとなっている」。
 同号には「オットー・プレミンジャーとの会見記」も掲載されている。


イングリッド・バーグマン
 同年のクリスマス増刊号「<女性>と映画」のために編まれた女優小事典の項目として無署名で発表された。
 「これほどの明察[lucidité]を極度の孤立[abandon]に結びつけ、魂のもっとも密やかな動きをも目に見えるものにし、魂のもっともすばやい流れをもダイレクトな証拠に変えてしまうことのできる女優がほかにいるだろうか。かのじょは罅のかけらさえない躍動をイメージとして伝えてくれる。心の躍動ということでもあるが、むしろ思考に結びついた感覚の躍動だ。かのじょにあってはもっとも身体的な不安[peur]が口にできない問いかけから切り離せない。罠にみちた見せかけ[apparences hostiles]の世界にとつぜん投げ入れられれば、かのじょはみずからが出会う謎となり、その謎をわれわれに差し出さずにはおかず、そのすえにいまや差し出すことのできるものといっては、あの倦むことなき歩行、かのじょの歩みの生まれつきの躍動に導かれているかのように数々の留[stations]を無意識裡にたどるあの行程しかのこっていない。そしてこの歩みがかのじょをわれしらず救済へと導くのだ。なぜなら、この歩みは愛、しかももっとも無慈悲な愛であるから。また、この歩みは慈愛、しかももっとも仮借のない慈愛であるから。『汚名』から『ストロンボリ』まで、『山羊座の下で』から『ヨーロッパ一九五一年』まで、イングリッド・バーグマンはうわべの神秘と[内奥の]魂の自明性との同じような結びつきを演じつづけているのだ。はんたいの道をたどりつつも同じようなわざ[art]をつかって、外見の曖昧さから真理をつかみとり、われわれの目の前に叩きつけているのだ。のみならず、精神の、あるいは世界の、あるいは心の苦難[troubles]をものともせずによこぎる同じように情熱的な歩み[démarche]とこれ以上ないくらい純粋な同じような大胆さとを」。