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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジャック・リヴェットの映画批評集成(その4)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.

 承前。

「演出家の時代」
 「カイエ・デュ・シネマ」1954年1月号掲載。『聖衣』の公開を受けたシネマスコープ考。画面の奥行きが「不条理」の感覚に結びついているのにたいし、画面の幅は「知性、均衡、明察」ひいては「モラル」に結びついているのではないか。「身振りと態度の新たな幅の探求にのりださねばならない。とくにこの時代に固有の身振りの幅である。それがこの平たい底に『立体感』[立体映画ブームを踏まえる]をもたらすだろう」。最初の「天才的な」シネマスコープの例としてホークスがプロモーション用に撮り直した『紳士は金髪がお好き』中のモンローのクリップが挙げられている。


「本質的なもの」
 同2月号掲載の『天使の顔』評。「演出」概念を明確に提示した重要論文。
 「貧しさの賛美」。このRKO作品でプレミンジャーはフォックス時代にはその潤沢さの陰に隠れていたみずからのわざ[art]を「本質的なもの」へとつきつめている。「映画の諸要素がここではほとんど剥き出しで作用している」。プレミンジャーにとって本作と『月蒼くして』はドライヤーにとっての『二人の人間』(!)、ラングにとっての『復讐は俺にまかせろ』、ルノワールにとっての『浜辺の女』に相当する。プレミンジャーの才能の秘密は映画についてのひとつの正確な「観念」である。「プレミンジャーはわたしを熱狂させるというよりも気がかりにさせる。こういう映画作家はけっして多くない」。純真な嘘つきもしくは犯罪者というプレミンジャーのヒロイン像はそれじたいとしてはありふれているが、この人物像は脚本に由来するものではない。本作の謎は物語の謎が解けたあとでも解消しない。「筋立て以外のある興味がわれわれを登場人物のさまざまな身振りに執着させる。とはいえいくら考えてみたところでその内奥に何かが隠れているわけではないのだ」。この「内奥」は登場人物じしんに由来するのではなく演出に由来している。脚本はいわば「口実」だ。「問題なのは嘘くさい物語を信じさせることではなくて、劇的ないし小説的な真実らしさを超えたところに純粋に映画的な真実を発見させることである」。「ホークス、ヒッチコック、ラングといったオールドスクール映画作家たちはまず物語を信じ、この信頼のうえにかれらのわざの威力を基づけていた。プレミンジャーがまず信じるのは演出である。つまり登場人物と舞台装置の精密な複合体の創出であり、さまざまな関わりのネットワーク、動的で空間に宙吊りになっているようなさまざまな関係性の建築物の創出である」。そのような「演出」をリヴェットは「水晶を切り出すこと」になぞらえる。
 プレミンジャーが典型的な「演出家」なのは、その演劇的な出自とはかんけいがない。「人間と人間の対立する演劇的な空間のさなかに偶然やアクシンデント性[思いがけない創意]をつかみとることでプレミンジャーは映画の能力を最大限に活用する。眼差しを近づけ研ぎ澄ますことで」。ジーン・シモンズの夜の彷徨は脚本のうえではありふれているが、プレミンジャーは「眼差しの明察」によってここからシモンズの打ちひしがれた歩き方やソファーにうずくまる姿勢を発明している。ここにあるのは「心に訴えかける、自明さによって胸を引き裂くような、映画の現前」である。「映画とは何か。男優と女優、主人公と舞台装置、言葉と顔、手と物体の戯れ[jeu]にほかならない」。
 同号にはトリュフォーとともに行なったジャック・ベッケルへのインタヴューも掲載されている。ついで4月号でジャン・ルノワール、1955年1月号でアベル・ガンスへのインタヴューを同じくトリュフォーとともに行なっている。


ロッセリーニについての手紙」
 同1955年4月号掲載の長尺論文で批評家リヴェットの代表作。「わたしがロッセリーニをもっとも現代的な映画作家とみなすのは理由[raison]のないことではないが、理性[raison]にしたがってのことでもない」。『イタリア旅行』は「突破口をひらく。映画史のぜんたいにいまや死刑判決がくだされる」。「ロッセリーニの任意の作品を考えてみたまえ。ひとつひとつの場面、ひとつひとつのエピソードが、ショットとフレーミングの連続、おおかれすくなかれ輝かしい映像のおおかれすくなかれ調和的な継起としてではなく、ひとつの長大な旋律の章句、ひとつの途切れることのないアラベスク文様、ひとつの確固たる描線として記憶によみがえってくる」。つまりロッセリーニのうちに、メディウムのあらゆる束縛から解放されたかのようなマティスの軽々とした絵筆づかいが見てとられ、ストラヴィンスキーの奔放なフレージングが聴きとられているのだ。「モーツァルトには音楽がもはやおのれじしんをしか糧にしていないようにかんじられる瞬間がある」。ロッセリーニしかり。おのれいがいのなにものにもしたがうことのない徹底して自由な映画。



「あるアヴァンギャルド映画」
 トリュフォーら「カイエ」同人が執筆していた週刊誌「アール」(1955年9月7-13日号)への初の寄稿となるアストリュック『悪い出会い』評。
 アストリュックはドイツ表現主義アメリカの若手映画作家らを参照しているが、表面的な模倣ではなくそれらの原理に学んでいる。「アストリュックがムルナウとラングに学んでいるのは光と影の劇的な意味であるが、両者の葛藤によって人間たちの秘密を表現するためである。また、ショットに内在的な生命である。それは諸力の不安定な均衡を表現するためである。レイやブルックスやプレミンジャーから学んでいるのはあるしゅの明察、登場人物の偉大さへのあるしゅの希求、魂の高貴さへのあるしゅの志向、一言で言えばモラルである。ついでにオーソン・ウェルズからは偉大なシェイクスピア的な教訓を学んでいる。このしみったれた男女関係と堕胎の話にたいしてシェイクスピア的映画とは奇妙な形容であるかもしれない。ところが私はその形容に値するとおもっている。『上海から来た女』とかガンスの素晴らしい『ルクレチア・ボルジア』がそうであるのと同じ理由で。というのも、主人公の意識がたえず状況を凌駕し、あらゆる瞬間にドラマの場面を破裂させるような映画をほかに何と形容すればよいのか」。


ダグラス・サークの『自由の旗頭』」
 同9月28日ー10月4日号に掲載。サークはウォルシュの弟子たるに値する。


ホセ・ファーラーの『もず』」
 同10月5日ー11日号掲載。切り返し場面ばかりの平板な演出。


ニコラス・レイの『追われる男』」
 同号掲載。「『追われる男』の脚本を要約するのはむずかしい。筋書きの細部が極端に込み入っているからではない。重要な部分が登場人物の行動にも台詞にもなく、それらが隠しているもののうちに宿っているからだ」。あらゆるショットが「詩情」に貫かれ、ときとしてこの「詩情」のために物語話法上の効率さえが犠牲にされる。映画の基準を巧妙さとかサプライズにではなく「美」に求める人たちに心から薦めたい作品とされる。
 有り体に言えば出来がわるく退屈な映画という意味だろう。


ジョン・スタージェスの『日本人の勲章』」
 同号掲載。タイトルバックと30分置きに配されたアクションシーン、くわえてシネマスコープの美しさは一見の価値あり。


シドニー・ギリアットの『完全なる良人』」
 同10月12日ー18日号に無署名で掲載。フランス映画は曲がりなりにも存在するが、イギリス映画は存在していない。 


ジーン・ネグレスコの『足ながおじさん』」
 同号掲載。レスリー・キャロンがすべて。「かのじょがスクリーンにすがたをあらわすとあらゆる批評的な観点は消え去る」。
 リヴェットは1976年にキャロンとアルバート・フィニーを主役に『マリーとジュリアン』の撮影を開始するが、クランクイン三日目に現場を放棄。結局この企画は2003年に『Mの物語』として実現する。


アメリカ映画は再生する」
 同10月19日ー25日号掲載。ここ十年ほどのある「奇妙な現象」の指摘によって書き起こされる。フランスの批評家がアメリカ映画を理解できなくなったというのだ。かれらはアルドリッチブルックス、マン、レイの名前を知らない……。かれら(くわうるにウルマー、クワイン)はジャンルの垣根を軽々と踏み越える。かれらが忠実であるのはおのれじしんにたいしてだけだ。すなわち固有の主題やキャラクターや「文体」にたいしてである。


「絶対の探求」
 「カイエ」1955年11月号掲載。アストリュック『悪い出会い』再論。リヴェットはこの作品のために「若者による若者のための若者の映画」というキャッチコピーを振ってみせる。若さとは陽気さでも浮薄さでもなく厳粛さだ。『悪い出会い』の主題はこのことだ。厳粛さはおよそひとに好まれるテーマではない(「『ゲームの規則』『ブーローニュの森の貴婦人たち』)。映画を観にくるひとは表面的なディティールの観察は好きでももっと深い部分での「正確さ」は好きではない。『悪い出会い』の強みはまさにその「正確さ」だ。
 ロマン主義の小説は「修業時代」を主題としていた。20世紀の小説はこの主題を継承できなかった。この主題を受け継いでいるのはむしろ映画である。ヒッチコックの映画が英国小説の継続であり、ホークスの映画がスティーヴンソンの継続であるように、アストリュックは同時代の小説家が書けないでいる『感情教育』を撮ったのだ(アストリュックはじっさいにこの7年後に『感情教育』を映画化する)。
 「ぼくたちは芸術に何を求めるのか。ぼくたちを弁護してくれることをだ。定着させることで、芸術は証明する[prouver]。見せることで、芸術は証明する[démontre]。『悪い出会い』はぼくたちの目を迷いから開かせる。ぼくたちはパリを、パリのひとびとを、これまでまったく見たことがなかったように目にするのだ」。知られるとおり、これはいまではリヴェットじしんの映画を論評する際のひとつの決まり文句になっている!

 以下は本作を「形式主義的」とする批評にたいする反論。「アストリュックの技法[art]は小説家のそれとおなじく教育的である」。「アストリュックの描写は行き当たりばったりではなく一貫してひとつの抽象的な観念に導かれている」。この「隠れた建造物[architecture secrète]」は観者の導きの糸となる。これをたどって物語に身を委ねればけっして裏切られることもない。観者は想像をめぐらせたり解釈や詮索をこらしたりすることなく物語を文字どおりに受け取ればよいのである。とはいえこうした態度こそ現代人がその習慣を失ってしまった最たるものなのだ。もはや神も悪魔も信じていない現代人にはこの真理があまりにも耳障りなのだ。アストリュックの意図は驚かせることではなく説得することだ。離れ業を期待してはいけない。ただいっさいの偶然を排除した物語の厳密な進行をたどればよい。「芸術の世界は必然の世界である」。必然があらゆるもの[エモーション、美]の代わりをする」。「そして論理と正しさ[justesse]、描写の真実と建築の正確さ[précision]との調和から崇高さが生まれる」。ひとは本作がさまざまな「効果」を狙っているとする。とはいえ効果とは「崇高さへの意志の技術的な呼び名」である。ヒッチコックやラングやウェルズにあっては「効果の多用は生まれながらに偉大さを志向する魂の徴しであり、はずしたときにのみ効果は欠点となる」。「ここではあらゆるキャメラの動きが魂の動きにしたがっている。演出は徹頭徹尾、照応への信頼、存在から放たれるひそやかな輝き[effluve]への信頼、そうした輝きが映画の形態そのものにおよぼす精神の力への信頼の上にうちたてられている。この輝きの波動がキャメラを引き寄せたり突き放したりするのである。クレーン移動のこのような神秘主義は滑稽に見えるかもしれないが、諸観念のほとんど身体的な現実、諸観念の神秘的な闘争と親和、諸観念の絶え間ない運動(これが厳密な意味での叙情だ)を信じない者にはおそらくこの映画は理解不可能である」……。
 ほぼ無意味な言辞の羅列?あるいみで典型的な「作家主義」的批評。