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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジャック・リヴェットの映画批評集成(その2)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.


 『批評文集』は「批評文」「モンタージュ」(共同討議に基づく長尺論文)、「ポルトレとオマージュ」「未発表の著述」「秘密と法」(エレーヌ・フラパとの対話)の五つのパートで構成されている。以下、編年体で編まれた「批評文」各篇の内容紹介。


 1950年

「ぼくたちはもはや無垢ではない」
 モーリス・シェレールエリック・ロメール)の薦めにより「カルティエ=ラタン・シネクラブ会報」に寄稿された処女論文。
 「ぼくたちは修辞[テクニック]で窒息し中毒にかかっている。フィルムの表面にうつしとる映画(cinéma-transcription):シンプルな『エクリチュール』に回帰しなければならない」。「フィルムの表面にひとの生き方やものの存在の仕方がどうあらわれているか、各々の小宇宙がどううごいているかを単純に書き込むこと。冷徹に、ドキュメンタリー的に撮影すること。宇宙を生きるがままにさせておくこと。カメラを証人の役割、眼の役割だけにとどめておくこと。コクトーはまさに『無遠慮』という観念を提示している。最大限にくっきりと。『覗き魔』にならねばならない」。
 「宇宙と眼差しはともどもいっこの同じ現実である」「そこにおいては視覚(vision)が物質(matière)を創りだすようにみえ(ルノワールの移動撮影)、物質が視覚を含んでいるようにみえる」。そのようなひとつの不可分の現実以外はいっさいが「見世物」にすぎない。
 「なるほど映画は言語であるが、それは具体的な記号でできている」として、ポーランが<修辞>に対置するかぎりでの<テロル>が顕揚される。


ジャン・ルノワールの『南部の人』」
 シェレールの創刊した Gazette du cinéma に掲載。
 プラン=セカンス、インプロヴィゼーションといったかつてのトレードマークが影を潜め、いっけん無個性なスタイルに回帰したアメリカ時代のルノワールをおとしめる通念が告発される(手段を目的と取り違えることなかれ)。「ルノワールは純粋な存在の領域から脱け出した。いまや事物はなにものかであり、愛はいまや覚醒している[lucide]。精神はいまや自由で明快[clair]である」。つまり処女論文でいうところの「各々の小宇宙」の前におのれを虚しくする境地に達したということだろう。


アルフレッド・ヒッチコックの『山羊座の下に』」
 「秘密」というリヴェット的キーワードが導入される。ヒッチコックキャメラは人物の内面に入り込むことを控えている。
 演劇と映画、あるいは俳優というこれもすぐれてリヴェット的主題についての初の考察。映画においてはショットのなかのあらゆる要素がひとつの調和を形成しており、人間はその世界に「如何ともしがたく[irrémediablement]」埋め込まれている。こうした機械的厳密さゆえに映画俳優に固有の演技は「メカニックな演技」となる。
 「俳優の身体は演劇においては身振りとことばの抽象的な支えにすぎないが、映画においてはその肉としての生々しい現実をふたたびとりもどす」。「映画においてはたえず肉体に精神が宿りに来る。なにほどかの造形的な醜ささえこの映画の純粋に精神的な[moral]美を際立たせるに至っている」。ヒロイン、バーグマンの変容にそれがみてとれる。


ビアリッツ総括」
 映画祭の形骸化への失望が吐露される。


ビアリッツ映画祭の主要諸作品」
 『ある愛の記録』のアントニオーニはもっぱら俳優(acteur[演技者] ≠ comédien [役者])を中心に映画の世界をくみたてているがゆえに審美主義を免れている。
 「ニコラス・レイの映画の中心を占めるのもまた俳優である」。『暗黒街の弾痕』におけるラングの厳密な演出が運命の役割を演じていっさいの希望をシャットアウトしているのにたいして、「ヘミングウェイの文体の映画的な等価物」によって撮られている『夜の人々』において運命は俳優の顔の上にじかに読みとられる。


「オルフェの不幸」
 コクトー『オルフェ』の独自性は神話の世界と偶然性の世界の交錯にある。「『オルフェ』は断片的で未完のギャング映画だ」。コクトーに関心があるのは「美学」よりも「倫理」である。コクトーは初期の技法偏重主義を放棄した。ウェルズ『マクベス』やエイゼンシュテインの『十月』といった超絶技巧を凝らした映画においては「映画が自壊し、被写体への信用の拒否によって映画が被写体を殺害するに至っている」。
 スクリーン上では「魂」(精神)は「身体」(肉体)に還元され、身体以外のなにものでもない。「映画は完全に身体的な[physique]アートであり、身振りや外見のみが重要であるようにおもわれるが、素材=物質[matière]のかずかずの変遷[vicissitudes]をとおしてなにかが輝き出る」という逆説。「映画の美は目や耳ではとらえられない」(コクトーの引用?)。それは「精神的な[moral]美」である。 
 「映画は[演]劇的なアートである。そこでは宇宙が諸力の対立によって組織される。いっさいが決闘であり葛藤である。しかしおそらく映画はみずから[の演劇性]の否定において成就される。つまり凝視[省察]において」。遠心的なアートである演劇においては観者への「感染」が起こる。一方、映画が演劇的な閉鎖空間を必要とするのは、観者がそこで自らに向き合うためだ。そのいみで映画は「内的なアート」である。スクリーンは「精神」にちょくせつ対峙する。「私はスクリーン上で私自身のもっとも密やかな[secret]宇宙と向かい合うのだ」。


「アレクサンドル・ストルペルの『本当の人間』」
 「映画においてダンスは特権的な行為である。そこでは身体の全体が肯定されると同時に廃棄される」。
 「他のどんなアートにもまして映画は受肉の神秘に接近する術を知っている。たったひとつの動きによって身体[受肉]そのものを人間の贖いと化してしまう。人間と人間を超越するものとを親密で身体的な結合によって繋ぐことで」。
 Gazette du cinéma は本稿が掲載された第5号をもって終刊。このあとリヴェットは翌年創刊の「カイエ・デュ・シネマ」同人となる。