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精神分析と映画をめぐる読書案内

マニー・ファーバーを読む(2)

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 さて、「地下の映画」における「トンネル」と「獣道」という二つのイメージは、その5年後の文章「白象の芸術 vs 白蟻の芸術」の中で、「白蟻」という一つのイメージに結びつき、「高くつくだけで何の役にも立たない」「白象(置物)の芸術」に対置されることになる。

 まず、「白象の芸術」の定義を確認しておく。文章の中ほどのくだりを引用すると、

 テレビと映画のメジャーな分野は、いまや、傑作にしか価値を置かない芸術に支配されている。この芸術は、かつて高価なだけで何の役にも立たない白い象の置物のたぐいを扱う競りで売られていた、ほうろう引の煙草加湿器や木彫りの子馬といったものを思わせる。白象の芸術には三つの咎がある。(1)物語[action]を等質的なパターンに閉じ込める。(2)一切の出来事、登場人物、シチュエーションをひと連なりの流れのなかにまとめあげる。(3)スクリーンとフィルムの隅々までを賞を狙える創意を表現すべき領域として扱う。

 それに対して、「白蟻の芸術」とは、こういう見かけの完成度と水も漏らさぬ一貫したシステムとは対極にあり、白象の芸術を食いちぎり、それを糧として形成されていくような芸術と考えてよい。
 
 ファーバーは、画家らしく、美術の話題から論を起こしている。

 このような惰性の古典的な事例は、セザンヌの絵画である。彼がエクス・アン・プロヴァンス周辺の森林を描いた親密さにあふれた表現においては、彼が「小さな感動」と呼ぶもの、木の幹の位置とか、農家の壁の上にかすかにアクセントをつけている心地よい色彩どうしのわずかなせめぎあいとかにこだわり惚けているときに、ぞくぞくするような、神経を刺激するような感興がところどころに生まれている。その他の部分は、自画自賛的な名作と同類の重々しさと厚ぼったさとものものしさときらびやかさの合成物である。彼が自分に興味のある独特の個人的な観点から遠ざかるとき、彼の絵画は、得るところなくとまどうようなものに変わってしまう。構図の中の込み入ったラインのバランスに気を配ったり、色彩を塗り重ねたり、カンバスの隅々まで描くといったことだ。セザンヌは皮肉にも、退屈な晩年の作品の種明かしとして、おそろしく率直な水彩画や未完成の油彩(陽当たりのよい木陰のパティオにいる妻のピンクに染まった肖像画)を残しているが、そこで彼は、ピンクの斑点をカンバスのところどころにちりばめることで人物と背景とのあいだに相互作用を生み出すたのしみ以外のすべてを忘れている。

 完成度を度外視してディテールに耽溺、惑溺すること。こうした態度が、どこに向かっているかを知らないまま、とりあえず目の前にたちふさがるものをがむしゃらに齧る白蟻の歩みになぞらえられることになる。白蟻という言葉が最初に出てくるのは、この少し先で映画について述べているくだりである。

 映画はつねに、なぜか白蟻的な芸術の傾向に憑かれてきた。すぐれた映画はふつう、クリエーターたち(ローレル&ハーディとか、レイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』の前半を脚色したハワード・ホークス=ウィリアム・フォークナーのチームとか)が、メッキされたカルチャーに対する野心をもたず、目的もなしに見境なくそこらをかじるビーバーのような一途さに邁進しているところから生まれるように思われる。白蟻的=サナダムシ的=カビ的=コケ的芸術に特殊な性質は、それ自身にとっての障害を食いちぎることで前進し、おそらく、その通り道には、熱心で、勤勉で、散らかし放題の活動の痕跡しか残さないということである。
 この種の芸術を一言で言い表すとこうなる。芸術は、白蟻と同じように、自分の前に立ちふさがる幾重もの壁を通して進むべき道を探り当てる。芸術家は、自らの芸術のすぐ前に立ちふさがる障害を食い破り、こうした障害を次なる仕事の条件に変えること以外の何らかの目的をもっているなどとは夢にも思わずに。事実、ローレル&ハーディは、Hog Wild といった彼らのもっとも消化不良で、もっとも可笑しいいくつかの作品で、「成功する方法」といった指南本を片っ端から読破した人の恰好のパロディーを提示しているが、身につけた知識をいざ応用する段になると、本能的に白蟻的なふるまいに立ち戻る。
 すぐれた白蟻的演技のひとつが、ジョン・フォードの『リバティー・バランスを射った男』に登場する(分厚く塗りたくったメーキャップによってしか区別のつかない、さえない、くどい演技の俳優たちが住みつく非現実的な宿場町で、ジョン・ウェインがぼんやりしたカウボーイを演じている)。これよりましなフォード作品はいくつもあるが、それらは、大雑把で大袈裟な演技や、黄金色の夕陽を背景にシルエットで捉えた山の端を行く騎兵隊のショットや、リズミカルにカーブを描くローザ・ボヌール[動物画家(1822-99)]ふうの構図のなかで大男たちが這い回っている場面の飽くことのない繰り返しを好む、仰々しいまでに厳かなアイルランド気質によってだいなしになってきた。ウェインの演技はある種の放浪者的な[hoboish]精神に染まっていて、腰臀部に体重をかけて後ろにもたれかかり、彼のまわりの生気のない、特徴のない登場人物たちと、ほろ苦くもたのしげな対照をなしている。あまりにも平穏なアリゾナの町には、前の晩に植えられたことが見え見えのサボテンがちらほらと生えていて、懐かしの俳優たちが型通りの酔漢や臆病者や貪欲な人の演技をしているが、そんななかでウェインは、ちっぽけな自分の居場所だけに注意を集め、魅惑的なプロフェッショナリズムと、壁にもたれかからせた椅子に腰かけるヒップなセンスによって、そのスポットだけをかじりながら、鞭を手にした大仰な役者(リー・マーヴィン)に目をやっている。サナダムシのようなペースで歩を進めながら、ウェインがその通り道に残していくのは、抜け目なく壁を掘り進む活動[=演技]のいくつもの切れ端だけである。——そのごつごつした顔つきには、苦渋と嫉妬が露であり、大きなからだは、ジョン・フォードのようなタイプの昔ながらの喧嘩っ早い男が演じる大乱闘にとうの昔に飽きてしまったという風情で、優雅に無聊をかこっている。

 『三つ数えろ』(1945)、『Hog Wild』(1930)、『リバティ・バランスを射った男』(1962)。ジャンルも製作年代もまちまちなら、着眼点もばらばら(脚色、ギャグ、演技)なこの三つの事例が、白蟻性というひとつのコンセプトによって大胆にも同列に置かれている。

 このうち、『三つ数えろ』は、もともと原作の複雑怪奇な筋立てで知られる映画。ちなみに、プロットのたどりにくさは、フィルム・ノワールという映画ジャンルの本質に属していることがらである。脚本は、ウィリアム・フォークナーとリー・ブラケットが別々の場面を担当し、あとから参加したジュールス・ファースマンが全体をまとめているが、物語中で起こる殺人事件の一つについて、その犯人が誰なのかが三人の脚本家の誰にもわからず、それぞれが原作者のチャンドラーに問い合わせたところ、原作者本人にもその答えがわからなかったというエピソードが残っているほどだ。監督のハワード・ホークスも、原作を覆う独特の雰囲気に魅了されて『大いなる眠り』の映画化を決めたが、筋はたいして理解していなかったという。ホークスと脚本家たちは、もともと穴だらけで整合性に乏しい原作を脚色するにあたり、むりやりつじつまをあわせてわかりやすくするという行き方を賢明にも選ばず、ストーリーのおもしろさよりは、キャラクターやディテールの魅力によって勝負しようと割り切った。そのためには大胆な即興の導入も辞さず、たとえば、ドロシー・マローン演じる身持ちの軽い書店員とボガートの愉快なやりとりは、そのようにして生まれた名場面だ。ホークスの映画は往々にしてそうなのだが、この作品も、ストーリーを追うよりは、ひとつひとつのシーンごとに味わうべき映画になっている。水彩に取り組むセザンヌと同じように、ホークスは白蟻さながら、全体としての完成度を度外視して、進行中のエピソードを豊かにすることだけにひたすら集中している。いわば、『三つ数えろ』の物語は、きめられたプランに沿ってディテールを配置することによってではなく、脚本家と監督が彼ら自身おもしろがりながら丹精こめてつくりあげたディテールがおのずからつみ重なって、自然発生的に形をなしたものであって、そういう無計画性ゆえの、矛盾に満ちた、わけのわからない、いびつなストーリーラインは、いわば白蟻が通り道を掘ったあとにおのずから堆積する奇怪な構築物としての蟻塚に相当するものであると言ってもよかろう。

 ここでふと思い出すのは、ジム・ジャームッシュのある発言だ。ジャームッシュによれば、彼が師のニコラス・レイから学んだ最大の教えは、とにかく撮影中の場面だけに全力を傾けよということだったという。最終的な完成度とか全体のバランスよりも、個々のシチュエーションやディテールや演技の強度とリアリティにひたすら賭けること。思えば、『夜の人々』にせよ、『理由なき反抗』にせよ、『大砂塵』にせよ、『エヴァグレイズを渡る風』にせよ、ニック・レイの任意の映画を見ると、いかにもそのようにして撮られたことがひしひしと伝わってくるものばかりである。この伝でいけば、レイとジャームッシュのみならず、古くはフイヤード、ガンス、シュトロハイムから、ヴィゴ、ロッセリーニ、カサヴェテスを経て、リヴェット、カラックスに至る監督たちは、典型的に白蟻的な芸術家と言えるのではないか。いずれも、映画のなかのひとつひとつの瞬間の尋常ならざる強度と、奇形的でいびつなストーリーラインを特徴とする映画の撮り手たちだ。

この項つづく。