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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネー著作集を読む(2)

*Serge Daney : La maison cinéma et le monde, tome 1, Le temps des Cahiers, 1962-1981, P.O..L., 2001)

 Visage du cinéma 創刊号に掲載された『リオ・ブラボー』論につづき、同じ雑誌の第2号(1963年)に『暗黒街の顔役』についての短い文章がある。「映画作家はきまって二次的な作品や凡庸な作品で評価される」との皮肉な一節につづけて、これまでホークスと言えば『暗黒街の顔役』という評価が支配的であったが、この作品はホークスの仕事のひとつの通過点にすぎないとコメントしている。同じ号には「ゲームの規則」と題された長文の『野望の系列』論も掲載されている。
 プレミンジャーは存命中のもっとも偉大なアメリカ映画作家である。かれの『野望の系列』は、溝口にとっての『新・平家物語』(フランスの映画狂にとってのカルト的作品)に相当する。プレミンジャーについていわれる「つめたさ」とは慎みを隠す鎧にほかならない。「氷もまた燃焼する」……。プレミンジャー的主題は、ひとつの閉鎖的なmilieu(集団=裏社会)の昆虫学的観察である。その milieu のメカニズムは、それ固有のルールをいただくゲームであり(賭博や社交ゲームというモチーフ)、ゲームの規則にしたがわない者を排除することで成立している。「プレミンジャーのすべての作品は、ホイジンガのいう“ホモ・ルーデンス”の演出である」。こうした観点から「裁判」「円環」「演出」というプレミンジャーに近しいテーマ群がいま一度召喚される。たとえば、よそものを血祭りに挙げるべくじわじわと取り巻いていく「円環」。milieu に渦巻く陰謀という「演出」。ラング晩年の作品と同様、演出そのもの、映画監督のなりわいそのものが映画のテーマになる。つまり、この作品は映画作家の自己告白である(「魅惑」「催眠術」というモチーフしかり)。
 というわけで、ホークス論につづいて優等生ぶりを見せつけた典型的な作家主義的批評。ダネーはこの年のベスト作品に『捕えられた伍長』と同率一位でこの『野望の系列』を挙げている。ちなみに3位以下は、『ハタリ!』『アポカリプスの四騎士』(ミネリ)『陽動作戦』『女と男のいる舗道』『新・七つの大罪』のドゥミ篇、『追跡』(ブレイク・エドワーズ)、『キング・オブ・キングズ』『昼下りの決斗』というラインナップ。
 このあとダネーはリセ時代からのまぶだちルイ・スコレッキとつるんでアメリカに貧乏旅行を敢行。スタンバーグウォルシュマッケリーキートンといった晩年の巨匠たちに試みたインタヴューを手みやげにあこがれの「カイエ」の同人となる。「カイエ」に発表したはじめての文章は、シネマテークでのドンスコイ特集の報告。ドンスコイ作品における「子供たちの頑な顔のなかに捉えられた、神経質で、明日の保証もなく、つねに脅かされた生存は、ほかのロシア映画作家たちよりもグリフィスに近いものだ」。ここでは(とうぜん念頭にあったであろう)『狩人の夜』が言及されていてもおかしくないところだ。よるべのない子供の不安に投げかけられたこういうまなざしには、それまでの優等生的な文章には感じられなかったダネーらしさがすでに読みとれるとおもうのだが、どうだろう。対位法とトーンの急変と構成の複雑さのうえに成り立つドンスコイの映画の音楽性。そこに宿るモダニズム。破裂と不協和がさいごにひとつのメロディー、トーンに行きつく。「生の勝利」だ‥‥このへんはお約束の「カイエ」調。