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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネー評論集 La maison cinéma et le monde を読む(その14)

 承前レスリー・スティーヴンスの「Incubus」にはドキュメンタリー的な価値は皆無だが、そのことを逆手にとれれば斬新で感動的な映画になっていたかもしれない。「Incubus」には二本の映画(ファンタジー、ホラー)がつまっているものの、そのいずれもが失敗作だ。キャメラ被写体から離れすぎたりぎゃくに寄りすぎたりで適切な距離をみきわめられずにいる。見るべき細部は多いが、作品自体を救うにはいたっていない。最後に光が勝利するのは、われわれが影というものを想像する力のとぼしさの帰結にすぎない。これは未知なるものとの遭遇を物語るあらゆる映画が陥るパターンだ。
 ヴォイチェフ・イェジー・ハス『サラゴサの写本』評は、ボルヘスの引用ではじまる。死すべき人間のおこないやかんがえのはかなさ。畢竟それらは悠久のいにしえよりくりかえされてきたもののこだまであり、永劫の未来にまでくりかえされていくもののさきがけにすぎない……。このことにおもいをいたすときにわれわれをとらえるめまいの感覚こそ、ハスが画面に定着しようとしたものであるはずだ。ところがハスの文体アイロニーポーランド派のトレードマーク)とエレガンス(マニエリスム)は、被写体とのあいだにひつよういじょうの距離を介在させることで、このめまいの感覚をころしてしまっている。この作品はその冗長さをもって永劫回帰の表現に代えているつもりらしい。無償性についての無償の(どーでもいい)映画。無益さについての映画が厳粛かつ厳密でなければならないことは『戦争は終わった』をみればわかる。生は死にとりまかれている(フレーミングされている)がゆえに尊厳を身にまとう。そのはかなさゆえに生は緊迫したものとなる。映画のショットも同じ。そのいみでは死が芸術を可能にするのだ。いつ終わるともしれない長尺の『サラゴサの写本』にはこの緊迫感がない。生の切迫性がない。つまり芸術がない。ゴンブロヴィッチ、ケベードへの言及があり、ポーラン、アシモフが援用される。ダネーの文学青年ぶりがうかがえる。