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精神分析と映画をめぐる読書案内

「哲学者の身体」:ジャック・ランシエールの後期ロッセリーニ論

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*Jacques RANCIERE : L'écart du cinéma, La fabrique, 2011.

 ランシエールエッセー哲学者の身体:ロッセリーニ哲学映画」は、テレビに活動の場を移した後期ロッセリーニが手がけた哲学者の伝記映画において、思想が映像のうちにいかに「受肉」するかという問題を考察している。これにさきだちランシエールカイエ・デュ・シネマ社から刊行された Roberto Rossellini 1990年)という本に「La chute des corps[物体の落下=身体の挫折]」と題する論考を寄せている。「哲学者の身体」は、そこで考察されたロッセリーニにおける身体、受肉という問題意識をひきつぐものであるといえる。ただし、ここでは「教育家」としての後期ロッセリーニと「映画作家」としてのロッセリーニとの葛藤が問題にされている。
 ランシエールによれば、哲学を映像化する方途は三つある。(1)図解。哲学者が生きた時代の衣裳をまとわせ、同時代の絵画を参照した映像をつくる、など。(2)ドキュメンタリー哲学者を限界づける「環境」を見せることで哲学を「感覚的」にする。哲学書の印刷の過程を即物的提示する、など。(3)「主観化」。哲学の言葉は哲学者という「概念的人物」(ドゥルーズ)の「パトス」として提示される。(1)にはパスカルが『パンセ』の有名な断章でのべたような哲学者の「イメージ」に惑わされるという危険が伴い、(3)は哲学哲学者の内面に還元する危険がともなう。最初の哲学者映画『ソクラテス』は、はやくも哲学の映像化への二重の障害と直面する。ソクラテスはまさに外見と内面の不一致において特徴づけられる哲学者だ(「逆説的身体」)。さらに、ソクラテス的な知は本質的に伝達不可能である。ランシエールはここで『ソクラテス』を前・中期ロッセリーニの作品群におくりかえす。ソクラテスの登場場面でかれは混乱(無秩序 désordre)にまきこまれる。これは『アモーレ』や『イタリア旅行』でマニャーニやバーグマンがまきこまれた混乱を想起させる。ロッセリーニじしんも、ソクラテスを『ヨーロッパ一九五一年』のイレーネになぞらえる発言をしている。ランシエールによれば、ソクラテスが路上でまきこまれる「無秩序」は、映像に「秩序」を導入する。「私はじぶんが無知であることを知っている」という「逆説の定型表現」に訴えることで、紋切り型の賢者のイメージのうちに哲学者を回収してしまい、哲学者は白痴の女や狂った女との迷惑な親近性を免れる。その結果、『ソクラテス』は「図解」的な機能が「主観化」の可能性の根を摘んでしまっている。『デカルト』と『ブレーズ・パスカル』は哲学者を時代のうちに位置づけることで時代に先駆けた哲学的英雄(héros)としてえがきだすことに成功している。その方法は3つある。(1)哲学者をその時代「とともに」(avec)えがく。たとえば、セットのなかに印刷機望遠鏡、計算機、乗り合い馬車といった当時の最新テクノロジーをあしらう、など。(2)その時代「にさからって」(contre)えがく。前近代的な迷信や狂信とのかれらの戦いをドラマ化する、など。(3)その時代「のなかで」(dans)えがく。すなわち、当時の儀礼の体系や心性(感情etc.)のなかに哲学者を位置づけること。同時代の物質的・精神的枠組みの内部から哲学がどのようにたちあがってくるのか。その過程をあとづけること。この方法、こうした時間の捉え方をランシエールは「アナール」学派の歴史学に通じるものと指摘している。いわば(1)、(2)が単純過去形による語りであるのにたいし、(3)は半過去(過去進行形)によるそれ、ということなのか知らん? 「アナール」のリュシアンルフェーヴルは、いみじくもデカルトパスカルの時代の生活がすぐれて儀式性によって分節されていたことを指摘している。『デカルト』にも『ブレーズ・パスカル』にも、毎朝の儀式のように使用人が寝台のカーテンを開けて哲学者を目ざめさせるという場面が何度か出てくる。ランシエールによれば、このディティールはたんなるドキュメンタリー的な配慮ではない。日常的な目覚めの光景は、思想の「めざめ」の隠喩でもある。ところでこうした儀式性は、まさにルイ14世による統治の手段でもあった(前回のダネーの『ルイ14世の権力掌握』論参照)。『ブレーズ・パスカル』はこのような政治性にまきこまれることを避けるべく高度に戦略をめぐらせた作品であるとランシエールはのべる。そもそもパスカルこそ、哲学者のそれをふくめた権威なるものがその外見(イメージ)によって生まれることをあばきだした当のひとである。しかしロッセリーニはこれを逆手にとり、パスカルのイメージを利用してその哲学を映像化してみせた。パスカルはすぐれて「くるしむ身体」である。真空の理論や無限をまえにしてのおののきは、もはや身体をささえていられない一個の精神による思考として提示されるがゆえに説得力をもつ。真の宗教の発見を「熱に浮かされたように」語るのは、やはりもじどおり熱に浮かされている哲学者である。「思想を受肉し、知覚可能にし、情動のように生きたものとするのにふさわしい身体は病んだ身体である」。ランシエールはこうした状況を、思想をねづかせる身体のその思想にたいする「反逆」としてイメージする。デカルトは健康体だが、怠惰さからパスカルにもましてベッドにしがみつく哲学者としてえがかれている。パスカルの病とデカルトの怠惰は、「思想の構成要素としての消尽(entropie)、よわさ、挫折」をあらわしている。そこにおいていわば身体がその活動性を思考に転移させ、「静止した身体から運動する(en marche)思想への移行」がおこっているのだ(注射器の真空のなかを水がのぼっていくように?)。「デカルトの怠惰な身体とパスカルのくるしむ身体は、思想をあるしゅの困惑的事態(scandale)にするが、それはさらに困った事態と絶縁するためである」。かつてのロッセリーニ映画のヒロインたちの、アイデンティティを阻む「スキャンダラスな身体」のことである。哲学者を大地にへばりつくように横臥させることで、教育家としてのロッセリーニは非合理的なものにたいする理性の勝利をうたいあげているかのようだ。かつてのヒロインたちが身をゆだねた奇跡といった超自然的な要素の出る幕はもちろんない。しかし、哲学受肉のために映像の力にうったえざるをえないかれは、哲学者たちが身体と思想のあいだを揺れ動くように、映画作家と教育家の立場のあいだをたえず揺れ動いている(かれはすぐれて「媒介者」である)。
 受肉というものがんらいの逆説は、これにさきだつ論文「La chute des corps」においても問題にされていた。ヒロインたちは、偶像破壊(『ヨーロッパ一九五一年』のバーグマン)と偶像崇拝(『イタリア旅行』のバーグマン)のあいだをとめどなくさまよう。奇跡はその分裂した二つの軌道が出会う一点である……。「La chute des corps」もまたその両義的なタイトルが推測させるように、ロッセリーニの映画を、宙吊りになった身体(パスカルの「くるしむ身体 corps souffrant 」でつかわれている souffrant には、en souffrance という場合の「宛先不明」というコノテーションをくみとるべきかもしれない)、身体の受難の物語と位置づけている文章である。『無防備都市』にこめられた「自由」への願いは、重力から解放され、空中で静止したかのようなマニャーニの身体がまとう「軽さ」に、倒れていくかのじょの身体の軌道がえがくマチスの鳥さらながらのアラベスク模様の美しさにやどっている。あるいは『ドイツ零年』のエドムントの身振りはいかなる意図にも従属していない(バックナンバー「ジャック・ランシエールアンソニー・マン論」も参照)。ドゥルーズロッセリーニの人物の状況にたいする不如意、反応の不可能性を口にした。これにたいし、ランシエールロッセリーニの人物を、崩壊した世界といった意味づけに縛られることなく、おのれをラディカルに偶然に委ねる途方もなくスキャンダラスで途方もなく自由な身体とみなしているようだ。