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精神分析と映画をめぐる読書案内

『明晰な作品』:ジャン=クロード・ミルネールのラカン論(その4)

*Jean-Claude MILNER : L'Œuvre claire ; Lacan, la science, la philosophie, Seuil, 1995.


 承前。言語が主体の代理(tenant-lieu)であることは、スターリンヤコブソンも気づかなかったラカンのオリジナルである。ラカン的な構造主義の意義はここにある。構造主義ガリレイ的な数学化の厳密化であり、「拡大した数学化」にほかならない。すなわち、厳密な意味での数学解析学代数学 etc.)には基づいていない。さらにその対象を自然界から人間の領域(文化)にまで拡大している。近代科学がその黎明期文献学の厳密さをモデルにしたように、構造言語学という「数学」が人間の科学ガリレイ的自然科学を結びつける。ラカンは構造言語学ミニマリズム(理論、対象、特性におけるそれ)を徹底化する。シニフィアンとは構造言語学的な構造概念から切り出された「連鎖」という「ミニマムな構造」の謂いであり(シニフィアンとは連鎖であり、連鎖とはシニフィアンである)、<他者>とは純粋な差異の体系に最小化された構造言語学の対象の別名である。「無意識はひとつの言語(langage)として構造化されている」というテーゼは同語反復であると同時に矛盾である。構造はすでにして言語であり、「ひとつの」は複数の言語構造の存在を前提しているから。このテーゼはたんに「無意識は構造化されている」と述べている。そのいわんとするところは「任意の構造は任意ならざるいくつかの特性をもつ」という「超構造的仮定」に要約される。これはラカン理論の核心に迫る[カント的ないみでの]超越論的命題である。そしてこのような任意の構造によって規定される主体が「科学の主体の仮説を解決する」。

 第一の古典期にはいくつかの不安定要素が内在している。(1)歴史主義にかんして。『エクリ』は「創設的出現」「継承」「同時代性」といった観念に依拠している。さらに切断の理論と主体の理論が呼応していない。(2)数学化の観念にかんして。ガリレイ主義における数学論理学公理化)の不在。(3)「理想の科学」(構造主義)と「科学という理想」(現代科学)の矛盾。(4)文字の観念の不正確さ。(5)過渡的な言語学への依拠。ソシュールアナグラム草稿の発見、それにインスパイアされたヤコブソン詩学チョムスキーの登場などいちれんのきっかけによる構造言語学の限界の露呈。
 かくして第二の古典期への移行がおこる。『エトゥルディ』において導入されたマテーム(音声学にとっての音素のように数学数学性それじたいを定義する「知の原子」)によって文字化が徹底される。文字化と数学化の位階を逆転させ、文字化こそが数学化の原理であるとしたブルバキにならいつつ、それを徹底化させた「超ブルバキ主義」が第二の古典期を導く(ラカンにとって、ブルバキはいまだじゅうぶんにブルバキ的ではない)。第一の古典期においては連続的とみなされていた構造言語学(言語)とブルバキ数学(文字)とが峻別されるに至って、言語学はその重要性を失う。
 第二の古典期は第一の古典期における「拡大されたガリレイ主義」を放棄しない。ぎゃくにそのテーゼを再確認する。ただしそこにおいて想定されている数学はすでに「非ギリシャ化」している。マテームは第一の古典期の根拠を解明し、そのことによって精神分析に第一の古典期の継承をうながすだろう。(つづく)