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精神分析と映画をめぐる読書案内

『明晰な作品』:ジャン=クロード・ミルネールのラカン論(その3)

*Jean-Claude MILNER : L'œuvre claire ; Lacan, la science, la philosophie, Seuil, 1995.

 承前。ここでミルネールは一見コイレとは対極に位置するようにおもえるポパーを召喚し、コイレに対峙させる。ある命題は、その否定が単純な観察に論理的に矛盾しない場合にのみ反証可能である。言い換えると、その指示対象はそれとは別のものであることができなければならない。これは偶然性ということをいみしている。つまり、偶然的な命題のみが反証可能である。それゆえ、偶然的なものについての科学しか存在しない。逆に、あらゆる偶然的なものは科学の対象たりうる。そして科学が包括する偶然的なものの総体が「宇宙」である。

 かくして、偶然性という観念をとおして、コイレの歴史主義的なテーゼポパーの構造的なそれがむすびつく。このとき、「主体の方程式」はつぎのように書き換えられる。「精神分析が操作する主体は、現代科学と相関的であるかぎりで、偶然的なものと相関的である」。かくしてラカンポパーという「ミッシングリンク」に依拠することでコイレとコジェーヴから偶然性という観念を引き出す(ラカンじしんはポパーに言及していない)。偶然性は可能世界の無限性と対になっている。偶然性はこの無限を宇宙の外部にではなく内部そのものに位置づける。「宇宙の無限は根源的な偶然性のしるしである」。そこからすぐれて現代的なテーゼ「宇宙に有限性は存在しない」が引き出される。そしてなにものも宇宙のなかにしか存在しない以上、「有限性は存在しない」。なぜなら「宇宙の外部は存在しないから」。とりわけ、主体は宇宙の外部に存在しない。これが主体のトポロジー的な規定である。宇宙の外部は想像できない。それゆえ、<神>とか<人間>とか<自我>とか「魂」という宇宙の外部をなす例外的表象が発明されてきた。その魂なるものの現代版が「意識」である。それゆえ無意識とは宇宙の外部はないということにほかならない。「神は無意識である」(ラカン)。かくして、「精神分析の根底は無限の宇宙と偶然性についての学説である」。死および性についての学説もここからあきらかになる。死は有限性のしるしだと信じられているが(ハイデガー)、「死が精神分析において重要になるのは無限性のしるしであるかぎりにおいてである」。「有限性のしるしであるかぎりでの死は精神分析においては無である」。あるいは「死はあるひとつの欲動[死の欲動]の対象であるいがいは無である」。一方、性は「身体における無限な偶然性の場」にほかならない。「無意識は話す存在の思考のなかへの無限な宇宙のとりこみ(prise)であり、そのかぎりにおいて性的でしかありえず、他方、性は話す存在の身体のなかへの無限な宇宙のとりこみであり、そのかぎりで無意識的でしかありえない」。

 第3章。60年代の思想は、歴史上に「いくつかの切断がある」という考えを前提している。これはパウロ以来(「一方でギリシャ人たちは知恵を追い求め……」)のモダニティの観念の一バージョンである。バルトにせよアルチュセールにせよコイレにせよ、思想の切断を歴史的にとらえている。ミルネールによれば、フーコーはその例外をなすが、ラカンほど徹底していない。ラカンは、コイレとコジェーヴから、いっさいの共可能的な言説をまきこむ切断の存在を引き出す(「大切断」coupure majeure)。なにものもその切断をまたいで同一ではありえない(それゆえたとえば哲学の歴史とか文学の歴史というものじたいが成り立たない。「哲学」や「文学」それじたいがすでに同一のものではなくなるのであるから)。フーコーは、独立した複数の切断の体系を想定し、たとえばキリスト教が性の歴史における切断ではあっても狂気の歴史における切断ではないとしている点で、「大切断」もしくは<革命>の存在を想定していない。大切断を免れる場所についての問いに、コイレもコジェーヴラカンもとりくんでいない。とりあえず、言語(langues)がそうではないかと考えてみることができる。「下部構造の変化は言語の変化をともなわない。言語の変化は下部構造の変化の結果ではない」(「スターリン定理」)。形式としての言語(「構造」)についてはそうかもしれない。ヤコブソンがこれを諾ったのも宜なるかな。構造についてのラカン問題意識はまずもって大切断を免れる基準座標軸(repère)への問いであるだろう。ラカンはこの点においてマルクス主義に接近する。数学に基準座標軸をもとめるのもやはりスターリン定理にしたがうことだ(ガリレイはまさに数学言語化した)。それにたいし、反スターリン主義者フーコーは留保を置いている。ラカンによる大切断の仮説は、ぎゃくにいうと絶対的な運動、絶対的基準座標軸の存在をあらかじめ想定している。大切断を歴史主義的に考えるなら、スターリン定理が必要だ。ラカンは歴史主義的にとらえなかったので、絶対的基準座標軸を言語にもとめることにあまんじていない。絶対的基準座標軸は言語そのものではなく、言語がその代理(tenant-lieu)となるもの、つまり主体である。「四つの言説」の意義はここにある。時系列的ならざる切断は必然的に「場所論」に求められ、その絶対基準座標軸は atopie (非場所)という次元に位置づけられる。すなわちシニフィアンの主体の insistance[≠ ex-sistence] に。かくして、コイレとコジェーヴの定理は、科学の主体の仮説およびシニフィアンの主体としてのその定義を認めることによってはじめて根拠づけられることになる。そのような主体にはたらきかけるのは治療における「解釈」である。ラカンは解釈を、そのまえとあととではなにものも同義ではないような言葉を発する行為と定義している。「精神分析の実践は解釈である。精神分析が要求する主体――精神分析が「解釈」する主体――は大切断によって構築されるかぎりでの科学が要求する主体である。どんな大切断もひとつの解釈の構造をもつ」。ここにおいてスターリンが、それゆえマルクスがのりこえられる。