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精神分析と映画をめぐる読書案内

ロバート・ウォーショーの「映画の年代記:西部の人」

*Robert Warshow : Movie Chronicle : The Westerner, in The Immedi-ate Experience, Harvard University Press, 2001.

 ウォーショーの西部劇論。「悲劇的英雄としてのギャングスター」と並ぶ名篇として知られる。

 発表されたのは、1954年。ペキンパーや「マカロニ」ウェスタンの到来にはまだ間があり、西部劇の「死」こそ口にされてはいないものの、すでに『牛泥棒』『拳銃王』『真昼の決闘』『シェーン』といったモダンな作品が撮られ、ジャンルの変容(ある者たちによれば「衰退」、別の者たちによれば「進化」)がひしひしと実感されていた時期である。

 冒頭を読めば、この文章が「悲劇的英雄としてのギャングスター」のいわば続編として書かれたことがわかる。

 アメリカ映画の生み出したもっとも成功したジャンルは、ギャング映画と西部劇だ。銃を手にした男たちの映画である。物理的な小道具としての銃、そして、それを使う際の身ぶりが、この二つのジャンルのいずれにおいても視覚的かつ感情的な中心となっている。この事実は、アメリカ人のこころのなかの世界(fantasy life)において銃が担う重要性を反映していると思われる。

 この書き出しからはさらに、「映画の年代記西部の人」がギャングスター論と同様の一篇のアメリカ人論あるいは現代アメリカ論になっていることもわかる。さらに言えば、アメリカ人の倫理に大きく関わる問題が扱われていることも。

 アメリカ人のこころのなかでは、洗練、美徳、文明、信仰そのものは女性的なものと見なされ、それゆえに女性のほうがある意味で深い智慧をそなえているようにイメージされている。その一方で男性は、自信にあふれた外見にもかかわらず、根本的な部分では子供っぽいのだ。しかし、文明の優雅さを欠いた西部は、「男たちが男たちのままでいられる」土地である。西部劇では、男性のほうが深い叡智の持ち主であり、女性たちは子供っぽい。

 ただし、娼婦や酒場の女は別である、という但し書きがつく。

 ギャングスター映画が現代アメリカの真実をまさにその内奥からえぐりとってみせているとすれば、西部劇は文明が誕生する以前の視点に立って現代世界を射照している、とこう要約できようか。

 それゆえ、すぐれて現代的な社会問題である「貧困」といった現象は、西部劇の世界にはとうぜん存在しない。

 西部劇には貧困は存在しない。逆に富もやはり存在しない。物語にあれほど頻繁に登場する牧場の広大な所有地や金の輸送は、精神的な実体であって、物質的な実体ではない。奪い合いの対象ではなく、そのきっかけにすぎない。いわんやそうしたものを所有することなど問題にもならない。

 また、法が敷かれる以前の世界には、わるものの鼻先につきつけて「これが正義じゃ!!」とふりかざすことのできるはっきりと文字に書かれた正義も存在しない。

 では、正義はどこに宿るのか? 

 ヒーロー個人の内部に、彼のひとつひとつの身ぶりのなかに、つまり彼の「イメージ」のうちに、である。

  西部劇における真の「文明」は、つねに一個人によって体現されている。善悪はあくまで個人的な態度の問題であって、その社会的帰結によって計られる問題ではない。そして善と悪の葛藤は、生身をそなえた二人の男の決闘である。根底から揺さぶられ、見た目にも破滅が明らかであるとしても、ガンマンはなおも西部の英雄なのだ。おそらく、彼の価値が、彼自身の存在のうちに——つまり、彼のたたずまい(presence)のうちに、彼が観客の眼をひきつけるやり方のうちに——すっかり表現されなければならず、しかも[もはや英雄などではないという]事実と矛盾する仕方で表現されないのであってみれば、なおのことそうなのだ。彼が何をしようと、彼は正しく「見える」。そして彼が不死身なのは、他人が彼を裁く権利を認めることなく、彼自身がおのれの過ちを裁き、すでにおのれの過ちを受け入れ、自分にできることは、自分が殺されるときが来るまで、決闘のドラマを演じ続けることだけだということを理解しているからだ(保安官と酒場の女を除いてこれを理解できる他人はいない)。

 この意味でこそ、 西部の男は本質的に(naturally)孤独である。彼は状況によって強いられたものではない生まれついての(organic)孤独をその身に宿している。

 それゆえ、『真昼の決闘』で住民たちが保安官を助けようとしないのを不思議に思う必要はないのだ。主人公に味方がいるとしたら、その場合にはかえって、味方の姿をどうやって見せずにおくかという演出上の工夫が必要になってしまうだろう。

 西部の男はなんのために戦うのか? われわれは、彼が正義と秩序の味方であることを知っており、それゆえもちろん、彼が正義と秩序のために銃をとると言うことはできる。しかし、こうした漠然とした目的は、けっして彼の真の動機と正確には一致しない。正義や秩序はたんに彼にきっかけをもたらすだけだ。説明を(ふつう女性から)求められたときに、西部の男がみずからこのんで口にする答えは、「やるべきことをやる」というものだ。正義と秩序が彼の助けをもはや必要としないとき、彼には出番がなくなる。じっさい、西部の男はよくそういう立場に立たされる。西部の町に法が敷かれるとともに、彼は自分の役目が終わったことを認めざるを得なくなる。そういう作品は彼の死か、さらにさいはてのフロンティアへの出発で幕を閉じる。究極的には、彼が守るのは、彼自身のイメージの純粋さである。——つまり名誉だ。このことゆえに、西部の男は不死身なのだ。ギャングスターが殺されるとき、彼の人生全体が間違いであったことを思い知らされる。しかし、西部の男が守ろうとするイメージは、敗北に際しても勝利に際しても明確に表現することができる。彼は利得や権利を求めてたたかうのではなく、あるがままの自分を維持するためにたたかうのだから。そして、彼はそのようにあるがままの自分を許容してくれる世界にしか棲むことができない。西部の男は最後のジェントルマンであり、彼の物語をくりかえし物語ってやまない映画たちは、おそらく名誉という観念がその力をとどめている最後の芸術形態である。

 西部劇では、すべての精神性、すべての道徳性が集約される主人公の「イメージ」がことのほか重要である。極端なことを言えば、イメージこそが主人公のすべてなのだ。

 こうした価値は、腰に銃を提げている単独の男のイメージのなかに宿る。銃がわれわれに、彼が暴力の世界に住まっていることを告げ、彼が「暴力を信じている」ことをさえ告げる。[……]西部劇には残酷さはほとんどない。そして感傷もほとんどない。観客の視線は敗れ去った者の苦しみにではなく、もっぱら主人公のふるまいに注がれる。じっさい、西部劇の「核心」をなすのは、暴力ではまったくなく、暴力のなかでこそもっとも明確に表現されることのできる男のイメージであり、スタイルなのだ。玩具の拳銃を構えている子供をよく見ればわかるだろう。この子にもっとも興味のあることは、(われわれの懸念とは裏腹に)他人を傷つけるという空想ではなく、ひとりの男が銃を撃ったり、撃たれたりするときどのように見えるかをまねてみせることなのだ。英雄とは、英雄のように見える者のことである。

 「イメージ」と訳してしまうと、何らかの主観的な価値づけをともなった実体であるかのように思えてしまうが、ぎゃくにウォーショーが念頭に置いているのは、特定の価値づけを被る以前の「映像」の客観性、ひとつひとつの身ぶりやふるまいを写したショットに宿る純粋な可視性のことであろう。西部の男が命がけで守ろうとするのは、このようなタブララサな映像の客観性である。自分のふるまいを観客が正しく、かつ自由に判断してくれるように。

 西部劇では「見かけがすべて」であり、「謎がなく、その世界全体が観客がスクリーン上に見るもののうちに含まれている」。

 ウォーショーが思い描く西部劇とは、道徳的な御託が一切なく、道徳的な考察が完全に視覚表現に溶け込んでいるような映画であると言えよう。 

 御託をいっさい排除したこうした映画が、実はこのうえなく高度な倫理性を内包させているのだ。道徳をふりかざした御託は、ウォーショーのもっとも嫌悪するところである。

 現代文明に行き渡っているよく知られた世論のひとつの特徴は、暴力の価値を認めることの拒否である。このような拒否は道徳的だが、多くの道徳がそうであるように、一定の意志的な盲目を含んでおり、偽善を増幅させることにしかならない。

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 「映画の年代記西部の人」には、映画のメディウムをめぐるするどい考察もふくまれている。

 西部劇の実りある変奏の可能性にかぎりのあることはいまもってほんとうである。西部劇という形式が無限にくり返されてきたあとでなおも新鮮さを保っているのは、映画媒体の特殊な性質ゆえである。映画では、ひとつの被写体と別の被写体——とりわけ一人の俳優と別の俳優——との物理的相違がきわめて大きく、これが文学のいろいろな型を不滅にしている言語表現の豊かさの代わりをしている。この意味では、映画の「語彙」は、文学のそれよりはるかに豊富で、おもしろく意義深いアレンジを施す余地がはるかにひろい。(このことは、なぜそこそこにすぐれた作品がいろいろな文学形式におけるよりも容易に作れてしまうかの説明になるかもしれない。そしておそらくまた、なぜ映画の芸術としてのステータスがたえず問いに付されるのかの説明にもなっている。)

 スタンリー・カヴェルがどれほどウォーショーに影響を受けているかがわかろうというものだ。カヴェルの『眼に映る世界』(法政大学出版局刊)第9章の本文および註も、「映画の年代記西部の人」にインスパイアされたところ大であることが歴然としている。