alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

パーカー・タイラーを読む(その1)

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 『眼に映る世界』のスタンリー・カヴェルが謝辞を捧げている先人の一人にパーカー・タイラーがいる。

 昨年刊行された The Rhapsodes : How 1940's Critics Changed American Film Culture (シカゴ大学出版)のデヴィッド・ボードウェルが、アメリカの映画批評の“四天王”の一角にそのタイラーを位置づけているのにはうならされた。

 残りの三人は言うも更なり、オーティス・ファーガソン、ジェイムズ・エイジー、マニー・ファーバー。

 四人めにロバート・ウォーショーではなくタイラーを挙げているのがミソだろう。

 かれはシュルレアリスムに薫陶を受けた詩人・作家でもある。

 雑誌のレビューを中心に活動したほかの三人とはちがって、タイラーは書き下ろしの映画論を何冊か上梓している。

 そのうち、最初の映画論 The Hollywood Hallucination (1944) とそのつぎの Magic and Myth of the Movies(1947)は、映画批評のカノンとして祀られるのがふさわしい重要作である。さらにチャップリンのモノグラフィーもものしている(Chaplin, Last of the Clowns, 1947)。

 四人のなかではいちばん理論家タイプである(それゆえおなじ理論家肌のウォーショーに代わるチョイスとして格好でもある)。

 こういう立ち位置が、同時代のハリウッドにたいするタイラーの適度な距離感を保障している。

 すなわち、ハリウッドをいっこの charade のシステムとみなしつつ、そのシステムを性急に告発するのではなく、冷静に見つめ、おもしろがりさえするスタンスのことである。

 その方法をひとことでいうなら、[初歩的な]神話学と精神分析を援用したハリウッド映画の深層意識の繊細な腑分けということにでもなるだろうか。

 ジャン・エプシュタイン、ジャン=ルイ・ボリ、ジャン・ドゥーシェセルジュ・ダネー、ロビン・ウッド……。偉大な映画批評家が往往にしてそうであるように、タイラーもゲイであり、ゲイとして自己主張した。

 タイラーのもっともゆうめいな文章は『深夜の告白』について書かれたものだろう。

 『深夜の告白』におけるエドワード・ロビンソンとフレッド・マクマレーの関係にゲイ的なコノテーションをよみとる観点はいまやすっかり一般化している。

 タイラーによれば、マクマレーのスタンウィックとの情事は、かれを性的に拘束する超自我的な人物であるロビンソンへの反抗のあらわれである(スタンウィックをころしたあと、逃亡せずにわざわざロビンソンへの告白をしたために戻るのがその証拠だ)。 

 タイラーはまた、ハリウッド映画に“元型”のひとつを提供しているドリアン・グレー神話にゲイ的な契機をよみとっているほか(スクリーン=鏡)、同時代のコメディアンたちにおけるマスキュリニティとフェミニティの逆転を指摘し(ダニー・ケイベティ・ハットン...)、メエ・ウェストらの女優とその男性インパーソネーターとの関係を考察し、Turnabout といったファンタジー映画における『君の名は。』ふうの男女の逆転をとりあげるなどしている。

 ちょっとおおげさにいえば、映画媒体そのものにゲイ的な本質をみいだそうとしているといえないこともないだろう。
 
 というわけで、そぼくなかたちでではあるが、映画研究におけるジェンダーあるいはクイア的なアプローチの端緒がタイラーにある、ということなのだろう。

 このてんでもボードウェルのチョイスはさすがに隙がない。

 エイジーやファーバーとはちがい、タイラーの主な関心は監督にはなかった。

 これは神話学的なアプローチのひつぜんたらしめるところでもあるが、タイラーの関心はむしろ俳優に向けられている。

 たとえば近年の Film Comment などを眺めているだけでもあきらかなように、映画批評の世界では「作家主義」がすっかり過去のものとなり、アクティングが表舞台に躍り出るかの様相を呈している。

 こうしたてんでもタイラーのアクチュアリティには疑問の余地がない(ほかの三人、とくにファーバーもこの領域での偉大な先駆者であるが)。

 あらためてボードウェルというひとは抜け目がない。

 同時代のハリウッド女優を「夢遊病者」という括りで論じたおどろくべきエッセー( The Hollywood Hallucination 所収)はその代表的な仕事といえようが、それに劣らず重要な仕事が Magic and Myth… の巻頭に置かれた「声の charade」というエッセーであるとおもわれる。

 
 (à suivre)