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精神分析と映画をめぐる読書案内

Time のジェームズ・エイジー

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* James Agee, Film Writing and Selected Journalism, The Library of America, 2005.

 ついにジェームズ・エイジーを語るときがきたようだ。

 ピューリッツァー賞を受けた小説家であり、詩人ジャーナリスト脚本家、そして映画批評家。『アフリカの女王』、『狩人の夜』、『いまこそ名高き人たちをたたえよう』……

 エイジーの足跡をまとめた手頃な読み物としては、トム・ダーディスの好著『ときにはハリウッドの陽をあびて』(サンリオ)がおすすめだ。

 映画批評家としての代表作「コメディーのもっとも偉大な時代」には、さいわいにして邦訳がある(青土社刊「Cineaste」)。

 1942年から48年までThe Nation、41年から48年までTimeで映画時評を担当。そのほか、Life、Sight&Sound などにも寄稿している。

 左翼知識人向けのThe Nationと多大な発行部数を誇るTimeとでは、とうぜんのことながら批評のスタイルもちがってくる。

 マニー・ファーバーの見事な分類によれば、

 ナルシシズムと騒々しい誇張にいろどられたThe Nation 誌上のエイジーによるとりすました(deep-dish)批評は、ハリウッドと高級芸術との橋渡しをする必要性に動機づけられていた。[……]エイジーは映画を博物館入りさせるあまたの方法を手にしていた。

 一方で、Timeの批評は、「1940年代の映画産業についての辛辣で愉快な百科事典」ということになる。

 衆目の一致するところによれば、エイジーの批評の特徴は、まず第一に、ドキュメンタリー的なリアリズムへの徹底したこだわり。

 それゆえ、フランス人にとって、エイジーは「アメリカアンドレ・バザン」ということになる(「カイエ・デュ・シネマ」による手前味噌的なネーミング)。

 第二にそのユーモアのセンス。

 ちょっと乱暴に分類すると、 The Nationの批評が前者を代表するのに対し、Timeの批評は後者を代表するということができようか。

 エイジーの主な批評はその死後、Agee on Film というかたちで一冊にまとめられたが、編集方針に偏りがあった。 The Nationの格調高い批評を重視し、Timeのもっと軽妙な批評の多くを落としているのだ。

 さいわいにも現在では、Agee on Film に収録されなかった批評(ほとんどすべてがTimeに掲載されたもの)も本篇とあわせて一冊にまとめられている(ついでに『狩人の夜』のシナリオも収録されたお買い得の一冊だ)。

 エイジーにとって特権的な監督はチャップリンジョン・ヒューストンであり、ローレンス・オリヴィエイングリッド・バーグマンベルイマンではない)を最大限にリスペクトした。

 批評家エイジーの武器は、その圧倒的な文章力であると言われている。たとえ駄作でも傑作であるかのように思わせてしまう華麗なレトリックの使い手だった。

 スタンリー・カヴェルによれば、「どんな屑の山からも好ましい何かを発見し、それを言葉にする彼の才能は、『美の賞讃』という文芸批評の古い文句を、もっとも見込みのない分野に適用してみせたものであった。エイジーの手にかかると、この才能が映画についての意味のある事実を生み出した」(『眼に映る世界』)。

 映画を見ない人たちのあいだにさえ、エイジーのレビューの熱狂的な読者が大勢いたという。詩人オーデンはそのひとりで、The Nationに投書されたそのエイジー賛が Agee on Film の劈頭を飾っている。

 しかし、たとえばマニー・ファーバーのような人の目には、この文才が逆にエイジーの才能を浪費させることにもつながったと映っている。

 エイジーアイドルとあがめたファーバーには、「もっとそばへ、わがエイジーよ」と題された熱いエイジー論がある。これはいまもってかつて書かれた最高のエイジー論ではあるまいか。(発表は1958年。上の引用もここから)

 ファーバーの見立てでは、エイジーの魅力は、文章力にたのむことなく、自分の好みを率直に吐露している小さな記事のうちにこそみつかるという。

 たとえば、Salome, Where She Danced といういまでは忘れられた小品のレビュー。Time に掲載された文章で、Agee on Filmには収録されなかった。1945年5月7日の日付がある。

 Salome, Where She Danced (ユニヴァーサル)は、Silas Lapham とローマ帝国の衰退と崩壊以外のほとんどすべての要素のよせ集めであるが、けちけちせず、ついでにこれらの要素もぜひぶち込んでほしかった。以下、箇条書きで。敗北したロバート・E・リー将軍が南軍兵(デヴィッド・ブルース)に「われわれは時代とともに前進しなければならない」と告げる。Leslie's Weekly のベルリン特派員(ロッド・キャメロン)が、アンナ・マリアというダンサーの助けを借りて、ビスマルク普墺戦争の開戦を世界に先駆けてスクープする。アンナ・マリアは「美しき青きドナウ」のメロディーにのせて貝殻のなかから登場し、初歩的なバレエを披露する。彼女の恋人であるハプスブルク家の王子が、はげしい恋のさやあてのさなかに戦争に負け、ついでに命を落としたため、彼女はベルリンで政治的面倒事に巻き込まれずに済む。アメリカの未開の町での場面。そこでアンナ・マリアは、サロメの恰好でベリーダンスを踊ってみせて、ビーバーの毛皮を着た現地人たちの気を鎮める。あるシーンでは、彼女が Der Tannenbaum(「もみの木もみの木!」)をうなるようなコントラルトで歌い、かつての南軍は地元の山賊に鞍替えしてしまう。いまが盛りのサンフランシスコで目にするのは、(1)のぼせあがった大富豪のロシア人(ウォルター・スレザック)、(2)中国帆船を襲撃する試み、(3)エジンバラ方言で東洋の諺を口にする賢い家主、(4)血のように赤い床の上でくりひろげられる長剣での決闘、(5)ぞくぞくするような駅馬車の追いかけっこ、(6)めでたしめでたし。おそらく、以上だけでは物語があまりはっきり伝わらないであろうが、重要な言い落としはないはずだ。
 この変な映画のなかでもとりわけ変なのは、サロメというアリゾナの町が実在するということだ。——そこで彼女は踊るわけだ。しかしこれは、Mrs. Grace Salome Patt という現地の婦人にちなんで名づけられたものらしい。略して Suhloam と呼ばれている。とはいえ、なによりも変なのは、このショーが実に愉快だということだ。カラーや衣裳のほとんどがけばけばしくも素敵なのだ。台詞はとぼけた味わいに満ちていて、たとえば、ある男がヒロインのことをこう語る。「彼女はいつも偉大なアーティストだった。——だが、なににもまして——女だった」。ミス・デ・カーロはスクリーンにデビューしたばかりだが、偉大なアーティストとしてはかならずしも説得的ではないが、女性として、とりわけサロメのナンバーでは、満場をうならせることうけあいである。

 この文章のすごさは、作品をじっさいに見てみなければわからない。ここにはエイジーの非凡な要約のセンスが読みとれる。ストーリーの要約というよりも、見事に“映画”そのものの要約になっているのだ。「重要な言い落としはない」というエイジーの自負は伊達ではない。ちなみにこの作品でローラ・モンテス的な女性を演じているイヴォンヌ・デ・カーロは、この数年後にじっさいにローラ・モンテスを演じ、同じような状況で同じようなダンスを披露している。

 エイジーはThe Nation に書いた「Best of 1945」という文章のなかでもこの作品に触れている。『サンピエトロの戦い』『GIジョー』『南部の人』『失われた週末』『攻撃目標ビルマ』『深夜の銃声』などなど、その年に公開された目白押しの傑作、佳作群に混じって意外にもこの作品の名を挙げ、それらに迫る出来だとのコメントを添えている。