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精神分析と映画をめぐる読書案内

パーカー・タイラーを読む(その5)

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  Charade of Voices というエッセーのつづきをよんでいく。


 「谷と山と平原からの声」と題されたパートでは、「ヒルビリー、ディープ・サウス、カウボーイ」の類いにカテゴライズされる俳優たちが扱われる。

 ウィル・ロジャースゲイリー・クーパーの「ナチュラルな」声(“地声”もしくは“肉声”)。クーパーの声からは「なめした生皮(rawhide)と燃え残りのタバコの葉の香り」が漂う。

 しかし声の“リアリズム”は、ハリウッドの「声のまやかし(charade)」のほんの一側面でしかない。

 スター女優がディープ・サウスの女性を演じるとき、メイソン=ディクソン線の南側でじっさいに話されている言葉はこの路線どうようもはや役に立たない。

 『偽りの花園』のベティ・デイヴィスがお手本にしているのは舞台版を演じたタルラ・バンクヘッドの声である。

 アラバマの産であるバンクヘッドには「毛皮の裏地のついた」南部のアクセントを身につけることはずっと容易だった。しかしバンクヘッドはそのごアメリカ各地やイギリスの舞台で長年キャリアを積んできたため、その南部訛りにはときとして「外国風の(alien)ニュアンス」が混じる。

 その結果、デイヴィスはロンドンふうのアクセントをかぶせたバンクヘッドの南部方言を模倣していることになる!

 バンクヘッドの舞台を実際に見ているじぶんが言うのだから間違いない、とタイラーは念を押す。

 ことほどさようにハリウッドの「声のまやかし」は、いわゆるリアリズムには還元されない“作られた声”もしくは“ありえない声”なのだ、ということだろう。

 映画批評家の才能が端的に“耳のよさ”にあることを実感させる目の醒めるような指摘ではないか?

 声を視覚、味覚、嗅覚、触覚と自在に呼応させてみせるエイゼンシュテインばりの共感覚のセンスが冴える。