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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジャック・ランシエールのアンソニー・マン論

Jacques Rancière : Quelques choses à faire : Poétique d'Anthony Mann, in La Fable cinématographique, Seuil, 2001.


 「なすべきなにごとか:アンソニー・マン詩学」と題された文章において、ランシエールアンソニー・マン西部劇を論じている。初出は1992年。セルジュ・ダネーの依頼により Trafic 第三号に寄稿され、その後『映画的寓話』にも収録された。

 ロバート・ウォーショーによれば、西部劇の主人公はよく自分の行動の理由を、「なすべきことをなす」という同語反復的な言葉によって説明する(「映画の年代記西部の人」)。たとえば、アンソニー・マンの『ウィンチェスター銃'73』の主人公もやはり同じ言葉を口にする。

 西部劇の主人公は「なすべきことをなす」ことによって英雄たり得る。アンソニー・マンの主人公たちも同じである。しかし、アンソニー・マンの主人公たちにあっては、「なすべきこと」と「なすこと」とのあいだに微妙な距離がある。かれらは最終的に観客の期待することをなしとげるが、実は(平均的なアメリカ人の?)観客が感情移入できるような既成の道徳的規範にしたがって行動しているわけではない。「なすべきこと」という脚本上のロジックとじっさいにかれらがスクリーン上でしたがっている行動原理とのあいだにはずれがあるのだ。脚本のロジックが、たとえば愛や復讐といった心理学的に一貫した意志や動機に支えられたものであるのに対して、スクリーン上でのかれらは、もっぱらその瞬間その瞬間の偶然や運のみによって動いている。そもそもかれらを無敵にしているのは、意志の強さや正義感などではなく、偶然や運におのれを委ねる受動性の才覚であり、それがマン的な人物にとっての唯一の倫理である。その倫理にしたがい、それを究めた者が英雄となる。その倫理に悖る者はかならず敗れ去る。

 マン的なコミュニティーは、場所や家族や制度に基づくものではない。それを支えるのは、一瞥のもとに判断を下すべき状況であり、一瞬のうちに下すべき決断である。キャンプを張るとすぐに[『怒りの河』の]スチュワートマクリントックは偵察に赴く。かれのまなざしが縛り首にされようとしていたケネディ/コールに注がれる。拳銃の一撃でただちに結びつきが生まれる。「この馬は盗んだものじゃない」とコールは命の恩人に言う。「あんたにはどうでもいいことだろうけど」。かつての悪漢が道徳に目覚めたところで、たしかにどうでもいいことだ。唯一たいせつなのは、状況と決断の瞬間のうちに察知されることがらである。"Strictly a gamble" と、首吊りを逃れた男はのちに口にする。一瞬ごとに、コミュニティーは新たな賭けにさらされる。何度か続けてその賭けに勝つ。判断するまなざしとそれに応える身振りの純粋なロジックが機能しているあいだは勝ちつづける。真夏の夜の夢のような沈黙のうちの先住民狩り。酒場からの離れ業のような脱出。炎につつまれたテントのあいだでの狂奔。おとりの夜営の火で罠にかかった追っ手への手を緩めない銃撃。賭けに負ける最終的な瞬間はただ、黄金への熱が、“見て判断する機械“を狂わせ、コールが急に身体を翻し、マクリントックを襲った男たちのリーダーであることを宣言して、いわば賭け金をかき集めるように、その場の状況を自分のイメージに引き寄せようとし、しかし同時に、その状況を夢想へと反転させてしまうときである。カメラはいまや、自分が裏切った男に弾丸を撃ち込めば自分に利益が転がり込むだけになっているコールが拳銃で顎を醜悪に撫でているのを映し出している。その続きで、かれは一人の亡霊に皆殺しにされる生気を欠いた一団の頭にすぎないことが示されるだろう。最初の決断と最後の簒奪のあいだに流れる映画の時間は諸々のエピソードの連鎖する時間であるだろう。そこでは勝負がたえず新たに開始され、ほかのさまざまな人たち——商人、賭博師、船長、金鉱掘り——との邂逅が、同じ方向へ向かおうとしている、あるいはそのふりをしている異質な者たちのコミュニティーをふくらませ、混み入らせにやって来る。

 マン的な人物は、脚本にあらかじめ書き込まれたキャラクターとは一致しない。むしろ、そうしたキャラクターとはずれたところに、その瞬間その瞬間のまなざしと身振りの集積によって事後的にスクリーン上に立ち上がってくる。マンの主人公たちは、役柄を完全に体現しない。役柄とのあいだに微妙な不一致を介在させている。いわば役柄に対して十分に現前していない(不在である)のだ。「ジェームズ・スチュワートはずれた人のまなざし、身振り、動作によってこの距離を体現する」。極端な言い方をすれば、「マンの主人公は西部劇の登場人物ではない」。ラストで主人公の代わりに単なる物体がアップになったりするというアンチクライマックス(?)からもそのような印象が強まる(『ウィンチェスター銃'73』『遠い国』)。このようなずれは、けっしてネガティブな要素ではない。マンの映画を動かしているのは、まさにこのようなずれだからだ。役柄からずれた主人公が役柄に追いつこうとするエネルギーが物語そのものを前進させているのだ。

 マンの主人公が偶然や邂逅を行動原理にしていることは、映画という媒体そのものが偶然や運という契機と本質的な親近性をもっていることと深い関係がある。

 「人物の運命を決めるのは、脚本においてあらかじめ決められたことではなく、行動の運行である」。かれらは自分の意志や倫理観に則って行動しているわけではかならずしもなく、その意味ではゾンビのような存在である。じっさい、かれらは異様なまでに人間的感情を欠落させていたり(『遠い国』)、幽霊のようであったりする(『西部の人』)。ランシエールはマンの主人公をジョン・フォード作品のような伝統的な西部劇の登場人物よりもずっとロッセリーニブレッソンの登場人物に近いものと位置づけていると言えよう。

 こうした状況はあるていど、ドゥルーズのいう運動イメージの危機というヴィジョンに重ね合わせることができる。

 しかし、ランシエールにとって、運動イメージが機能不全に陥ったときに映画の本質である時間イメージが露になり、運動イメージが時間イメージに全面的にとってかわられるというドゥルーズ本質主義的図式はとうてい受け入れがたい。ランシエールによれば、むしろ、運動イメージと時間イメージは並存しており、また、そのようにしかあり得ない。映画は、脚本(言葉)のロジックと視覚的なもののロジック、言い換えれば物語のロジックと純粋な観照性のロジックのずれをともない、また、そのずれ、両者の緊張のなかにこそ映画的なものが宿っている。ジャンル(西部劇)や類型的人物(保安官、賞金稼ぎ……)といった要素は映画に不可欠であるが、ただし、そのロジックが「阻害」され、完遂しないこと、いわば宙吊りの状態(「反効果」)にとどめおかれることのうちにのみ芸術がある。

 マンにおいてそのようなプロセスは、二つの様態において示される。

 そのひとつは、『シャロン砦』における斥候の死、『胸に輝く星』における医師の殺害におけるように、サスペンスを骨抜きにすることで、描かれる出来事への感情移入を禁じ、それがかき立てる感情を純粋化して表象する「反サスペンス」。

 そしてより本質的な二つめの契機として、ディティール間の民主主義がある。あらゆるディティールが同じ強度をともなって詳細に描かれ、互いに自己主張しあうことで、いわば一貫性をもった物語がミクロな出来事の束に解体される。西部劇とはそもそも昼間のアクションシーンと夜営の焚き火を囲む会話シーンの規則正しい交替をリズムとして進行するジャンルであるが、表向きの物語を一時休止させる夜営のシーン(いわゆる「何も起こらない時間」 temps mort)において、このようなディティールの水平化が露わになるとランシエールは言う。

 マンはこなすべきお定まりの場面をきっちりこなす。そしてそのような場面のうちのどのようなものにもまして、マンの真の王国が宿るのは、異質な者たちが形成するコミュニティーの旅に区切りを入れる休息の場面であるが、実はこれは休息などではないのだ。画面手前には、横顔でとらえられた二人の人物。なかばわれわれ観客のほうを向き、なかばかれらの表向き混み入った事情に気をとられて、翌日すべきこと、あるいは夜間の物音が告げている状況について話し合っている。かれらの背後には、夜営の火が地面や荷台に横たわる人影をぼんやりと照らしている。かれらのうちの誰が眠っていて、誰が目を覚ましているのか、誰が話を聞いていて、誰が聞いていないのかは正確にはわからない。ジェームズ・スチュワートの腕が女の体に回される。女は男がそこにいなくなってから振り返り、おそらく愛ゆえの心づかいからかれに向かって微笑みかける。コーヒーを配るのにともなってカメラが横移動し、炎の反映によって湯気を立てるゴブレットを明るく照らし出し、そのまわりに会話が生じる。問わず語りに、思い出話や将来の夢の話がぽつぽつと語られ、その話をつうじて誘惑のドラマがくりひろげられ、ときには接吻が一瞬かわしたまなざしのうちに盗まれ、あるいは寝たふりをした者によって奪われる。夜の時間帯。ひとつの感覚、ひとつのロマンス、ひとつの神話が差し出され、その冗漫な時間性をまなざしと決断の時間に混じりあわせる。ひとつの過去、ひとつの未来、ひとつの伝説の罠。それはまた、かりそめのコミュニティーにおいて特権視されるある関係の罠でもある。過去におけるあるいは未来における休らいの誘惑とともに、裏切りも手のすぐ届くところにある。

 こうした契機が典型的に観察できるのは、大自然を舞台にした室内劇といった趣の『裸の拍車』である。

 ちなみに別のところでランシエールは、北野武の映画における同様の契機を指摘している。

 ランシエールはさらに、マンの映画のロジックを典型的に示す例を挙げている。『胸に輝く星』のクライマックス近く、人種主義者たちがお尋ね者の先住民の家を焼き討ちする場面がある。ここで炎上する家から逃げ出した犬を少年が追いかける。ここからそれまでとは別の物語、別のリズムが映画に導入され、追う者と追われる者の関係が一挙に複雑化する。「演出が脚本を二重化」し、作品は「合致しない二つの結末」に導かれるという事態が起こっている。
 
 アンソニー・マン西部劇においては、「演出が物語のロジックにしたがいつつ、一方でそれを超え出る」。マンの西部劇は60年代以後に隆盛をきわめるようなポスト西部劇、メタ西部劇ではない。ジャンルの内側からジャンルに内在する微細なほつれ目を暴き立ててみせたのだ。