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精神分析と映画をめぐる読書案内

オーティス・ファーガソンのマルクス・ブラザーズ論

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*Otis Ferguson : The Marxian Epileptic, in The Film Criticism of Otis Ferguson, Temple University Press, 1971.

 オーティス・ファーガソンについては、すでにヒッチコック論を紹介済みだ。明晰で鋭い批評ではあるが、ファーガソンの文章としてはちょっととりすましている感がいなめないとコメントしておいた。では、典型的なファーガソンのスタイルとはどういうものなのか。たとえば、1935年12月11日の日付をもつ「マルクス的痙攣」と題されたマルクス・ブラザーズ論などは、それをかなりよく伝えている文章かとおもわれる。The New Republic に発表され、アリステア・クックによる定評ある映画批評アンソロジー Garbo and The Night Watchmen (1937年刊)にも収められた一篇。

 リズム、論理、趣味、形式上の物語構造という点に関しては、『オペラは踊る』はいいかげんガタがきて浸水の著しい船であり、役にもたたない代物で栓をして水漏れを防いでいる。マルクス家の兄弟のうちの三人を乗せていて、いかなる自尊心をも積み込んでいない。よその誰かれからくすねてきたアイディアを材料に(out of every-body else's own head)なりゆきまかせにでっちあげて海に放り出されたようにみえる。ルネ・クレールのいろんな場面をパクっているし、キーストーン社の倉庫からトラックに何杯分ものギャグを、荷台の柵も上がらないほどぱんぱんに積み込んでずらかってきたといった体なのだ。ギャグとシチュエーションにかけては、同級生の集まりにもまして見慣れた顔ばかりの寄せ集めだ。くわえて、ハープピアノ名物料理も供される。しかつめらしい演奏が15分ばかりもつづくのだ。要するに『オペラは踊る(A Night at the Opera)』は、マルクス・ブラザーズとの一夜であり、道化芝居の抗しがたい魅力とへんてこであることへのどうしようもない要求につらぬかれているのだが、そうしたものは、天才的であるともいえるし、あるいはたんにたくさんの演目をつめこみ、かれらが暴走しないようにひとりひとりに拘束衣のような服装をさせる口実にすぎないともいえ、かれらがかわるがわるぞろぞろと登場するこのあり得ない一時間半のあいだ、そのスピードと騒々しさはなみたいていのものではなく、これまでわたしが気分がわるくなるほど笑い転げたことのある低級なジョークを集めた最高にいかれたコンピレーション版をつくれるほどだ。

 即興のおもむくまま、一文一文をうねうねと長くひっぱる。ファーガソンはよくこんな文を書く。ある種のジャズマンのフレージングみたい。

 有名なすし詰めの物置部屋のシーンを描写したくだりには、秀逸な比喩がつかわれている。マーガレット・デュモンが船室の扉を開けると、扉が銃撃のように暴発し、人間が「樽に詰まったブルーベリーのように」船上いっぱいにすっかり吐き出される、というもの。マルクス・ブラザーズのシュルレアリスム的感性をするどくえぐりだすこのへんの言語感覚はやはり非凡。

 マルクス・ブラザーズのギャグ(humor)は、かれらのオリジナルでないことがたびたびだ。とはいえ、かれらがそれをピッチャーズプレートからキャッチャーミットまで放って笑いをとる能力は、ほかのだれのものでもない。

 これがいわばこの文章中で変奏されるモチーフ。plate にはお皿の意味もかけられているようだ。変奏のひとつにはつぎのようなくだりも含まれている。

 マルクス・ブラザーズは、目に入ったすべてのものを片っ端から盗みまくるあくなき行進の途上で(セットに映し出された写真機やコーラスガールはものの10分もしないうちに視界から消え去っている)、アイディアとギャグを盗んでまわる。

 つぎは結論部。

 写真で見ているだけでも可笑しいグルーチョというきわだった例外を除けば、マルクス・ブラザーズは創意に乏しく、間の抜けた一味である。かれらはぱんぱんにふくらませた紙袋を破裂させて派手な音をたてたはいいが、それっきりという人にそっくりだ。しかし、かれらはナンセンス(ridiculous)の絶妙なセンスをさずかった制御不能の道化役者でもある。かれらはナンセンスなものにあてずっぽうでおそいかかり、飢餓をみたしてくれる肉かなにかのように大急ぎで食い荒らす。かれらのあつかましさと食欲と活力はなにものをも凌駕する。かれらはすばらしいと同時におそろしい。

 前述の「ブルーベリー」を含め、いくどもつかわれる食物の比喩がいわば伏線になって、マルクス・ブラザーズのカニバリズム的ともいうべき本質的な残忍さを見事に浮き彫りにするしめくくり。エンディングも名演の条件であることは言うまでもない。