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無秩序の思想家ラカン:アラン・バディウのラカン論

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*Alain Badiou & Barbara Cassin : Il n'y a pas de rapport sexuel ---
Deux leçons sur <> de Lacan
(Fayard, 2010) ;
Alain Badiou & Elisabeth Roudinesco : Jacques Lacan, passé présent
(Seuil, 2012)

 『性的関係は存在しない:ラカンの「エトゥルディ」についての二講』(以下、『二講』)は、 バルバラ・カッサンとアラン・バディウそれぞれの 論文を一篇ずつ収録している。『ジャック・ラカン、現在としての過去』(以下、『現在としての過去』)は、 バディウエリザベート・ルディネスコによるラカン没後30年を記念しての公開トークの記録。いずれも小著。

 「エトゥルディ[L'étourdit]」は、1973年に Ecole de la Cause freu-dienne の機関誌 Scilicet(4号)に発表された。現在では、『エクリ』の続編である Autres Écrits (Seuil) にも収録されている。「性的関係は存在しない」という有名なテーゼを提出したテクストとして知られ、ラカンのテクストのうちでも「もっとも難解かつもっとも重要なもののひとつ」(『二講』裏表紙)とされる。

 「『エトゥルディ』の定式(formules)」と題されたバディウのパートは、もっぱらラカンのテクスト中の次の一節への註釈というかたちを(おもてむき)とっている。

 「フロイトはわれわれを ab-sens [非-意味]が性を指し示すということに同意させる。このsens-absexe のふくらみにおいて、語が決するところで一つのトポロジーが展開する。」

 「エトゥルディ」は全篇こんな調子で書かれているが、とりあえず、ab-sens は absence [不在]の駄洒落だから、最初の一文は「性的関係は存在しない」という定式をふまえていることがわかるだろう。バディウはab-sens が non-sens ではないことを強調している。そこに否定性ではなく、あるしゅの肯定性というか、正確にはむしろ肯定/否定という枠組みになじまない次元を見出そうとしているのだといえよう。ラカンには「<現実的なもの>は不可能である」という有名な定式がある。この場合の「不可能 impossible」とは、象徴化が不可能なことと言い換えることができるが、そこに否定性をみてとってはならない。たとえば、「不可能」は「不能(無力) impuissance」ということとは根本的にちがう。ラカンによれば、精神分析の治療においては「不能が不可能に高められる」。バディウコミュニズムユートピアの実現不可能性とは別のこのような意味での「不可能性」によって定義してさえいる。

 コミュニズムとは、ユートピアの対極にあって、不可能としての<現実的なもの>の真の呼び名である。(『現在としての過去』)

 さらにバディウは人々を「不能」から「解放」しようとするラカン精神分析を革命の思想と位置づけ、その手段である治療というおもてむき非政治的で非集団的な実践の政治性を強調している。

 いずれにせよ、性ないし性関係とは、この特異な「不可能性」としての<現実的なもの>を「剥き出しの状態で」あらわにするなにかなのだ。

 さて、哲学者としてのバディウに関心があるのは、あくまでラカン哲学的意義である。バディウによれば、ラカンはその無意識概念によって、ゴルギアス(非存在)、パスカル(賭け)、ルソー(純粋実在)、キルケゴール(選択)、ニーチェ(生)、ウィトゲンシュタイン(言語)ら「反哲学」の系譜に連なる。「ラカン哲学はあるのか?」——こうした問いは少なからぬ論者によって投げかけられてきたが(たとえばJean-Pierre Cro の著作の副題として掲げられている)、逆説的なことながら、ラカンは「反哲学者」であるかぎりで哲学者なのである。

 ラカンが反哲学者であるのはなにゆえか? バディウの答えはさしあたって明解である。それはラカンが<真理><知><現実的なもの>という三項を不可分のものとしてとらえているからだ。逆に、哲学はつねにこのうちの二項だけを切り離して問題にしてきた。そのかぎりで、<現実的なもの>の<真理>が問われることになり、<現実的なもの>がひとつの<意味>に絡めとられることになる。三なるものを二から導き出そうとするヘーゲル弁証法は、典型的にそのような身振りであって、それゆえ、ヘーゲルは「もっとも哲学的な哲学者」であるということになる。

 ラカンにおける ab-sens とは、このような<意味>にたいする抵抗を担うなにものかである。バディウによれば、<意味>の批判は哲学の最大の課題であり、哲学者たちが欲してきたのが ab-sens du sens [意味の非-意味(不在)]なのであってみれば、ラカンは反哲学者として哲学の課題を成就したといえるだろう。

 ついでバディウは、このような不可分な三項の捉え方が、ひるがえって「一」なるものの捉え方を規定すると述べる。哲学は、<>(<一なるもの>が存在する)のように一なるものをとらえてきた。わかりやすいのはヘーゲルにおける絶対者としての「一者」である。バディウはそれにラカンの有名な定式 <>を対置する。哲学が不可分なものとみなす一なるものに、こともあろうにラカンは部分冠詞をつけ、「一」からその全体性を剥ぎとってしまう。ついでに語学のおさらいをしておくと、いずれの文も「一がある」と訳せるが、おなじ「〜がある」でも、ついている冠詞に応じて、たいてい <定冠詞+名詞+être>か<il y a +不定冠詞あるいは部分冠詞+名詞>のどちらかのかたちになる。

 こういう一の捉え方は、プラトン的な<存在>がいっしゅの多様体であるというバディウ哲学の核心的な論点に影響をあたえていよう。

 精神分析哲学のように<意味>を経由せずに<真理>に到達する。どのようにしてか? 論理学的な形式化(マテーム)および治療の実践を通して<現実的なもの>にアプローチすることによってである。

 とくに後者の行き方はあるいみでカント的である。現象界とはちがって理論的理性によってはとらえることのできない物自体(ラカンにおける<現実的なもの>)には、実践理性を通して関わるほかない。じっさい、スラヴォイ・ジジェクスロベニア派のラカニアンは、このような観点からラカンをラディカルなカント主義者と位置づけている。バディウはこのような見解に一定の評価をあたえながらも、<現実的なもの>は知ることができるものでもなければできないものでもないとしてカント的二分法を退ける。「ラカンカント主義者ではまったくない」(『二講』)。

 バディウは<現実的なもの>は知るべきなにものかではなく、「証明 démontrer」すべきなにかと規定する。その方途が先述した論理学的形式化および治療という実践である。(<現実的なもの>とのこのような特異なかかわり方を、 バディウ は<現実的なもの>との「出会い」とも呼んでいる。)

 論理学的形式化について、バディウはつぎのように述べている。

 後期ラカン数学位相幾何学に目を向け、「マテーム」という独自の概念を生み出している。ところで、マテームとはまさに、治療という主体の経験を投射し、伝達することのできる形式的な空間のことである。治療はそのようにしてひとつの理性的で科学的なマトリックスへともたらされるが、このマトリックスは残余のない伝達を可能にする。とはいえ、そのような伝達はじっさいには主体の経験の全体をカバーすることはできない。なぜなら主体は消し去ることのできない(irréductible)ものであり、そうでありつづけているからだ。(『現在としての過去』)

 矛盾しているようにも聞こえるが、マテームは主体の経験を残りなく伝えるが、だからといってそれがすぐに理解可能であるわけではない、といったようにとりあえず理解しておこう。

 治療については、とりあえずそれが「治癒」ではないことをはっきりさせなければならない。治療は症状の最終的な解消ではなく、その再組織化であり、分節化であり、あらたな方向づけである。バディウはそれを形式化と呼ぶ。

 治療はひとつの形式を想定する行為であると同時に、その形式を果てまで生き抜く(traverser)行為である。この場合の形式とは、無意識の 客観 的な構造のことである。ところで治療は、その構造へとおもむかせる一方で、その構造を切断し、細分化する。ラカンにとって、精神分析は「治癒」を最終的な目標として立てるほど奢りたかぶったものではない。精神分析は、主体(患者)が立ち直り、あらたに生き始める現実的な(réel)一点に導くことを務めとする。精神分析は、運命としてたちあらわれるものの方向を向けかえ、主体のさまざまな能力をふたたび開く。(『現在としての過去』)

 先述の「不能を不可能へと高める」とはこのような意味である。

 ここでバディウが着目するのはラカンの「不安」概念である。不安という情動(affect)は、言語を通じての指示作用を事とするものではなく、<現実的なもの>からの「信号 signal」である。情動とは精神と身体の境界に位置するものだが、ラカンによれば「情動はあざむかない」。不安というものはその本質からして漠然としているものだが、言語のようにメッセージがはっきりしていないぶんだけ騙されることもないということだろうか。(このへんはさきほどみたマテームの定義にも通じるものがありそうだ。)あるいみ神託みたいなものなのか? とおもっていたら案の定、精神分析における治療がパスカルにおける賭けやキルケゴールにおける倫理的・宗教的諸段階になぞらえられ、それが行為と伝達との所与の手続きに則るものではない「神秘的な調和(appariement)」であるとされるのだが……。

 『現在としての過去』のなかで、バディウはいまの社会にはびこる科学万能主義にも蒙昧主義にも与しなかったラカンを「われわれは大いに必要としている」と言い切る。そして、自分の哲学的・政治的立場をそのようなラカンの立場にならった「予見不可能な<現実的なもの>を認めるラディカルな唯物論」であると宣言している。ここには中途半端な妥協などではなくて、いっけん両極端にあるものを結びつけようとする離れ業的でかつ誠実な野心を読みとるべきであろう。二冊のラカン論における舌足らずであったり矛盾を冒すことをも辞さない晦渋な言葉遣いは、このような野心に発するものなのだろう。

 『二講』では、さいごに哲学の時間性(「真なるものの永遠」)に精神分析における時間性が対置される。そこでは治療における「急ぎ」の時間性が「行為」の介入によって不安の「終わりなき」時間を分節するといったダイナミックなヴィジョンがおもいえがかれている。

 結論として次の一節を引いておく。

 ラカンは無秩序についての偉大な思想家である。もっと一般的に、精神分析を主体の無秩序についての秩序立てられた思想と定義することさえできるだろう。この点では、精神分析マルクス主義と確実にパラレルである。マルクス主義もまた、暴力的な無政府主義および資本主義の大いなる無秩序を生み出している鎮めることができず貪欲な諸矛盾に基づいた集団的な実存を理解可能にすることを目指している。現在の危機を顧みるに、ラカンの存在は依然として重要である。(『現在としての過去』)

 世界を変えることなどできない。できるのはただ世界に一定の「秩序」をその都度もたらし、分節することで、世界を新たに生き直すことだけである。バディウラカン精神分析において見出す「形式化」とは、そのようなラディカルな認識のことであろう。