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精神分析と映画をめぐる読書案内

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その7)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l'antiphilosophie 3, 1994-1995, Fayard, 2013.

 第六回講義(1995年3月15日)。反哲学に共通の三つの身振り。(1)哲学の解任。(2)哲学的操作の吟味。(3)哲学的ならざる行為の実践。
 (1)について。哲学現実界の理論たりえない。その理由。(a)主人の言説の囚われとなり、諸言説のローテーションを停止させる基盤となる言説を自認している。(b)現実界が性関係の ab-sens (脱意味=不在)であることを理解していない。(c)享楽ないし<もの>と関わることを拒んでいる。(d)存在と思考の同一視。
 (2)〜(3)について。哲学的行為は満足を求める。一方、分析的行為は不安もしくは居心地のわるさを求める。「分析家はじぶんの行為をおぞましくおもう」(ラカン)。分析的行為は「[行為によって得られるものではなく]行為[そのもの]に対峙する機会を提供する」。
 ラカン的反哲学哲学における真理/知/現実界の三項の関係に変更を施す。哲学は[伝達可能な]知において現実界の真理を見出すと自負する。ラカンはこの三項図式を三重の否定をめぐって位置づけなおす。いわく「現実界についての真理はない」「現実界についての知はない」「真理についての知はない」。ラカンによれば「真理は知において現実界の機能を果たすものを想定することでみずからを位置づける」(「ラジオフォニー」)。哲学は知を現実界についての真理とみなすが、真理は知においてなにものかが現実界の「機能」(やくわり)を果たすかぎりで在るのにすぎない。バディウによれば、この三項図式は分割不可能であり、各項は別の二項との関係においてしか存在しない。哲学は三項を不法に分解して、そのうちの二項を対(pair = père)にする。<二>による<三>のこのような転覆(subversion)は、<一>についての誤った観念に導く。<一>なるものが存在するという観念に。

 現実界は知りうるものでも知り得ないものでもない。この認識が「ラカンの反哲学のもっとも内密な核心」だ。現実界は知りうるものと知り得ないものとの分割の剰余である(=「反弁証法」)。これは否定とは異なる。現実界において問題なのは知ることではなく、「指示すること(désigner)」であるとラカンじしんは「謎めいた」表現をしている(「ラジオフォニー」)。「知」はひとを欺くが、「指示」はけっして欺かない。けっして欺かないもの、それはパスカルにとっての心に感じる神であり、ルソーにとっての感情(良心の声)であり、ラカンにとっては「欠如の欠如」としての「不安」である。あるいはキェルケゴールにとっての「選択」という行為である。キェルケゴール的な選択は、しかじかの項の選択ではなく、「選択することの選択」である。ただし、キェルケゴールが「罪」を不安の原因としているのにたいし、ラカンにとって罪は「不能」にほかならない。