alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

「性関係の<存在>」:ジャン=リュック・ナンシーのラカン論

*Jean-Luc Nancy : L'<< il y a >> du rapport sexuel, Galilée, 2001.

 ラカン生誕100周年にあたる2001年に「性関係はない」というテーマで催されたL'Ecole lacanienne de la psychanalyse の会合での講演に基づくテクスト。

 ラカンによれば、「性関係はない」。

 ということは、巷をにぎわすセックスレスという現象など問題にもならないということか?なにせ性関係なるものがもともと成立しないというのだから。

 閑話休題

 性関係はない? 経験的なレベルではある(日々ヤっている)ことが「ない」とはいったいどういうことなのか。

 字面をながめているかぎりではナンセンスなこの定式をナンシーはいっしゅの行為遂行的(performatif)な言説としてとらえる。

 つまり、字面のいみとは別に、ラカンがこの定式をとおしていわばじっさいに行っていることを理解しないかぎり、この定式はわからないということらしい。

 では、ラカンがこの定式においてしていることとはなにか?

 「ある」ものを「ない」と言い張っているのである。

 しかし、よその女との「関係」を妻にうたがわれたそのへんの男が出まかせを吐いているのとは、このばあい次元がちがう。

 ラカンが嘘をついているのだとすれば、それは西洋の形而上学と、それにまるごとのっかったキリスト教精神分析の歴史ぜんたいが嘘に立脚していたことになるのである……。

 少々法螺もまじえて、この本のコンセプトをそんなふうに要約しておくことにしよう。

 「性関係がない」というアリバイづくりのためにラカンはものものしい知的武装で身を固めている。

 われらが哲学探偵ナンシーは、「性」「関係」「ない(ある)」というラカン的定式を構成する要素のひとつひとつを古代いらいの哲学者たちがどう定義してきたかをおさらいしながら、アリバイをひとつひとつ崩していこうとする。

 まず、「関係」は実体ではない。だから目に見えるものとしては存在しない。存在するのは関係を結ぶ男女だけだ。

 ——だから情事はない。なんともすさまじい強弁だが、この物言いの裏には、ストア派からトマスを経てカントにいたる思考の歴史が横たわっていたりして……。

 「性」に関していえば、性とはつねなる自己差異化の運動である。

 複数の性の差異があるのではなく、まずそしてつねに、自己差異化する性がある。そして自己差異化する性はそれ自体が関係いがいのなにものでもないものとして考えられねばならない。つまり、性はこれこれのもの(たとえば別の性)との関係としてあるのではなく、それ自体が関係(rapport)、つまり「自らをふたたびもちきたらすこと[=関係すること]」(se rapporter)として、さらに言い換えれば、「あいだ[=内輪]」(entre)、「われわれのあいだで[=ここだけの話]」(entre-nous)、あるいは内奥(親密性)に隙間を空けること(entr'ouvrir)そのものとして考えられねばならない。つまり、自己差異化する性とは内奥の間隔化(espacement)である。

 「内奥」という言葉でナンシーが想定しているのはアウグスティヌスのようである。つまり、自己差異化する性という発想を支えているのは「内なる神」という神学的思考であるということだろう。

 というわけで、性の分化があるのではなく、分化の行為そのものが性なのだ。「性別化」(sexuation)とはまさにラカンの重要な概念でもある。しかし、両性の分化は最終的な性別化ではあり得ない。それはたとえば異性愛の男性と同性愛の男性の分化というさらなる分化の余地を生み出すといういみで残余をのこす。この過程が無際限につづくわけだ。

 フロイトは性感帯というものをそのようなヴィジョンによっておもいえがいている。そもそも身体のあらゆる部位が性感帯たり得るといういみで、性感帯は「あらかじめ定められた」ものではなく、さらにひとつの性感帯は、よりミクロな性感帯に「分割可能」である(『性欲論三篇』)。

 性感帯は自己差異化する性の、身体レベルにおける実例である。[……]性感帯のゾーンごとの分割は、それ自体所与ではなく、前提されたものではないのだが、生理学的な分割とは大いに異なるこの分割は、性的な間隔化、あるいは性別化する間隔化をおこなっている。こう言えるなら、性はそこでみずからをゾーン化し、そこでみずからを分化する。ひとつのゾーンからもうひとつのゾーンへの差異化(乳房から腹部あるいは耳へ、口唇から肛門へ——とはいえ、性感帯を、既成の解剖学用語で呼ぶことができるものなのだろうか。性感帯はゾーン分割そのものでもあるのだ。いわゆる愛撫こそこうしたゾーン分割[の行為]であり、接吻[baiser]はそのひとつのあり方だ)は、無価値であると同時に絶対的な差異、差異化することのできない差異である。というのもそれは差異化そのものであり、それはつねに進行中で、それゆえあらゆる割り振りを超え出ているからだ。
 諸々のゾーンは、実体として、あるいはむしろこの場合、器官として、それ自体で価値をもつものではない。もしそれらが器官であるとすれば、それは快-欲望の器官、言い換えれば無形の身体(corps incorporel)にそなわる器官であり、生理学的な器官ではない。性感帯はエロスが価値をもつのと同じような意味で価値をもつ。性感帯はエロスを生み出すわけではなく、エロスを含んでいるわけでもなく、興奮する(させられる)かぎりでそのエロスそのもの「である」。[……]すでにフロイトが述べているとおり、身体ぜんたいが性感帯になり得るのだ。性感帯は逃れやすく動的な区画割りであり、性感帯を画定し、そこを興奮させ、あるいは高揚させるもろもろの身振りと同一なのだ。この意味で、無際限に反復され抑揚をつけられる身振りの数と同じだけの性感帯がある。[……]ゾーンに分割された身体とは、ひとつの解釈[演奏](interprétation)ではないか。まさにそのとおりで、ゾーン分割とエロスは身体の(つまり、そう言ったほうがよければ魂の)自己解釈[演奏]いがいのなにものでもない。性は本質的に解釈[演奏]されるとさえ言うべきである。つまり、性はみずからを性別化しつつ、演じられ(se jouer)、演奏される(s'exécuter)。楽譜(partition)のように演奏されるのだ。性はそれじしんの楽譜を演奏する。性とは複数の性の分割(partage)なのだ。

 キリスト教の単性生殖神話処女懐胎)のおおもとにあるのも、こうした自己差異化する性という観念にほかならない。

 つまりこういうことだ。性は男女の営みなのではなく、性そのものが性そのものを相手におのずからなしとげるなにごとかなのだ。よって男女は性の当事者ではない。

 さらにこうもいえる。それじたい性別化という運動ないしプロセスとしてある性は、実体ではない。それが無限の運動であるかぎりでは、性関係は永久に完遂しない。

 よって、おれたちはヤッてない。……おそるべき詭弁である。

 まだある。そもそも性のエネルギーはまさに火と同じで、消尽をその本質とする。フロイトは、快楽(欲望)というものがその実現をせきとめられ、先送りさせられている状態においてのみ満足させられるものであり、その完遂は消滅にひとしいという逆説をつとに指摘している。

 ツェランが「意味の焼きつけ」という詩句にこめたメッセージもやはりこうしたことであるらしい。

 接吻は、夜
 ひとつの言葉に意味を焼き付ける
中村朝子訳『誰でもない者の薔薇』)

 愛はそれじたい火のようなものであるから、愛の意味も生じた瞬間に燃え尽きてしまう。よって愛を言葉で語ることはできない。愛とは表象することのできない「形なき現前」である。

 それゆえ恋人たちの欲望が燃え上がり、性関係が成就した瞬間を見届けることはけっしてできない。関係は成立した瞬間に消滅するのであるから。

 consommation という言葉には、まさに“消尽”と(結婚などの)“完遂”という両方の意味がある。

 愛が遂げられたのだとしても、証拠は愛の炎そのものによって焼きつくされるのだ……。まさに完全犯罪。
 
 たしか以前、浅田彰氏がどこかでこの本に言及し、ナンシーとラカンの対決を勝負なしと判定されていたと記憶するが、わたしもそうおもう。2時間ドラマ並みの尺(50頁弱)で解決のつくテーマ(事件?)じゃとてもないということかもしれない。 

 ついでに「性関係はない」の「ない」について言えば、ラカンヘーゲルハイデガー的な「欠如の存在論」(欠如としての存在、あるいは欠如をその本質とする存在、云々)と戯れている。このへんはかねてからナンシーやその一派がラカンにたいしていちゃもんをつけていた点。

 そういえば、過去の哲学者をぞろぞろと召喚してラカンの元ネタを割り出し、ラカンの思想をいわばシュルレアリストコラージュめいたシステムとして描き出そうとしているところは、ラクー=ラバルトとのデビュー作である『文字のタイトル』いらいの構えを踏襲していると言えるかも。
 
 ところで、「性関係はない」という定式は「享楽は不可能である」というもうひとつのテーゼと対になっている。そのかぎりで「性関係はない」は命令ないし「避妊(!)」という行為を遂行している文とも解釈できる(感嘆符はナンシー)。ナンシーはそんなこともちらっと述べている。ヤってもどうせよくないから浮気はよしなさい。これがラカンのメッセージであるということなのか?