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精神分析と映画をめぐる読書案内

古代史劇映画の誘惑

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 このほど Dictionnaire du western を著わしたクロード・アズィザは、ほんらい古代史劇(“ペプロム”)のオーソリティとして知られていて、この分野の著作として、前号でも言及した『想像の中の古代世界案内:小説、映画、コミックス』(Guide de l’Antiquité imaginaire : Roman, cinéma, bande dessinée, Les Belles Lettres, 2008)のほか、『古代史劇、悪しきジャンル』(Le péplum, un mauvais genre, Klincksieck, 2007)、『歴史上の憎まれ役ネロ』(Néron, le mal aimé de l’histoire, Gallimard, 2006)があり、ブリュワー=リットンの『ポンペイ最後の日』のほか、フローベールアレクサンドル・デュマの古代史小説に注をつけたり序文を寄せたりしている。

 『想像中の古代世界案内』は、最初の章において『ポンペイ最後の日』『ベン・ハー』『クゥオ・ヴァディス』『グラディーヴァ』といった小説が扱われ、第2章でサイレント期から『300』に至るまでの古代史劇映画の変遷がたどられ、第3章では、1948年にジャック・マルタン原作・作画により開始された Alix シリーズ(マルタン没後の現在も続いている)にはじまって今世紀までの古代史ものBDの歴史をふりかえり、第4章以下は主題ごとに三つのジャンルを自在に横断したクロスレフェランスといった体になっている。『古代史劇、悪しきジャンル』は、「50の質問」シリーズの一冊で(ピエール・ベルトミュによる同シリーズの『映画音楽』は名著だとおもう)、「衣服の名称がアートのジャンルの呼び名になっているのはなぜですか?」といった初歩的な質問にはじまり、「トルコインド中国にも古代史劇はありますか?」「チャップリンは古代史劇に手を染めましたか?」のようなマニアックなテーマにいたるまで、その政治的・教育的価値、ジェンダー宗教表象オペラ絵画・広告・考古学など隣接諸領域との関係といったさまざまな切り口からこのジャンルを明解に定義している。

 アズィザがいみじくもその著書のタイトルで mauvais genre(下品な趣味)と形容してみせたごとく、このジャンルにたいする無理解と偏見はなお根づよい。わが国においても古代史劇映画はおよそ本格的な研究や真摯な熱狂の対象とはなってこなかった。なるほど時代劇映画がヨーロッパにおける古代史劇映画の役割を果たしているのだと考えることはできるだろうが、だとすればいまひとつの時代劇映画の等価物である西部劇の人気をどう説明すべきなのか。マカロニ・ウェスタンのマニアは多くても、その血を分けた兄弟であるイタリア製古代史劇映画のファンにはめったなことではお目にかからない。ジャーロゴシック・ホラーの撮り手としてのマリオ・バーヴァの名前に反応する人はいても、古代史劇映画へのバーヴァの計り知れない貢献はろくに認識されていない。そのバーヴァと並ぶこのジャンルの中興の祖ともいうべきヴィットリオ・コッタファーヴィやリッカルド・フレーダにたいしてフランス人が捧げてきたような熱狂は日本のムーヴィーゴアにはついに無縁であり、かれらの作品がわが国でソフト化されたためしさえない。かつてフィルムセンターで催され盛況を博した「イタリア映画大回顧」でわたしがもっともたのしみにしていたのはコッタファーヴィの『ヘラクレスの復讐』であったのだが、会場はガラガラを通り越してほとんど無人状態であった。ちなみにこの企画を監修したアドリアーノ・アプラは、その若き日に『オトン』で主役を張り、コルネーユの由緒正しきフランス語にイタリアふうのアクセントをつけ、スクリューボール・コメディーばりの早口でブレッソンの「モデル」さながらに棒読みしていた人であり、ボローニャシネマテークにおけるコッタファーヴィ・レトロスペクティブの大部のカタログ Ai poeti non si spara : Vittorio Cottafavi tra cinema e televisione(Cineteca Bologna, 2010)の編者にも名を連ねている。わが国にもストローブ夫妻に色気を出してみせる御仁は少なくないが、夫妻が現代におけるもっとも精力的な古代史劇映画の撮り手のひとりであるという事実をどれだけの人が認識しているだろうか。そもそもイタリア映画はこのジャンルとともにはじまり、このジャンル抜きには語ることさえ不可能である。このジャンルにたいするフェリーニ偏愛ぶりはよく知られるところだし、パゾリーニロッセリーニIl MessiaSocrates)は言わずもがな、アントニオーニさえこのジャンルに関わったことがある。さいわいなことに二階堂卓也氏の『剣とサンダルの挽歌』(洋泉社)という貴重な労作があり、イタリアの文献を渉猟しつつ余計な思い入れを排したクールな視点からかの国の古代史劇映画を通覧しておられるが、これすらも絶版状態である。ましてハリウッドならびに他の地域(『テルマエ・ロマエ』正続篇を戴くわが国ももちろんふくまれる)をカバーした日本語文献はわたしの目の届く範囲にはみあたらない。こと日本にかんするかぎり、古代史劇映画は「貶められている」というよりも、いまだ暗黒大陸であるといったほうが正確であるのかもしれない。

 フランス語圏を省みれば、アズィザの仕事のほかに、昨年 Napoléon, l'épopée en 1000 films : Cinéma et télévision de 1897 à 2015 (Ides et Calendes)を刊行ナポレオンをめぐる映画史文字どおり総まくりしてみせて読書界を驚かせたエルヴェ・デュモン(ローザンヌスイスシネマテークの元館長で、ロベルト・ジオドマークやフランク・ボゼージのモノグラフィがある)による浩瀚な概説書があり(Antiquité au cinéma : Vérités,lédendes et manipulations, Nouveau Monde, 2009)、すでに入手困難で復刊待ちの状態だが、さいわいネットで全頁が閲覧できる。サイレント期から今世紀の作品まで、歴史上の人物ごとにそれをモチーフにした作品のデータが網羅的に列挙され、重要作には詳細な解説が付されており、BFI の Companion to The Western にも増して参照のし甲斐のある文献だ。わたしがつねづね不思議におもうと同時に不満に感じているのは、わが国においてこれに相当する時代劇映画事典の類いが存在していないことだ。どこかの出版社で出しませんか?

 さて、同じく仏語文献でよりハンディなものとしては、叢書 CinémAction の一冊 Peplum, l’antiquité au cinéma (Corlet-Télérama, 1998)が、やはり網羅的な古代史劇映画版「世界史年表」、監督・俳優小事典、およびアズィザの作成になるコンパクトな文献案内を付して資料価値が高い。また、「ポジティフ」が過去にイタリアとハリウッドそれぞれの古代史劇に捧げた Dossiers(特集)もいまなお貴重な文献のひとつでありつづけている。ロラン・アクナンの Le péplum(Almand Colin, 2009)は図版主体の簡潔な通史。このジャンルの特権的なフォーマットであるシネマスコープを模した横長サイズがおしゃれ。各論では、戦後におけるイタリア古代史劇映画の第二の全盛期にかんして フローラン・フーカールという人が博士論文をもとに上梓した Le péplum italien 1946-1966 : Grandeur & décadence d’une antiquité populaire(Editions Impo, 2012)が、いわばマカロニ・ウェスタンの露払い的な役割を果たした徒花的ないちムーヴメントの興亡を、毒々しくも美麗なカラー図版をふんだんにあしらったマニアックな視点から記述して鮮やかである。リュック・ムレの中編 Les Sièges de l'Alcazar からもうかがわれるヴィットリオ・コッタファーヴィの神格化についてはミシェル・ムルレの Sur un art ignoré (Henri Veyrier, 1987 ; Ramsay, 2008)、および上述のカタログに伊訳のあるムレ自身の『ヘラクレスの復讐』評を参照。英語圏ではジャンル研究に先鞭をつけたジョン・ソロモンThe Ancient World in The Cinema (A.S.Barns & Co,, 1978)以外にはこれといった文献がみつかならいらしいことから、やはり古代史劇映画が貶められたジャンルでありつづけていることがしのばれる。


 さいごにわたし自身の古代史劇映画ベスト10をたわむれに選んでみた。

1. 『十戒』(セシル・B・デミル1956年
2. 『剣闘士の反逆』(ヴィットリオ・コッタファーヴィ)
3. 『ローマ帝国の滅亡』(アンソニー・マン
4. 『キング・オブ・キングス』(ニコラス・レイ
5. 『クレオパトラ』(ジョゼフ・L・マンキウィツ
6. 『雲から抵抗へ』(ジャン=マリ・ストローブ&ダニエル・ユイレ
7. Spartacus(リッカルド・フレーダ)
8. 『ピラミッド』(ハワード・ホークス
9. 『ペルシャ大王』(ラオール・ウォルシュマリオ・バーヴァ
10. 『アレキサンダー大王』(ロバート・ロッセン
次点『エジプト人』(マイケル・カーティス

 この偉大な10本(+1)のうちのすくなからぬ部分がもっぱら失敗作扱いされているのは示唆的ではないだろうか。この事実はもしかしたら古代史劇映画というジャンルの本質にかかわっていることかもしれない。とくに5と8はそれぞれの監督の唯一の失敗作とされることが多い。純粋な傑作はおそらく1と2、それに6だけである。なお、1と2はそれぞれ同じ監督の『サムソンとデリラ』、『クレオパトラ』(1959年)に差し替えてもまったくかまわない。次点はきわめてムラのある作品ながら、『深夜の銃声』で「知られざる女」ミルドレッド・ピアースのメロドラマをちゃっかりフィルム・ノワールにすり替えてしまったカーティスが、ここでは古代史劇映画にたいしてまったく同じ所業をはたらいている。ジーン・ティアニーの最後の輝きを記録した作品であることもこのチョイスの大きな理由である。