alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

パーカー・タイラーを読む(その4)

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 ひきつづき Charade of voices というエッセーをよんでいこう。


 「バリモア一族を含め、さいしょに英語を話した声(Voices that first spoke English, including the Barrymore)」というパートにおいては、由緒正しい英語の話し手たちが俎上に載せられる。文中、バリモア家が「王族」と揶揄される。

 もっとも個性的なイギリス俳優であるチャールズ・ロートンの「水分過剰(overliquescence)」の声は、「フルートのように感傷的で、オーボエのように自己憐憫的」。

 ライオネル・バリモアのたえず corn(感傷的な芝居?)の皮を剥くような声は、ともかくも一個のすぐれた楽器である。

 ジョン・バリモアの声は持ち主を超えて自己主張する(always playing its own part)といういみでナルシスティックな声である。それはおのれのスタイルにケチをつける者らの育ちの悪さをあからさまに見下している。スクリーン上でジョンが苦悩するたびに、苦悩しているのはかれじしんであるよりも声であるように聞こえてしまったものだ。この声が安らぎをみいだすのはハムレットの黒かロメオの淡紫色を纏っているときだけであるが、そういうときでさえ安らいでいるようにはとても聞こえない。

 『特急二十世紀』は「声のコンプレクスが傑出した演劇的神経症である可能性をほのめかすがゆえに愉快なのだ」。

 『孤独な心』でコックニーの女性を演じているエセル・バリモア。このひとにはもともと Duse[イタリアの大女優]というより diseuse(朗読家)というイメージがある。『孤独な心』のかのじょは母親というよりは母親に捧げる記念碑のようだ。台詞のない場面はともかく、かのじょが口を開くとコックニーのアクセントにキッチンよりはクリュテムネストラを連想させる演劇的なスタイルが混じってしまう。ミュートをかけた自動ピアノの音さながらの。かのじょは声帯の水腫を必死に隠そうとしているようである(上述の「声のコンプレクス」)。かのじょの声には、「健康上の理由で得意の演目を医者から禁じられてしまった軽業師のような無気力」が宿っている。かのじょは「喉頭躁鬱病」を患っているひとのようだ。じっさいに作中のかのじょは病気である。それゆえ本作のかのじょは[病人を]「演じていない」!

 ハリウッド映画でコックニーを演じた名のあるイギリス人俳優はグレイシー・フィールズを除いて皆無である。一方でアイルランド人役にはバリー・フィッツジェラルドとサラ・オールグッドという両名優のほかに、『男の敵』で「矯正器(brace)」をつけて見事なアイルランド人役をこなしたスコットランド人ヴィクター・マクラグレンがいる。



 「可塑的な声、可塑的になった声」

 ヴィクター・マクラグレンはタフな外国人役を牽引している。記憶に新しいところでは、グリア・ガースンがそのゴクラクチョウ的なトーンとイギリス訛りを19世紀の中西部人役にねじ込んでなんとかもちこたえていた。

 女優がブルックリン訛りのようなローカルな特徴をとどめていると淑女らしく見えないが、ボガートやロビンソンはアクセントをのこしたままで典型的なアメリカの市民を演じられる。

 アクセントは出身地や社会階層や学歴の指標だ。生まれたときからボストンのカレッジ出であるかのような声を(養成所で)仕込まれた、古くはウィリアム・パウエル、ジョージ・ブレント、ロナルド・コールマンからフレドリック・マーチジョゼフ・コットン、フランチョット・トーンに至るまでのジェントルマン俳優たち。

 愛想笑いと癖毛を共通点とするジョゼフ・コットンとフランチョット・トーンが見栄えのする衣紋掛けたるにとどまっていないのは、主としてかれらの声の魅力ゆえだ。

 コットンの rich carpety crackle から発されるセックスアピールの火花、たいしてスコッチ&ソーダのフレーバーのまろみをおびたフランショット・トーンのdrawlish なトーンがかれらを世にもスマートな(smooth)若者たらしめているのだ。

 生粋のBriton ジョージ・サンダースおよびイギリス文化の影響下にあるレアード・クリーガーオーソン・ウェルズはその声だけで、そしてただ声によってだけ、 Mr. Winchell’s orchids(スキャンダル、ゴシップの意?)たりえている。

 ことほどさようにジェントルマンのキャラは台詞以上にその声によってきまる。


 (à suivre)