パーカー・タイラーを読む(その2)
パーカー・タイラーの Magic and Myth of the Movies の巻頭を飾るエッセーは「声たちのまやかし(Charade of Voices)」と題されている。
charade という多義的な語はタイラーの批評の重要なキーワードのひとつ。
このエッセーでタイラーはいわば1940年代のハリウッド・スターの「声」の一大カタログを作成している。
すでにのべたごとく、アクティングが映画批評の表舞台に躍り出るようになってひさしい。
しかし俳優の声は、その「役柄」とかヴィジュアル面の陰にいまなお隠れているのが現状だろう。
声がヴィジュアルと並ぶ映画俳優のメディウムの片一方であるのにもかかわらず。
ブレッソンをもちだすまでもなく、映画俳優の本質はヴィジュアル面以上にその声に宿る。
タイラーも「声をスクリーン上の芸術的な幻影の独立したメディウム」として売り出そうとするほど聡明な撮影所のお偉方はほとんどいない、との指摘で論をはじめる。
「しかし、上映室のきらめきのただなかで目を閉じていったん幻影を消滅させ、その幻影を、純粋な声の力(夜の闇あるいは無から発されるそれ)に返してやれば、ぼくたちは声の力だけを切り離して、おもってもみなかったダイナミックな構造のファクターのうちにそれをとらえることができるのだ」
「闇のなかの声」という小見出しの下に読まれるさいしょのセクションはこのように書き出される。
まっさきによびだされるのは『キスメット』のロナルド・コールマンである。
drawing-room comedy の tatooing にハムレットのモノローグの陰影をまとわせつつ声という楽器を弾きこなす至芸ゆえに、このイギリス生まれの俳優はアメリカの三人のロバートたち(テイラー、ヤング、モンゴメリー)におおきく水を空けている……。
「沈黙からの声」と題されたつぎのセクションでは、トーキーの到来があるしゅの俳優(プリシラ・ディーンの名が挙げられている)をその声ゆえに淘汰するいっぽうで、ブロードウェイのあるしゅの若手歌手の発声法と声の質が意外にもスクリーン向きであったという「じつに奇妙な strangest of all」事実の発見が回顧される。
かれらの声をとくちょうづけていたのは、いわば「いいかげん擦り切れた子供向けフォノシートのようなハイピッチ」だ。
トーキーはスコアと声をサウンドトラック上で同期化するという点で画期的であった。ジャネット・マクドナルドやビング・クロスビーやその他有象無象の成功がこうして準備される……。
すべての要素を(よくもわるくも)まとめあげてしまう音楽というファクターの機能についてはさらに後述されるだろう。
マイクロフォンの偏在がサウンドトラックを「二次元のオペラ」とよぶべきものと化す。
メトのスター歌手が舞台の“奥行き”を奪われ、オーラを剥がされた体であろうか。
むりやり要約しようとしたけれど、原文はずっと含蓄に富んでいる(ようするにわかりづらい)。
Flush with the microphone was also heard a sort of two-dimensional opera, allowing the more physically birdlike Metropolitan stars to reveal more pointedly whether or not they were capable of purely historinic flight. None achieved a better mark than “whether,” and most were “not.”
つぎは「集団の声」。
集団の声(voices en masse)とは、まずは映像にかぶせられるコーラスのことである。コーラスは俳優の沈黙を埋め、そのクレッシェンドで感動を強要する。
集団の声とは、またサウンドトラックの“多声”性のことでもある。
「ナラタージュ」(ヴォイス・オーヴァーのたぐい)をふくめ、スクリーンは見えざる者の声で満たされる。画面上の話し手から切り離された人工的な声が籠から逃げ出した鳥さながら勝手にふるまいはじめる。
「ザ・ヴォイス」。
この通り名は伊達ではない。それを戴くかのスターにおける声の立派さとキャラのチャラさとのギャップがユーモラスに描写される。
「習得された英語の話し手」(Voices that learned to speak English)は本エッセーの圧巻。外国人俳優の声がいかにそのスター・イメージと不可分であるかが説得力ゆたかに論じられる。
(à suivre)