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精神分析と映画をめぐる読書案内

パーカー・タイラーを読む(その3)

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 Magic and Myth of The Movies (1947)の巻頭に収められたエッセー Charade of voices をひきつづきよんでいこう。


 「習得された英語の話し手」(Voices that learned to speak English)との小見出しの下に論じられるのは1940年代ハリウッドの外国人スターたち。


 外国人スターは異国情緒にみちた役柄を振られることでその外国訛りを魅力に転じる。

 アンナ・クリスティのキャラクターがガルボの声のハスキーさとむちゃくちゃな(abysmal)トーンを正当化したように。

 ガルボの才能は演技スタイルをみずからの声に合わせる技倆にあるのだ。

 ガルボの声はいわばサイレント時代のかのじょのイメージを聴覚化したものだ。

 かのじょのファンは、スクリーンから響いてきた「ビターチョコレートの色調とハープのメジャーコードのようにしっかりした指さばきで弾かれるトーン」の虜になった。ほかならぬタイラーじしんもそのひとりであった。

 アメリカのムーヴィーゴアは外国人スター(イギリス人は除く)の「かがやかしいダークブラウンの味わい」にやみつきになった。

 ディートリヒの声。

 Dietrich’s voice was charming, and remains so, subtly weighting the fluffiest phrases with a pleasantly meaty content.


 クローデット・コルベールの声。

 「ややもするとキーを低く設定しすぎるとはいえ、コルベールの声の魅力はそのはつらつさ(vibrancy)と軽快さ(good-sportiness)にあるが、鼻声がそれをあきらかに減じている。その鼻声は生まれつきのものであるだけでなく、喉と鼻のあいだの作為的な(洗練された cultivated)齟齬(ambivalence)ゆえであり、それはおもてだってはいないがあふれだすほどの自尊心を伝えている。色で(テクニカラーでというべきだろうか?)でいえば、リキュールでひたしたビスケットのブラウン……」。

 「エリザベート・ベルクナーの声とアクセントはその演技スタイルどうよう純粋な装飾。ルイーゼ・ライナーの声とアクセントはあまりに感傷的にすぎ、あまりに涙の出し殻みたいだ(cindery with tears)。Cinderella の声はきっとこんなふうだった」。

 トーキー初期にはブロークン・イングリッシュは矯正の対象であったが、そのうちアクセントが個性として受け入れられた。声の導入はぎゃくにサイレントの雄弁な身体言語(その筆頭がリリアン・ギッシュ)をブロークン化した。

 イングリット・バーグマンのアクセントはかのじょの魅力のじゃまをしている。ぎゃくにバーグマンほどの演技者でないヘディ・ラマールのアクセントは、マシュマロを口のなかで上手にとかすがごとき崇高なベイビートークをうみだすにいたっている。

 カルメンミランダのきついアクセントは官能性を強調しつつ笑いに転じる。シモーヌ・シモンのソプラノと抑えたアクセントのとりあわせの妙(『キャットピープルの呪い』)。

 男優陣はどうか?

 シャルル・ボワイエの Sir Galahad organ tones はかれの唯一の魅力であるが、ハリウッドに来たばかりのジャン・ギャバンの英語のほうがずっと朗々たるトーンを響かせている。

 ドイツ人俳優(ペーター・ローレコンラッド・ファイト)の英語がなめらかにきこえないのは、アメリカ映画の台詞のピッチがドイツ映画よりもスローであるからかもしれない。

(à suivre)