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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジャック・リヴェットの映画批評集成(その7)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.


「腹に魂を」
 「カイエ・デュ・シネマ」1958年6月号掲載の『夏の遊び』評。「批評は概してさまざまな外見の分析にすぎない。とはいえあらゆる偉大な映画作家の運動はまずもってさまざまな外見を問いに付すことであり、それを綜合によって飼いならすことではあるまいか」。「ローレンス・オリヴィエシェイクスピアをレパートリーの所与とみなすのにたいし、ウェルズはシェイクスピアを情熱たっぷりに尋問し、揺さぶり、八つ裂きにして、オリヴィエが想像さえしなかったひとつの謎をその口から吐き出させる」。シェーベルイの幼稚な反抗はシュルレアリスムの悠々自適のブルジョワ的反抗とえらぶところがないが、ベルマンは「みずからの反抗をも審問する」。ベルイマンの映画にいみがあるとすればそれは「問いかけ」ということである。それゆえベルイマンイプセンとか初期ストリンドベリとというより、『幽霊ソナタ』のストリンドベリもしくはベケットとこそ類縁性がある。
 映画作家には二つの精神的系譜がある。クレール、フェニーニ、ワイラー、タチという「分析」の系譜がひとつ。いまひとつはラング、ルノワールロッセリーニ、ウェルズという「綜合」の系譜。「フェリーニはおのれを開く」。ネオレアリズモ的な分離(scission)の運動をもっぱらとする。「ロッセリーニは拳のようにおのれを閉ざす」[『メキシコ万歳』論でもつかわれていた言い回し]。いっさいが一者に回帰する。綜合の運動は観念となるが、これは運動という観念である。
 ベルイマン映画のふるくさい道具立ては、「それじたいが別のものによって破壊されるがゆえに突如として新鮮になる」。「フレーミングへのこだわりがカメラのうごきによってたえずむいみになるように、あらゆる要素が映画作家省察にゆだねられる」。こうした要素の彼方にどのような問いが問われるのか。もっとも単純な問いである。「われわれはなにもので、どこへいき、この[人生という]喜劇のいみはなんなのか」。いわく「形而上学的な美」。「ベルイマンは行動よりも状態を撮る。恥辱、欲望、後悔。これらの状態にあるひとは、行為の時間によって破壊されるどころか、たえず新たに生まれ変わる。こうした状態を解消する充足、明察、傲慢によっても生まれ変わるのである。ベルイマンの主人公たちがこの悪循環から脱することができるのは冒瀆[不法侵入]もしくは見せかけによってだけだ。
 「ベルイマンバロックの罠を完全に逃れているのは肉体の感覚によってである」。より正確には「皮膚感覚」、表皮[うわっつら]の感覚。水、涙、化粧、汗がこの感覚を増幅する。クロースアップもこの目的のためだけにつかわれる。「カメラが寄れば寄るほど、それだけ曖昧さが剥き出しになり、それだけ外見は純粋な外見になる」。ベルイマンのライトは黄昏のそれだ。そこではいっさいがふたしかであり、容易に「諾」が「否」に、「否」が「諾」に反転する。とはいえ時間のサイクルから抜け出すことはできない。けれども主人公たちはじぶんじしんへの内閉[折り重なり]からかれらの意識の第二の運動を発見する。吐露[噴出]である。その根拠はじぶんじしんのうちにしかない。シュトロハイムにおけるように場面が嬉々としてとだえることなくつづき、いっさいの作劇上の必然性の限界をふみこえ、ただその持続だけによっておそるべき[すばらしい]ものとなる。この持続は反復[更新]でも変奏でもなくただのいみのないおしゃべり[反芻]だ」。「ショットはただその持続だけからその美とそのいみとをひきだす。この執拗さはいっこのモラルでもある。ある批評家は『夏の遊び』に存在への固執[persévérance]というスピノザ的大テーマをみてとる。肉体的な現前はそれだけでひとつの勝利なのだ。ベルイマンは事物や人間の密度と人物[形態、顔]の人工性との葛藤からこのテーマの教訓をひきだしている。この葛藤においては後者がつねに現実の重みにたえかねて降参するのだ。形而上学的な美とはまずもって存在論的な美である」。
 シムノンのばあいどうよう、ベルイマンの一本の作品はかれの別の作品に照らしてはじめていみをもつ。「シムノンの小説もベルイマンの映画もそのきわめて厚顔無恥かつ執拗な告白を倫理の水準にまで高めている。倫理とはすなわち作品の倫理、いいかえれば美学である」。「シムノンのモラルは泥にはまりこんだ人のそれである。ベルイマンのモラルは水に溺れた人のそれである」。「苦悩のはんたいがわにある至福をこそことほぎたまえ」(『歓喜に向って』)。「いっぽんの映画の理想的な批評とはその映画がもとづいているさまざまな問いの綜合にほかならない。つまり映画と並走する[=もぐりの]もういっぽんの映画であり、言葉の世界のなかへの映画の屈折である」。それゆえ「『夏の遊び』の唯一の批評は『第七の封印』と題される。いっぽんの映画の真の批評はもういっぽんの映画にほかならない」。
 リヴェットらしい明晰な名文。映画作家を二系統に分類するのはトリュフォーゴダールの十八番。ベルイマンのみならずリヴェットじしんまたシュトロイム直系の映画作家であることはいうまでもない。


「『夜の放蕩者』:いかがわしいがらくた」
 「アール」5月28日ー6月3日号。「圧延機」はハリウッドの専売特許ではない。「ルーティンワーカーの最たる者らにとってあらゆるかたちの意外性は天敵なのだ」。最悪なのは台詞のオーディアールで、あらゆる職業・社会階層の登場人物に同じことばをしゃべらせている。こんなリアリティのない登場人物たちは信用できない。脚本や演出以前の問題だ。


「アントワーヌの方へ」
 『パリはわれらのもの』撮影のため一年のブランクを挟んで1959年4月号にフェレドゥーン・オヴェイダと共同でのロッセリーニへのインタヴューで「カイエ」に復帰したあと、同5月号に発表された『大人は判ってくれない』評。
 トリュフォーは「じぶんのことを語りつつ、われわれのことをも語ってくれている」。このいみでトリュフォーは古典主義者だ。古典主義とは「描く対象だけに視界を限定しつつ、突如としてその対象のまわりに潜在的な世界の広大なひろがりを見せてくれるもの」だから。しかも自伝でありながらちょくせつじぶんを語らず、アントワーヌという「客観的な兄弟」を創り出し、おのれを虚しくしてこの人物を冷静に観察している。このいみでトリュフォーはフラハティの弟子である。
 インタビューの場面においては「映画がテレビを再発明し、テレビが映画を聖別化する」。
 エンディングについて。「はじまったときにはすでに時間は刻まれはじめていて、その加速と仮借のない経過によって映画はすでにひそかに傷ついている。幕切れは巧妙に組み立てられた物語の恣意的な結論などではなく、現実の時間のなかに一歩を踏み出すべく息をととのえるための踊り場にすぎない」。
 「『大人は判ってくれない』は簡素さの勝利だ」。映画が徐々に見失ってきた「眼差しの純粋さ」「カメラの無垢」がまだ残っていたのだ。カメラが捉えた世界がそのままのかたちで存在するという現代人が失ってしまった信頼がここにはまだある。映画の内部から外の世界へと目を開いていくというルノワールの辿った道筋をトリュフォーもまた辿る。
 「トリュフォーが残酷さを描くときのとてつもない優しさは、狂気を描くときのフランジュの甘美さもかくや」。いずれも省略という方法から大きな力を得ている。さらに「雄弁と絶叫と説明を拒否することによって、内なる鼓動とふるえをここぞという瞬間に刃のように鋭くひらめかせることができている」。ヴィゴ、ロッセリーニの名が想起させられる。
 トリュフォーとは長いつきあいのリヴェットであったが、会えば映画の話ばかりしていたのでお互いのことをよく知らなかった(「それで十分だった」)。かれが盟友の人生を知ったのもやはり映画をとおしてであったわけだ。


「国民の解剖」
 同7月号で『二十四時間の情事』をめぐる討議に参加したあと、11月号に掲載されたマーク・ロブソンアメリカの戦慄』評。ブレヒト流の「冷静な明察」があるが、リチャード・ブルックスの「客観性」には及ばない。


「まといつく死」
 同号掲載の『オルフェの遺言』評。現在のフランス映画に欠けているのは詩だ。それゆえ詩人の映画が不可欠である。詩とは何か。「ゆたかさへと向きをかえたまずしさ、舞踏と化した跛行だ。詩人はまずもって簡素さ、リアリズムを再発明しなければならない。コクトーはドキュメンタリーを再発明する。フリッツ・ラングに学んだフランジュがフィックスショットを再発明しているように」。『双頭の鷲』いらい詩人=映画作家となっていたコクトーがいまいちど『詩人の血』の映画作家=詩人に戻って「自画像ならざる薔薇」を描こうと試みるも成功していない。「不条理にひとつの意味をもたらそうとする人間の絶望的な努力がレイ、溝口、ムルナウの映画を貫いている。コクトーとフランジュは不条理を壁際まで追い詰めようとするが、その背後に人間を再発見してしまう。この映画はすぐにも死ぬことがわかっているが死を真剣に考えたいとおもいつつそれができないでいる人の映画であるがゆえに美しい。不条理と恩寵は同じ硬貨の裏表であり、詩人が夜のなかに投げたそれがわれわれの闇のなかに落ちてくるのだ」。
 タイトルは『北北西に進路を取れ』の仏訳。


「芸術と試み」
 同号掲載。フランス芸術映画協会(AFCAE)が選定した上映推奨作品リストの批判。『バレン』(レイ)、『抵抗する勇士』(ガーネット)、『クレオパトラ』(コッタファーヴィ)、『我が心に君深く』(ドーネン)の低い位置づけを疑問視している。
 このあと1961年1月号でアレクサンドル・アストリュックへのインタヴューを行なっている。


「おぞましさについて」
 同6月号掲載のジッロ・ポンテコルヴォ『ゼロ地帯』評。強制収容所の映画において「絶対的なリアリズム」は不可能だ。「スペクタクル」化は覗き見主義かポルノグラフィーにひとしい。『夜と霧』は強制収容所という現実を「理解することも認めることも受け入れることができない聡明な自覚」に基づいて、アーカイブ映像のインパクトに訴えなかった。どんなものにも人は慣れてしまうから。とはいえ『夜と霧』に慣れてしまうことはない。「映画作家がじぶんの見せるているものを裁き、それを見せるやりかたによって裁かれているからだ」。「トラヴェリングはモラルの問題だ」というムーレ=ゴダールの言葉は「形式主義」ではなくポーランがそれに対置した「テロリズム」だ。映画は「言語」ではない。[映画は道具ではない。もしくは映画を形式の問題に還元できない。]「映画を撮ることはなんらかの事物を見せることであり、同時に、そして同じこの行為によって、なんらかの方法で見せることだ。この二つの行為は厳密に不可分のかんけいにある」。形式主義者には後者[つまり映画作家の主体性ひいては責任]の自覚がない。
 『メキシコ万歳』論、『夏の遊び』論で提示された「綜合」という概念が倫理的な文脈でいま一度言及される。


「汚れ落とし」
 同9月号掲載のアーヴィン・カーシュナー『ザ・フッドラム・プリースト』評。脚本は「サイテー」(dégueulasse)で、出てくる人物は道で会うのもごめんこおむりたいヤツらばかりだが、街路、寝室、監獄、裁判所といった舞台装置のリアリティは最近のアメリカ映画ではお目にかかれないもの。映像、アングル、編集の飾り気のなさ。「漠然としているがたしかな魅力」のある小品。
 同号にはアラン・レネアラン・ロブ=グリエへのインタヴューも掲載、12月号では批評をめぐる討議に参加している。


「現在の芸術」
 同1962年6月号掲載の『草原の輝き』評。『草原の輝き』の主題は時間だ。時間の作用による腐敗と変容だ。これまでのカザンの映画になかったようなショットの瑞々しい輝かしさは、ひとつひとつの瞬間の「かけがえのなさ」を際立たせることでその変容をいっそう残酷に見せるためだ。「ひとつひとつのショットがそれ固有の真理のうえに閉じられている。24分の1秒の芸術である映画いがいのどんな芸術が同一性という観念の絶対的な批判という本作の主題にこれほどの説得力をもたせることができるだろうか」[『小さな兵隊』のれいの警句を踏まえている?]。ひとつひとつの瞬間がそれだけで完結した全体であるからこそ、時間の流れのなかで人間も世界も同一のままではありえない(ここには「進歩」への希望も含まれている)。「時間についてのすべての映画と同じく、何度も見る必要のある映画。いっさいの説教なしに事実だけを差し出してその意味や教訓に頓着しない。『草原の輝き』は進行する映画だ。すなわち冒頭のショットと幕切れのショットとのあいだに世界が動いてしまうのだ。こういう映画はめったにない。アンチ『裸の島』。あらゆる偉大な映画はクロニクル[クロノス的]だ。そしてこの映画ではあらゆる劇的な進行が純粋な時間的継起にとって代わられている」。「この映画では断片が不可避的にひとつの全体の印となっている。セリーの細胞がそのうちに作品のあらゆる可能なかたちを含んでいる」。いわく本作によって「無調の映画」への決定的な一歩が踏み出された。
 くだんのエイゼンシュテインベルイマン的「綜合」の概念がふかめられている。『夏の遊び』論で指摘されていた「水」の主題(河、ダム、滝)がここでもとりあげられる。「[水は]自然の力の抵抗不可能な流れであるのみならず、あらゆる見かけの勝ち誇った流動でもある。『見ろ、なにも変わっちゃいない』とバッドの父は叫ぶ。まったくちがう。同じではない。同じではありえない。そしてあらゆる存在はかけがえがない」。


「162人のフランスの新鋭映画作家
 同12月号「ヌーヴェル・ヴァーグ特集」のために編まれた小事典に無記名で執筆。アルジェリア闘争に取材した匿名のドキュメンタリー『パリの十月』(1962年)のシノプシス。「われわれの時代の歴史にとって重要なドキュメント」。


「興行的失敗についての覚書」
 同1963年5月号掲載の『ジャンヌ・ダルク裁判』考。「カイエ」は興行的・批評的大失敗をこおむった『ジャンヌ・ダルク裁判』を擁護する論陣を張った。
 『スリ』と『ジャンヌ・ダルク裁判』は「エントロピーを極限まで低下させた」「純粋な情報」だ。「観衆とのもっともダイレクトなコミュニケーションをこれほどまでに絶対的に押し進めた映画作家はかつて存在しない」。ブニュエルロッセリーニの映画もこれにくらべれば「レトリック」にすぎない。『ジャンヌ・ダルク裁判』は「潜在的にはもっとも『大衆的』な映画だ」。ところが観衆の好みは「レトリック」や「エントロピー」のほうにあった。だから「純粋なエントロピー」である『いぬ』はヒットした。使い古されたシネフィル的な記号だけからなる「シネフィル[だけ]のためのパブロフの犬的な映画」。とはいえ映画の目的はコミュニケーションであろうか。現実の世界は「かなり混乱したサラダ[ごたまぜ]」であり、「エントロピー」の塊である。芸術はそういうありのままの現実を描くためのものなのか、もしくはそういう現実を交通整理するためのものなのか。『ジャンヌ・ダルク裁判』のブレッソンに匹敵しうるのはブラックかフォートリエ、もしくはウェーベルンだけだ。「ブレッソンが純白のスクリーンを目指しているのだとしても、それはもはやなにも言わないためではなく、すべてを言うためである。もしくはすくなくともたったひとつのことを絶対的に言うためである[『悲しみよこんにちは』論参照]。たったひとつの単語ではあろうが、あまりにも完全に言われるので、それはあらゆるものの意味となり記号となるのだ」。


「映画と新音楽」
 同7月号掲載の『マホルカ=ムフ』評。「戦後ドイツの最初の作家の[ささやかな]映画」。作者の野心は「『キャラクター』を撮る」こと。すなわち「ひとりの人物の性格の外側からの描写」。リヴェットによれば、この試みは「高い密度と[映画のさまざまな要素の]内的諸関係の均衡をともなって完璧に完遂された」。いろいろな音楽的比喩が思い浮かぶが、本職の音楽家に発言を委ねよう、としてシュトックハウゼンがストローブに宛てた長い書簡が全文引用される。