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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジャック・リヴェットの映画批評集成

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.

 生前、評論集の出版を拒みつづけていたジャック・リヴェットの『批評文集』がついに刊行された。

 ほぼ同時に刊行されたアンドレ・バザンの『全著作』(Ecrits complets, Macula)ともども、今後末長く映画狂のバイブルとして読み継がれる書になることは間違いない。盟友トリュフォーの撮影になる著者二十歳のポートレートを表紙にあしらった装丁もシック。

 すでに70年代末にイギリスで、ついで80年代末にドイツでそれぞれ発言集ないし評論集が編まれていたが、フランス本国では初(わが国でもさいわい代表的な文章である「ハワード・ホークスの天才」「ロッセリーニについての手紙」「おぞましさについて」には翻訳がある)。

 1950年、ルーアンからの上京直後にモリス・シェレール(のちのエリック・ロメール)の紹介によって Bulletin du ciné-club du Quartier latin に執筆された最初の文章から、「カイエ・デュ・シネマ」を離れる1969年までに発表された全批評文に加えて、ジャック・リヴェット財団のアーカイヴに保管された未発表の文章の一部を収めている。これらの一篇一篇に編者らによる丁寧な注がついている。巻末にはアーレント全体主義の起源』の仏訳者にしてリヴェットのスペシャリストでもあるエレーヌ・フラパによる1999年のロング・インタビューが収録されているが、こちらもほぼはじめて公にされるものであるようだ。

 ひさしぶりにリヴェットの文章をまとめて読み直してみて、その硬質にして明晰な文章の美を再認識した。同じく稀代の文章家であるトリュフォーとはまた別のいみできわめてフランス的な文章の書き手というべきだ。

 リヴェットの批評的探求のいっさいは、音楽(本書を通読するとあらためてそのメロマーヌぶりがわかる)をはじめとする現代諸芸術を参照しつつ映画におけるモデルニテの何たるかを見極めることにあった(フィルムアート社刊『シネレッスン vol.13 映画批評のリテラシー』参照)。

 このたびの集成中でもっとも注目すべき文章のひとつは、1955年から61年にわたって「ガリア」(商標)のノートにしたためられた未発表の草稿ではなかろうか。

 さながらヴァレリーの「カイエ」あるいはブレッソンの「シネマトグラフ覚書」(そのアフォリズム趣味)をおもわせる断章群。

 読者はここにあいかわらず明晰できわめて抽象度の高い言語によって綴られたリヴェット映画思想のエッセンスを読み取ることができる。本篇はまさに映画批評家映画作家リヴェットの方法序説だ。
 
 セルジュ・ダネーの提示する見取り図によれば、「カイエ・デュ・シネマ」における「作家主義」政策は、リヴェットをその最大の継承者とするバザン的な“見ること”の教育学とジャン・ドゥーシェらの解釈学的な方法論とを両輪としていた。

 とはいえ批評家リヴェットの出発点には、すでに世界に向けられたまなざしが無垢ではありえないという認識があった。二十歳のかれが最初に世に問うた文章はいみじくも「われわれはもはや無垢ではない」(Nous ne sommes plus innocents)と題されている。冒頭を引こう。

 「スティルレル、ムルナウ、グリフィスのこれこれの映画をこんにちあらたに見て驚くとともにまざまざとおもいしらされるのは、人間の身振りとか感覚によってとらえることのできる全宇宙の営みがまとう並外れた威光[l'exceptionnelle importance]だ。飲んだり歩いたり死んだりという行為がそこでは濃密で充実した意味を帯び、どんな解釈や限定をも超越した徴[signe]としてのあらあらしい自明性[la confuse évidence]をともなってたちあらわれる。いまではもはやこのようなものを映画のなかに探し求めても無駄だろう」。

作家主義」を主導する概念のひとつとしてリヴェットじしんが提示した「演出」(mise en scène)という概念は、まさにこうした喪失感に発している。

 世界に向けられた映画作家のまなざしは無垢ではありえない。映画を撮る行為にはある抽象化の操作がともなうのであり、映画作家は異化効果にも似たそのような操作をつうじて弁証法的に世界に到達する。

 手稿「『ガリア』ノート」(および同時期の草稿「現代映画について」)は「演出」という行為をサルトルから借用した métaphysique [形而上学=超物質主義]というタームによって説明している。いわく、脚本とか物語は物質的なものであり素材[matière]にすぎない。「演出」こそ「映画作家に許される唯一の形而上学の形式である」。

 かくてリヴェットの批評はいっしゅの哲学的相貌を帯びる。その思索はロメールに薦められて読んだアラン、そして独自に発見したジャン・ポーランにふかい影響を受けている。そしてその思索を導くのが本書の随所で出会うたとえば「観念(idée)」「外見(apparence)」「明察(lucidité)」(「フランソワ・トリュフォーあるいは明察」というやはり未発表の文章がある)「秘密」「自由」……といったキーワード群である。

 なお、「法」(ルジャンドル)「秘密」および「無垢」というキーワードのパズルのように愉しげな並べ替えの操作によって“なぜある映画が語るに値する映画であり、別のある映画がそうではないのか”というポーラン的(もしくはカヴェル的?)難問に挑んでいる巻末のエレーヌ・フラパとの対話も、禅問答をおもわせるようなきわめて抽象度の高い思索的なテクストとなっている。


 (à suivre)