ジャン=ルイ・コモリの「イスラム国」映像論:『ダエシュ、映画、死』
*Jean-Louis Comolli : Daech, le cinéma et la mort (Verdier, 2016)
「イスラム国」(以下、ダエシュ)の勢力がすくなくとも地理的には縮小しつつあると報じられるきょうこのごろ。
ところで、ダエシュを未曾有の勢力たらしめたのはなにか?
映像である。
映像こそがこの勢力の最大の武器であるともいえるだろう。
ダエシュの映像は糞である。その点に議論の余地はない。
しかしそのことは技術的なクオリティとは無関係だ。
かれらのプロパガンダ映像を発信する Al-Hayat Media Center は、ハリウッドにも劣らぬ先端的なデジタル映像技術を駆使する撮影所 であるらしい。
じっさいにハリウッド映画とダエシュのクリップはいまや相互に影響を与えあう競合関係にある……。
いまや現代世界について考えることはすなわちダエシュについて考えることである。そしてダエシュについて考えることはすなわち映像について考えることである。(以上証明終わり)。
長年マルセーユで国民戦線にカメラを向けつづけてきたジャン=ルイ・コモリが『ダエシュ、映画、死』と題されたエッセーを著している。
裏表紙の文章を引用しよう。
「ダエシュはみずからが拷問する人たちの死を撮影する。死を撮影する?
ダエシュはそれをシステム化された方法で、もっとも派手な(spectaculaire)視覚効果に訴えつつおこない、いくつかのハリウッドのアクション映画に模倣されている。さらにダエシュはれっきとした撮影所を所有し、ありとあらゆるデジタル技術を駆使している。検閲されているいないにかかわらず、かれらの映画(film)は、全世界に常時流されている。
『ヨーロッパ世界の敵』は、ヨーロッパ世界で用いられている手段を用い、ヨーロッパ世界で用いられている形式を踏襲しており、そのことによっていっそうわれわれに近いところにいる。ダエシュもまた売買をおこない、市場開拓をおこない、投資をおこない、搾取をおこなっている。のみならず、かれらはわれわれの先まで進んでいる。映画と死のあいだの血生臭く(macabre)、反自然的な契約(alliance)を実現しているのだ。わたしは現代に固有のこの常軌を逸したできごと(extravagance)を理解したいとおもった」。
同書でコモリはダエシュの映像をリュミエール兄弟によって発明されたシネマトグラフのいわば鬼子と位置づけ、映画とイスラム国のクリップの連続性と不連続性をあきらかにしようとしている。
同書が『スペクタクルの社会』刊行(1967年)から半世紀を目前にして著されたことは偶然ではないだろう。
コモリの見立てによれば、デジタルシネマの制覇によって『スペクタクルの社会』におけるドゥボールのヴィジョンがついに現実のものとなったのだ。
そしてそれを実現したのはほかならぬダエシュである。
デジタルシネマは撮影、録音、編集、配給という映画制作のプロセスを同じ唯一の操作に還元する。
それによって時空間的な隔たり、ひいては制作者と観者との差異が消去される。
これはグローバリゼーション(「<資本>のGoogle的局面」)における眼差しの「脱個人化」ないし集団化という事態に即応している。
「デジタルシネマの勝利を言祝ぐ」ダエシュは「<資本>の敵ではない」というわけだ。
シリコンバレーの起業家とダエシュの殺人者は権力と隷属についての同じ意見を共有している。「懐疑」の余地はなく、すべては「事実」なのだというそれである。
それゆえ、「<資本>とダエシュのいずれのペストを選ぶかが問題ではもはやない」。
映画は不死性の神話に起源をもつ(バザン「写真映像の存在論」)。「映画は死という絶対者、死という全体性を断片化するべく発明された」。
ダエシュはいわばこの神話を完成する。映像の万能性(トリック)を人間の万能性と取りちがえることによって。
ダエシュの映像において、殺害はいわば白日の下にスペクタクル化される。「事実」はフレームの中にしかないというかのように。そこでは死刑執行人と犠牲者が同じフレームの中に共存し、そのいずれもがカメラの方を向いている。モンタージュが「禁止」(バザン)され、両者の視線が交わることはない。編集を拒否することでダエシュは時間を超越し、「時間の支配者」となる。
犠牲者の斬首というクライマックスがすべてであり、映像は一瞬で終わり、タイトルクレジットだけが長々と続く。
コモリによれば、ここで「演出」の対象にされているのは観者の眼差しそのものである(ヒッチコック?)。観者は、カメラの前の犠牲者を救えないという「観者」のポジションにとどまるべく強いられ、共犯者に仕立て上げられる。
写っているものへの意識を喚起すべく撮られる映画映像とは逆に、観者は意識を麻痺させられる。死は非現実化し、被写体の尊厳はそこなわれる。
ダエシュによる死のスペクタクル化にコモリは映画俳優による死の演技(トリック)を対置する。後者は観者の「信」の領域を関与させる。
ダエシュの映像は映画に内在している窃視欲動=破壊欲動を全開にした。そもそも映画のエロティシズムは見せない演出、つまり編集によって生まれていた。ナチスのプロパガンダ映画さえ、典型的に編集の力に依拠していた(『意志の勝利』)。
しかし視覚的な狂気が限界を超えることはないというのは幻想であった。すでにパゾリーニがその反映画的映画『ソドムの市』において予告していたことである。
ダエシュは撮る行為と殺す行為を短絡的に結びつけ、瞬時に全世界に中継する。それによって撮ることと殺すことがあらたないみを帯びるとコモリはいう。
撮ることは現実に目を開き、記憶を蓄えるためではなく、「伝達」そのものを目的とするようになる。観者の存在はダエシュによる殺害の必要条件である……。
すでにお察しのとおり、コモリの所論は大筋においてリヴェット、ドゥボールからバルト、ヴィリリオ、ダネーを経てモンザン、ディディ=ユベルマンに至るまでのここ半世紀の映像論をなぞっている(つまり新味はない)。
さらに映画の本分を本質化し、映画とダエシュを二元論的に対比させる図式に落とし込む誘惑に逆らい切れていない。
いわく映画はすべてを見せない……真実は画面外に宿る……それゆえに映画は観者の孤独で親密な「懐疑」の余地を残し、その「信」に委ねられる……映画は時間という有限性を刻印され、それゆえに<他者>に向かって開かれている、エトセテラ、エトセテラ。
そうした「映画的」なものの例証として召喚されるのも、『復讐は俺に任せろ』のラング(その簡略的な暴力描写)、『雨月物語』の溝口(その羞恥をまとったトラヴェリング)……といったおきまりのラインナップ。
あるいはシリアの反ダエシュ的なクリップの撮り手たちがその影響を標榜する「ひとつの映画的な倫理と政治の名称としての」ゴダールの名……。
映画がその創生以来背負いつづけている諸々の罪についてコモリはじゅうぶんに自覚的であるけれども、その罪をすべてダエシュに背負わせることによって、映画を浄化し、神聖化するという罠にはまりかけている。これはほかならぬダエシュ的な原理主義の裏返し(もしくは影響)ではないか?
パーカー・タイラーを読む(その8)
(承前)
パーカー・タイラーのエッセー Charade of Voices のさいごのパートは「アンチクライマックスの声」と題されている。
考察の対象となるのはディズニーの音楽アニメーション「メイク・マイン・ミュージック」シリーズの一篇『くじらのウィリー』。
歌うクジラの噂を聞きつけた興行師が捕獲に乗り出す。三つの喉をもち、三声を唱い分けるウィリー。興行師は三人の歌手がウィリーに呑み込まれているのだと思い込み、救出すべくウィリーを殺してしまう。ウィリーは天国で永遠に美声を奏でる。
声はいいが巨体でルックスに難のあるウィリーはメトの歌手の寓意である(「集団の声」のパートではメト歌手が鳥になぞらえられていたのをおもいだそう)。
ネルソン・エディーがすべての歌のパートを担当している。タイラーによれば、ネルソン・エディーはルックスはいいが声に難があるためにメト歌手の夢を絶たれた数知れぬ歌手たちのひとりである。
タイラーはこのキャスティングにハリウッドの声の charade をみいだす。
ほんもののメト歌手を起用しなかったことが妙味である。
物語のうえではネルソン・エディーの声がメト歌手級の声ということになっているわけだ。
それによって、この物語に、いまひとつの寓意がつけくわわる。
メト歌手の夢やぶれた歌手たちの復讐というそれである。
殺されるウィリーはメト歌手でもあり、元メト歌手志願者たちでもある。
本作が涙を誘うのはそれゆえである。
ネルソン・エディーのキャスティングゆえにこの物語が一篇の moral tale となる。
タイラーは本作ではじめてネルソン・エディーの声に聞き惚れた。その理由をおおよそ上のように分析している。
本作においても声は反リアリズム的な作為として用いられている。そして声という要素が演出の要と位置づけられている。
あるいみでこのさいごのパートが本エッセーのなかでいちばんタイラーらしい文章かもしれない。
パーカー・タイラーを読む(その7)
パーカー・タイラーのエッセー Charade of Voices のつづきをよんでいこう。
「Voices that no speakee…」という翻訳不可能な標題の下に論じられるのは、アクセントが異人種であることの符牒として用いられるケース。
『キスメット』のジェームズ・クレイグの誇張されたアクセントはアラブ人であることのたんなる記号であり、下手にリアリズムに則っていないだけに、すべてのアメリカ人男性が「千夜一夜物語」の英雄にみずからを重ねるたすけとなる。同作におけるディートリヒのアラブ人らしからぬドイツ風アクセントは、ぎゃくに囚われのマケドニア女としてのリアリティをつよめている。
『ドラゴンシード』で中国人女性を演じているキャサリン・ヘプバーンの真に迫った東洋風メイキャップは、女優ほんらいのものである「声のメーキャップ」(ボストンの演劇学校の生徒風のそれ)に負けてしまっている。持ち前の歌うような口調が多少はエキゾチックな効果を出し、英国式の儀礼的な言葉遣いが多少は東洋風に聞こえるとしても。
同じく中国人を演じている共演のウォルター・ヒューストンもエイキム・タミロフもどこからどうみてもアメリカ人とロシア人にしかみえない(聞こえない?)。いっそのこと様式化されたピジン・イングリッシュを全キャストに喋らせればよかったか? いかんせんそのへんの中国人洗濯屋の言葉かと錯覚してしまうが落ちだ。
「ローレン・バコールの声」。
あきらかに本論執筆中のタイラーをもっとも魅惑していた声は、この頃まさに彗星の如く現れたローレン・バコールの声である。
『脱出』のバコールのことばはどこか外国風(foreign)である。それは英語にもともと内在する外国的なもの(表音綴り法)もしくは英語にルーツをもつ外国的なもの(エスペラント)のごときものだ……。
スモーキーで、抑揚がなく、低く、けだるい音運び、くわうるにどこかディートリヒ風ともいえるがあくまでも出どころ不明の a pleasant burr をともなうその声は一個の謎である。
この謎を解くにはバコールのパーソナリティを分析してみなければならないと前置きして数十行におよぶバロック的な言葉の迷宮(「バコールは女優というよりも受肉化したマニエリスムだ」云々)を経巡った末にタイラーはひとつの意外なアナロジーにたどりつく。
『脱出』でのバコールの歌唱にタイラーは Cow Cow Boogie Girl ことエラ・メエ・モーズのそれとおなじ音調と声質を聞き取るのだ。
「ここではモーズ嬢の円を描くコントラルトの叙情詩調が、暗黙の、洗練された散文として捕え直されている(lassoed)」。
かくしてバコールの声はモーズをベースにガルボらの血清が注入されたものであるというのがタイラーによる謎解きのひとつの結論となる。
バコールはかくしてサイエンス・ホラー映画におけるがごとき実験の結果生まれた新種の生命体である。
幕切れの一節はこうだ。
Result : a new star, Lauren Bacall.
このパートを書いたあと、タイラーはあるコラムで『脱出』でのバコールの歌唱がティーンエイジャーの少年による吹き替えであるらしいことを知るが、「この事実を知ったところでわたしがおこなったバコールのエッセンスの分析的再構築には一カンマの揺らぎもない」と豪語する。
Her Hepburnesque Garbotoon, clearly confirmed in her subsequent pictures, equals Dietrich travestied by a boyish voice.
どうやら吹き替えの主は当時十六歳のアンディ・ウィリアムスであったらしい。後年のインタビューにおいて、ウィリアムスは録音した事実は認めつつも、それが映画のなかで実際に使われたかどうかについては言葉を濁している。
『脱出』でのドスのきいた歌声にタイラーが聞き取ったのは、バコールのパーソナリティおよび声におけるトーチ・シンガー的な本質である。
So I saw her as a kind of monster, with a special , fire-extinguisher kind of charm.
あるいみで、クイア的な状況へのタイラー一流の嗅覚がここでもはたらいているとかんがえることができるだろう。
パーカー・タイラーを読む(その6)
(承前)
「告げ口屋の声(Tattle-tale voices)」。
女優ベティ・デイヴィスのキャラクターは『人間の絆』におけるヒロインの「声」によって固まった。その whinking, snarking, shrewish tones がデイヴィスをして皮肉屋、the legendary cat of colloquial esteem という女性の類型たらしめた。
「この声は、たのしげな雰囲気のなかで発されようと、シニカルなハーモニーをにじみ出させ、その結果、洗練され、神経質で、artificial なタイプのフェミニティを表現している」。
「ドからドへと不連続にスケールを移行させる」ジーン・アーサーのクレイジー・コメディー向けの声も、「人間的なおもいやりに満ちた」と形容されるマーガレット・サラヴァンのハスキーな声(おもいやりをふりまきすぎた疲れのあらわれか?)も、おなじく aritificial な声に分類される。
「ハリウッドの声の工場はいっこの効率的な制度である」。変幻自在なアクセントをあやつるポール・ムニがその理想だ。あるしゅの俳優たちは早変わりする音声装置をその身にそなえつけている。
The voice of Anne Sheridan, for instance, is a peeling voice, juste as one speaks of an eating apple.
リンゴの皮を剥くように声でキャラを剥いでいく、というイメージであろう。
「その声をドラムの連打のように低く鳴り響かせてみたまえ。たちまち『The Doughgirls』でおなじみになった女性レスラーの声が聞こてくる」。
女性レスラーの声というのはもちろん譬えであって、同作でシェリダンが実際にレスラーを演じているわけではない。念のため。
標題中の tattle-tale という語は、“表裏のある”といったいみでとっておけばよいのであろう。
「ファニー・ヴォイス」のパートでとりあげられるのは、台詞の内容ではなく声だけで笑いをとる俳優たちである。
Marjorie Maine, with a facial expression like dry ice, has a grave-shod voice with the emphasis of a stamping machine.
舞台版の『デッド・エンド』で息子を告発する母親を演じて評判になったメインは映画版でも同じ役を務めたが、このように複雑なキャラクターはハリウッドの要請に沿うものではなかった。ハリウッドはかのじょの声だけを切り離し、その coal-bin croak (「石炭のゴミ箱のガーガーいうようなしゃがれ声」?)を磨かせて「シニカルなユーモアをたたえた人生観」をかのじょのキャラとして売り出した。
「Rationing」におけるウォーレス・ビアリーとの掛け合いは、油を差したコーヒーグラインダーと差していないそれとのスパーリングもかくや(メインはもちろん後者)。
ザス・ピッツ、W・C・フィールズ、エドナ・メエ・オリヴァー、あるいはローレル&ハーディの声のチーム。いずれも声をパーソナリティーの一部に組み込んでいることにおいて見事。アーサー・トリーチャー、エド・ウィンにいたっては声を演技スタイルに合わせるべく人為的に捻じ曲げてさえいる。
パーカー・タイラーを読む(その5)
Charade of Voices というエッセーのつづきをよんでいく。
「谷と山と平原からの声」と題されたパートでは、「ヒルビリー、ディープ・サウス、カウボーイ」の類いにカテゴライズされる俳優たちが扱われる。
ウィル・ロジャースやゲイリー・クーパーの「ナチュラルな」声(“地声”もしくは“肉声”)。クーパーの声からは「なめした生皮(rawhide)と燃え残りのタバコの葉の香り」が漂う。
しかし声の“リアリズム”は、ハリウッドの「声のまやかし(charade)」のほんの一側面でしかない。
スター女優がディープ・サウスの女性を演じるとき、メイソン=ディクソン線の南側でじっさいに話されている言葉はこの路線どうようもはや役に立たない。
『偽りの花園』のベティ・デイヴィスがお手本にしているのは舞台版を演じたタルラ・バンクヘッドの声である。
アラバマの産であるバンクヘッドには「毛皮の裏地のついた」南部のアクセントを身につけることはずっと容易だった。しかしバンクヘッドはそのごアメリカ各地やイギリスの舞台で長年キャリアを積んできたため、その南部訛りにはときとして「外国風の(alien)ニュアンス」が混じる。
その結果、デイヴィスはロンドンふうのアクセントをかぶせたバンクヘッドの南部方言を模倣していることになる!
バンクヘッドの舞台を実際に見ているじぶんが言うのだから間違いない、とタイラーは念を押す。
ことほどさようにハリウッドの「声のまやかし」は、いわゆるリアリズムには還元されない“作られた声”もしくは“ありえない声”なのだ、ということだろう。
映画批評家の才能が端的に“耳のよさ”にあることを実感させる目の醒めるような指摘ではないか?
パーカー・タイラーを読む(その3)
Magic and Myth of The Movies (1947)の巻頭に収められたエッセー Charade of voices をひきつづきよんでいこう。
「習得された英語の話し手」(Voices that learned to speak English)との小見出しの下に論じられるのは1940年代ハリウッドの外国人スターたち。
外国人スターは異国情緒にみちた役柄を振られることでその外国訛りを魅力に転じる。
アンナ・クリスティのキャラクターがガルボの声のハスキーさとむちゃくちゃな(abysmal)トーンを正当化したように。
ガルボの才能は演技スタイルをみずからの声に合わせる技倆にあるのだ。
ガルボの声はいわばサイレント時代のかのじょのイメージを聴覚化したものだ。
かのじょのファンは、スクリーンから響いてきた「ビターチョコレートの色調とハープのメジャーコードのようにしっかりした指さばきで弾かれるトーン」の虜になった。ほかならぬタイラーじしんもそのひとりであった。
アメリカのムーヴィーゴアは外国人スター(イギリス人は除く)の「かがやかしいダークブラウンの味わい」にやみつきになった。
ディートリヒの声。
Dietrich’s voice was charming, and remains so, subtly weighting the fluffiest phrases with a pleasantly meaty content.
クローデット・コルベールの声。
「ややもするとキーを低く設定しすぎるとはいえ、コルベールの声の魅力はそのはつらつさ(vibrancy)と軽快さ(good-sportiness)にあるが、鼻声がそれをあきらかに減じている。その鼻声は生まれつきのものであるだけでなく、喉と鼻のあいだの作為的な(洗練された cultivated)齟齬(ambivalence)ゆえであり、それはおもてだってはいないがあふれだすほどの自尊心を伝えている。色で(テクニカラーでというべきだろうか?)でいえば、リキュールでひたしたビスケットのブラウン……」。
「エリザベート・ベルクナーの声とアクセントはその演技スタイルどうよう純粋な装飾。ルイーゼ・ライナーの声とアクセントはあまりに感傷的にすぎ、あまりに涙の出し殻みたいだ(cindery with tears)。Cinderella の声はきっとこんなふうだった」。
トーキー初期にはブロークン・イングリッシュは矯正の対象であったが、そのうちアクセントが個性として受け入れられた。声の導入はぎゃくにサイレントの雄弁な身体言語(その筆頭がリリアン・ギッシュ)をブロークン化した。
イングリット・バーグマンのアクセントはかのじょの魅力のじゃまをしている。ぎゃくにバーグマンほどの演技者でないヘディ・ラマールのアクセントは、マシュマロを口のなかで上手にとかすがごとき崇高なベイビートークをうみだすにいたっている。
カルメン・ミランダのきついアクセントは官能性を強調しつつ笑いに転じる。シモーヌ・シモンのソプラノと抑えたアクセントのとりあわせの妙(『キャットピープルの呪い』)。
男優陣はどうか?
シャルル・ボワイエの Sir Galahad organ tones はかれの唯一の魅力であるが、ハリウッドに来たばかりのジャン・ギャバンの英語のほうがずっと朗々たるトーンを響かせている。
ドイツ人俳優(ペーター・ローレ、コンラッド・ファイト)の英語がなめらかにきこえないのは、アメリカ映画の台詞のピッチがドイツ映画よりもスローであるからかもしれない。
(à suivre)
パーカー・タイラーを読む(その4)
ひきつづき Charade of voices というエッセーをよんでいこう。
「バリモア一族を含め、さいしょに英語を話した声(Voices that first spoke English, including the Barrymore)」というパートにおいては、由緒正しい英語の話し手たちが俎上に載せられる。文中、バリモア家が「王族」と揶揄される。
もっとも個性的なイギリス俳優であるチャールズ・ロートンの「水分過剰(overliquescence)」の声は、「フルートのように感傷的で、オーボエのように自己憐憫的」。
ライオネル・バリモアのたえず corn(感傷的な芝居?)の皮を剥くような声は、ともかくも一個のすぐれた楽器である。
ジョン・バリモアの声は持ち主を超えて自己主張する(always playing its own part)といういみでナルシスティックな声である。それはおのれのスタイルにケチをつける者らの育ちの悪さをあからさまに見下している。スクリーン上でジョンが苦悩するたびに、苦悩しているのはかれじしんであるよりも声であるように聞こえてしまったものだ。この声が安らぎをみいだすのはハムレットの黒かロメオの淡紫色を纏っているときだけであるが、そういうときでさえ安らいでいるようにはとても聞こえない。
『特急二十世紀』は「声のコンプレクスが傑出した演劇的神経症である可能性をほのめかすがゆえに愉快なのだ」。
『孤独な心』でコックニーの女性を演じているエセル・バリモア。このひとにはもともと Duse[イタリアの大女優]というより diseuse(朗読家)というイメージがある。『孤独な心』のかのじょは母親というよりは母親に捧げる記念碑のようだ。台詞のない場面はともかく、かのじょが口を開くとコックニーのアクセントにキッチンよりはクリュテムネストラを連想させる演劇的なスタイルが混じってしまう。ミュートをかけた自動ピアノの音さながらの。かのじょは声帯の水腫を必死に隠そうとしているようである(上述の「声のコンプレクス」)。かのじょの声には、「健康上の理由で得意の演目を医者から禁じられてしまった軽業師のような無気力」が宿っている。かのじょは「喉頭の躁鬱病」を患っているひとのようだ。じっさいに作中のかのじょは病気である。それゆえ本作のかのじょは[病人を]「演じていない」!
ハリウッド映画でコックニーを演じた名のあるイギリス人俳優はグレイシー・フィールズを除いて皆無である。一方でアイルランド人役にはバリー・フィッツジェラルドとサラ・オールグッドという両名優のほかに、『男の敵』で「矯正器(brace)」をつけて見事なアイルランド人役をこなしたスコットランド人ヴィクター・マクラグレンがいる。
「可塑的な声、可塑的になった声」
ヴィクター・マクラグレンはタフな外国人役を牽引している。記憶に新しいところでは、グリア・ガースンがそのゴクラクチョウ的なトーンとイギリス訛りを19世紀の中西部人役にねじ込んでなんとかもちこたえていた。
女優がブルックリン訛りのようなローカルな特徴をとどめていると淑女らしく見えないが、ボガートやロビンソンはアクセントをのこしたままで典型的なアメリカの市民を演じられる。
アクセントは出身地や社会階層や学歴の指標だ。生まれたときからボストンのカレッジ出であるかのような声を(養成所で)仕込まれた、古くはウィリアム・パウエル、ジョージ・ブレント、ロナルド・コールマンからフレドリック・マーチ、ジョゼフ・コットン、フランチョット・トーンに至るまでのジェントルマン俳優たち。
愛想笑いと癖毛を共通点とするジョゼフ・コットンとフランチョット・トーンが見栄えのする衣紋掛けたるにとどまっていないのは、主としてかれらの声の魅力ゆえだ。
コットンの rich carpety crackle から発されるセックスアピールの火花、たいしてスコッチ&ソーダのフレーバーのまろみをおびたフランショット・トーンのdrawlish なトーンがかれらを世にもスマートな(smooth)若者たらしめているのだ。
生粋のBriton ジョージ・サンダースおよびイギリス文化の影響下にあるレアード・クリーガーとオーソン・ウェルズはその声だけで、そしてただ声によってだけ、 Mr. Winchell’s orchids(スキャンダル、ゴシップの意?)たりえている。
ことほどさようにジェントルマンのキャラは台詞以上にその声によってきまる。
(à suivre)