alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

パーカー・タイラーを読む(その7)

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 パーカー・タイラーのエッセー Charade of Voices のつづきをよんでいこう。


 「Voices that no speakee…」という翻訳不可能な標題の下に論じられるのは、アクセントが異人種であることの符牒として用いられるケース。

 『キスメット』のジェームズ・クレイグの誇張されたアクセントはアラブ人であることのたんなる記号であり、下手にリアリズムに則っていないだけに、すべてのアメリカ人男性が「千夜一夜物語」の英雄にみずからを重ねるたすけとなる。同作におけるディートリヒのアラブ人らしからぬドイツ風アクセントは、ぎゃくに囚われのマケドニア女としてのリアリティをつよめている。

 『ドラゴンシード』で中国人女性を演じているキャサリン・ヘプバーンの真に迫った東洋風メイキャップは、女優ほんらいのものである「声のメーキャップ」(ボストンの演劇学校の生徒風のそれ)に負けてしまっている。持ち前の歌うような口調が多少はエキゾチックな効果を出し、英国式の儀礼的な言葉遣いが多少は東洋風に聞こえるとしても。

 同じく中国人を演じている共演のウォルター・ヒューストンもエイキム・タミロフもどこからどうみてもアメリカ人とロシア人にしかみえない(聞こえない?)。いっそのこと様式化されたピジン・イングリッシュを全キャストに喋らせればよかったか? いかんせんそのへんの中国人洗濯屋の言葉かと錯覚してしまうが落ちだ。


 「ローレン・バコールの声」。

 あきらかに本論執筆中のタイラーをもっとも魅惑していた声は、この頃まさに彗星の如く現れたローレン・バコールの声である。

 『脱出』のバコールのことばはどこか外国風(foreign)である。それは英語にもともと内在する外国的なもの(表音綴り法)もしくは英語にルーツをもつ外国的なもの(エスペラント)のごときものだ……。

 スモーキーで、抑揚がなく、低く、けだるい音運び、くわうるにどこかディートリヒ風ともいえるがあくまでも出どころ不明の a pleasant burr をともなうその声は一個の謎である。

 この謎を解くにはバコールのパーソナリティを分析してみなければならないと前置きして数十行におよぶバロック的な言葉の迷宮(「バコールは女優というよりも受肉化したマニエリスムだ」云々)を経巡った末にタイラーはひとつの意外なアナロジーにたどりつく。

 『脱出』でのバコールの歌唱にタイラーは Cow Cow Boogie Girl ことエラ・メエ・モーズのそれとおなじ音調と声質を聞き取るのだ。

 「ここではモーズ嬢の円を描くコントラルトの叙情詩調が、暗黙の、洗練された散文として捕え直されている(lassoed)」。

 かくしてバコールの声はモーズをベースにガルボらの血清が注入されたものであるというのがタイラーによる謎解きのひとつの結論となる。

 バコールはかくしてサイエンス・ホラー映画におけるがごとき実験の結果生まれた新種の生命体である。

 幕切れの一節はこうだ。

 Result : a new star, Lauren Bacall.


 このパートを書いたあと、タイラーはあるコラムで『脱出』でのバコールの歌唱がティーンエイジャーの少年による吹き替えであるらしいことを知るが、「この事実を知ったところでわたしがおこなったバコールのエッセンスの分析的再構築には一カンマの揺らぎもない」と豪語する。


 Her Hepburnesque Garbotoon, clearly confirmed in her subsequent pictures, equals Dietrich travestied by a boyish voice.


 どうやら吹き替えの主は当時十六歳のアンディ・ウィリアムスであったらしい。後年のインタビューにおいて、ウィリアムスは録音した事実は認めつつも、それが映画のなかで実際に使われたかどうかについては言葉を濁している。

 『脱出』でのドスのきいた歌声にタイラーが聞き取ったのは、バコールのパーソナリティおよび声におけるトーチ・シンガー的な本質である。

  So I saw her as a kind of monster, with a special , fire-extinguisher kind of charm.


 あるいみで、クイア的な状況へのタイラー一流の嗅覚がここでもはたらいているとかんがえることができるだろう。