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精神分析と映画をめぐる読書案内

マニー・ファーバーを読んでみよう

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Farber on Film : The Complete Film Writings of Manny Farber (The
Library of America, 2009)

 ハリー・アラン・ポテイムキン(1900-33)、オーティス・ファーガスン(1907-43)、ジェイムズ・エイジー(1909-55)、ロバート・ウォーショー(1917-55)。

 アメリカにおける映画批評のパイオニアたちは、みんな短命だった。あらためて映画批評は若者の芸術であると強く思う。

 そんな中、マニー・ファーバー(1917-2008)だけは、例外的に長寿をまっとうしている。

 この人は画家でもあった。ジョナサン・クレーリーが言うように、そもそもアメリカ芸術家で偉大な著述家でもあった人というのはごく少数。しかも、自分のホームグラウンド以外の分野ですぐれた文筆家として名を成した人は、後にも先にもこの人だけである。

 戦死したファーガスンを引き継ぐかたちで The New Republic で批評を書き始め、The Nation を経て、Time で今度はエイジーのコラムを短期間ながら引き継いだ。そのほか、The New Leader、 Cavalier、Artforum、
Film Comment などに寄稿した。そのエッセンスは、1971年に Negative Space という書物にまとめられ、長年、映画狂のバイブルとして読み継がれていたが、亡くなってすぐのタイミングで、上に掲げた800頁超の全映画論集が刊行された。

 カリスマという言葉はこの人のためにある。そう言っても過言ではない。本書のカバー裏には、スーザン・ソンタグマーティン・スコセッシ、リチャード・シッケル、ジョナサンローゼンバウムといった面々のファーバー賛が連ねられている。やや意外な気もするが、『ニューロマンサー』のウィリアム・ギブスンの名前まで見える。それだけ影響力が広く、大きいということだろう。
 “アメリカで批評家の名に値するのはジェイムズ・エイジーとマニー・ファーバーだけだ”——ジャン=リュック・ゴダールもどこかでそんなふうに述べていた。満更いつもの大法螺として聞き流せない真実を含む発言だが、こういう(少々無責任な)賛辞は実は英米フランスでは掃いて捨てるほどまき散らされていて、いちいち数え上げている暇がないほどだ。単なるたれながし的な賛辞にとどまらないファーバー論として、興味のある向きには、ジョナサンローゼンバウム、ジョナサン・クレーリー、ケント・ジョーンズの文章をお薦めしておきたい。
 このうちのひとりケント・ジョーンズの証言によれば、最晩年のファーバーは、バラク・オバマの手の動きの美しさを褒めていたりしたらしい。ファーバーの「眼」を感じさせる悪くないエピソードだ。
            
 ファーバーのパワフルなテクスト群の中でももっとも有名で影響力の強い文章は、1957年の「地下の映画」(Underground films)と、1962年の「白象の芸術vs白蟻の芸術」(White Elephant Art vs. Termite Art)だ。


 「地下の映画」の初出は、Commentary 11月号。冒頭を読んでみよう。

 こんにちの映画においてもっとも悲しむべきことは、ずっと蔑ろにされてきた活劇の監督たちがいなくなってしまった一方で、彼らほどの才能もないデ・シーカやジンネマンが批評家たちを魅了し続けていることだ。男性的な活劇の真の巨匠たち——ラオール・ウォルシュハワード・ホークスウィリアム・ウェルマン、ウィリアム・キーリー、『駅馬車』以前の初期ジョン・フォードアンソニー・マンといった、兵士やカウボーイやギャングを描いてきた監督たち——は、ハリウッドで反芸術の役どころを買って出て、批評家に賞讃されることのない大量の二戦級フィルムを生産してきた。
 活劇の監督たちが現在では消滅途上にあり、彼らのうちの多くが、アメリカのたくましき男たちについての彼らの観察をあれほど価値あるものにしてきたドライで、経済的で、生命をすり減らすようなスタイルを放棄してしまったことを考えると、彼らが無視されてきたことがいっそう悲痛に感じられる。どうやらアメリカ人には、自国のもっともタフで、もっとも正統的な才能を歴史が葬り去るに委せておくという特殊な傾向があるようだ。オーティス・ファーガスン、ウォーカーエヴァンズ、ヴァル・リュートン、クラレンス・ウィリアムズ
J・R・ウィリアムズをほぼ忘却の彼方に追いやってしまった同じ波がいまや、大不況期以来の映画館にわくわくするような荒くれ者の映画をとぎれることなく供給しつづけてきた一群の人たちを呑み込もうとしている。

 ここで名前が挙がっている監督たちは、いまでこそ誰もが認める巨匠であるが、当時はそうではなかった。そもそも、映画の制作における監督の役割そのものが一般観客には認知されていなかったのであり、名前がタイトルの上にクレジットされるごく一握りのスター監督(キャプラetc.)を除いて、ふつうの観客が監督の名前を意識して映画を見るという習慣はなかったと言ってよい。監督の重要性が認知されるようになったのは、1950年代半ばのフランスにおいて押し進められた「作家主義」という批評戦略によるところが大きい。ファーバーのこの文章はちょうどフランスで、エリック・ロメールジャック・リヴェットフランソワ・トリュフォージャン=リュック・ゴダールといった批評誌「カイエ・デュ・シネマ」の若き同人たちが、ホークスアンソニー・マンといった活劇映画の撮り手たちを、その文体的・主題的一貫性においてヨーロッパの芸術映画の監督に匹敵する「作家」として位置づけつつあったのと同時期に執筆されていることになる。

 オーティス・ファーガスン以下の固有名詞の列挙の仕方が一癖あって、いかにもファーバー的だ。ウォーカーエヴァンズやヴァル・リュートンは、現在では完全に名誉復権を遂げている。彼らが一時的ではあれ忘れ去られようとしていたというのは、いまから考えるとむしろ意外だ。ちなみに、クラレンス・ウィリアムズ(1898-1965)は、ジャズピアニスト、作曲家。
J・R・ウィリアムズ(1888-1957)は、コミック作家。いずれも個性的なスタイルの持ち主。
 ファーバーの文章を読んでいると、こういう渋い固有名詞の列挙に度々お目にかかる。ジャンルも雰囲気も知名度も異なる固有名詞を思いもかけないやり方で大胆に結びつけることは、もともとファーバーの得意技のひとつ。たとえば、アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン』をシャルダン的と形容しているあたりは妥当な連想といえようが、サミュエル・フラーコローと並べてみせたり、ウォルシュを論じている文章で唐突にフラ・アンジェリコブラッサイの名前を出してきたりするあたりのとらわれのない発想、アヴァンギャルドなセンスには脱帽だ。

 すこし先のくだりを読んでみよう。ここでは、「地下の映画」の監督たちのポートレートが簡潔な筆致で描き出されている。

 これらの寡黙なクリエーターたちは、1920年代ジャズ文学サイレント映画を花咲かせた各種のグループ以来、アメリカに出現したもっとも興味深いグループだ。ホークスとそのグループは、匿名的な芸術家の最たるもので、まじめくさった芸術にありがちな、磨き立てられ、偽善的で、自惚れに満ちた、偽物の説教話を嫌悪しているように見える。自分にもっとも適したやり方を貫くために、ホークス的なタイプは、映画産業の中でも後方の、ほとんど目につかない場所を占めていなければならないのだ。このようにして、彼の映画は、撮影所の中でもっともぱっとせず、もっとも退屈で、もっとも単調な片隅から生み出されたように見える。これらの映画の顔を隠した操り手のすばらしいところは、がらくたのように見える素材からもっとも無駄がなく、もっとも鋭く、もっとも爽快な音色を引き出すことができることだ。

 ファーバーが「地下の映画」を、一般的な映画のカテゴリーとしてではなく、時代的にも地域的にも特定されたひとつのムーヴメントとしてとらえようとしていることは興味深い(同時に、そのムーヴメントアメリカ文化史の中に位置づけてみせる手つきの鮮やかさにも注目したい)。ホークス、ウォルシュ、ウェルマンらをひとくくりにしてとらえることは、いまではわりとありふれた見方だけれども、ファーバーは、その本質からしてただでさえ人目につきにくい彼らの存在を人々に認知させるために、あえてひとつのムーヴメントとしてくくって印象づけようとする批評的戦略に訴えているのだろう。ふつうの人には散り散りの点的な現象としてしか見えていないところにひとつの形、線を発見することは、批評の醍醐味と言えるだろう(実際、芸術史上の多くのムーヴメントがそのような批評家のいわば vision によって発見されてきたのであり、映画史とてその例外ではない)。同時に批評家のセンスは、そのようにして見出されたグループをどう命名するかにもかかっている。結果的にファーバーが、アメリカで最初にこれらの監督たちを評価した人とされるに至ったのには、「地下の映画」という絶妙のネーミングもあずかって大きいだろう。では、「地下の映画」とは、どういう映画なのか。その定義としては、このくだりにあるように、その作り手たちが「目につかない場所」で「顔を隠し」て仕事をしていることが一つ。しかし、それだけではない。

 ホークス=ウェルマンのグループに属する映画は、監督が作品の表面の下に隠れているという点以外にも、いくつかの理由で「アンダーグラウンド」である。苦みばしった活劇映画は、その本来の居場所を穴ぐらに見出す。知らない人が見ると神格化された入れ墨店のようなオーラを発していて、大都市のバスの終点付近にあったりする、薄暗くてごみごみした映画館だ。

 これが定義の二つめ。このあと、場末の映画館を描写した凄みのあるバロック的な描写が続くのだが、うまい日本語に移し替える自信がないので割愛する。少し先に移る。

 地下の映画の監督たちのとりあげる企画は、実験的でもなく、リベラルでもなく、才走っているわけでも、見栄えがするわけでもなく、かといってサム・カッツマンの手がけた安っぽいきわもの映画のように、極端に低予算でもなく、大袈裟でもなく、説教臭くもなく、きわだって商業主義的であるわけでもない。バート・L・スタンディッシュとマックス・ブラントレイモンド・チャンドラーのごたまぜみたいな、いまひとつあかぬけない、屑のような小説をもとに撮られた顔のない映画だ。おきまりのいかつい男の出てくる簡潔でパターンどおりのメロドラマ。背中に鋏を突き刺されて咳き込んでいるタレコミ屋。鼻にかかった声で喋る太ったギャングの親玉。逃亡中の服役囚。権力に飢えた牧場主と復讐に目の色変えたその息子。エディプス・コンプレックス偏頭痛に苦しむみじめな殺し屋。先住民に武器を融通する密売人の賭博師。くたびれたGIイーストサイドのビルに身を潜める無能で青臭いチンピラ。リンカーンの暗殺を企てる病的なまでに洒落もののイタリア人理髪師。頑固な大金持ちの幼稚なあばずれ娘への恐喝をやめさせるべく二束三文の値で雇われた探偵。

 背中に鋏を突き刺されたタレコミ屋は『我暁に死す』、くたびれているのは『GIジョー』や『戦場』の兵士たち、薄給の探偵は『三つ数えろ』とわかるが、「エディプス・コンプレックス」に苛まれた殺し屋は『白熱』のマザコンのギャング? 家父長的な牧場主とその息子は『ララミーから来た男』を連想させる。

 活劇の監督たちは、雇われ仕事を片っ端から引き受けるので、あらゆるタイプの筋立ての扱い方とタフな洞察力を会得している。……重要なのは、どこへも行きつかない一見して平凡なストーリーの行程ではなく、西部劇やギャング映画の古典的な出来事の内部に、および、おきまりのチンピラ=兵士=カウボーイの類型的なキャラクターの中に掘られるトンネルである。たとえば、ウェルマンには、けばけばしい安物を使って、死や愛国心マスターベーションをそれとなくほのめかす無駄のない省略的な才能があるが、これはとりもなおさず、ウェルマンは自分だけの知っている獣道を通って真実にたどりつくが、もっと有名な監督たちは、舗装された道路を使って遠回りをするということだ。

 「穴ぐら」、「トンネル」といった喚起力に富んだ語彙の用法に注目したい。underground という呼称は、ウォーホルらのムーヴメント以後、もっぱらその精神性において捉えられるようになったといってよいが、ファーバーのいう underground は、やはりある種の映画を貫く精神性によって定義されるものでありながら、どこまでも空間的で物質的で身体的で視覚的なイメージをともなう呼称でありつづけている。

 「けばけばしい安物を使って死や愛国心セクシュアリティをそれとなくほのめかす」というのは、先ほど引用したくだりにあった「がらくたのように見える素材からもっとも無駄がなく、もっとも鋭く、もっとも爽快な音色を引き出す」の言い換えだろう。安っぽいクリシェを使って、まじめな主題を扱ったり、リアリティあふれる表現を生み出す能力のことを述べている。
 活劇のパターン化されたストーリー展開や類型化された登場人物を、裏から表から知りつくした監督が、そういうクリシェを枠組みとして踏襲しながら、それを密かに乗っ取って、ちゃっかり自分自身の表現手段として流用してしまう。その結果、高名な監督たち(ジンネマン、ヒューストン、スティーヴンスらが念頭に置かれている)のように高尚なテーマを仰々しく扱わずとも、同じ真実に行きつく。興行的なリスクの少ない活劇映画で、オスカー狙いの重厚な見かけの映画に負けないくらい重みのあるテーマを扱えるのだから、ずっと経済的なやり方だ。いわば道路を舗装する資金が省けるのだ。クリシェに「トンネル」を穿つという言い回しには、このような“近道”というニュアンスと、クリシェをもはやクリシェとして機能させず、いわば骨抜きにする、空洞化するという二重のニュアンスが読みとれるのではないか。

 ウェルマンの「省略の才能」が例に出されているが、この監督の“見せない演出”についてはたびたび指摘されるところ。描くべきものをちょくせつ描かずに暗示的表現にとどめることで、ちょくせつ視覚化した場合よりも、より多くのことを表現できることがある。修辞学でいう省略法というテクニックだ。たとえば、『牛泥棒』で、重大な告白をする人の顔を逆光で撮り、あえてその表情を見せない。『G・I・ジョー』では、爆死した仲間の遺体を見せず、まわりの兵士のリアクションだけを長々と映す。スクリーンに映っているのは、隅から隅までパターン化された戦争映画の世界だが、画面外にそれを超えた現実を読みとらせているわけだ。
 しかし、クリシェに「トンネル」を穿つ方法は、省略法にかぎられない。たとえば、ウェルマンは、パターン化されたストーリーに妙にリアルなディティールを忍び込ませることがうまく(たとえば、『戦場』のヘルメットで卵料理を作ろうとするエピソードや、安全ピンで留められた軍服など)、ディティールの輝き(ドキュメンタリー的な面白さと言い換えることがあるていどまで可能かもしれない)がストーリーの凡庸さを凌駕してしまう瞬間がたびたびある。ちなみにクルソドン=タベルニエによれば、ウェルマンにおいてそういう「おもいがけない発見」は、登場人物の身ぶりとか態度とか衣服の面で現れることが多い(『アメリカ映画の50年』)。このうち、主として身ぶりということに関しては、ちょっと先のほうに、ウォルシュとホークスの映画をコメントした次のようなくだりがある。

 ウォルシュの映画では、一人のギャングが酒場を横切るとき、見事に曲芸的な即興と身のこなしを見せるので、まるで後ろ向きに歩いているように見えるほどだ。

 このギャングとはキャグニーのことだろう。酒場を横切るという見慣れているはずのアクションが、俳優の身ぶりひとつで、まるではじめて見るアクションであるかのように新鮮に目に映る。いわば、身ぶりの斬新さがアクションそのものの凡庸さを裏切ってしまうのだ(もちろん、それは天才キャグニーのイマジネーションにあふれた非凡な身のこなしをもってしてはじめて可能になるのだが)。次の引用は、このすぐ続きの部分。

 『赤い河』においてホークスがなし遂げている節度ある大胆さは、クリフトの繊細な物憂さとウェインの粘土質の演技を見事に使いこなすことで生まれている。いつものように、ホークスクリフトを一連の使い古されたフェティッシュ(バーニー・グーグルのオザーク帽や同種の芸当)と、優雅で打ち解けた身ぶりを通じて演出している。歩幅の取り方、ひざまずく姿勢、飛びかかる蛇のような早撃ち。この演技の美しさは、クリシェが改造され、ねじ曲げられているにもかかわらず、自然な見かけがけっして損なわれないところだ。これは、クリフトがハリウッドで演じた最初で最後の、ハードで、しっかり演出され、イマジネーション豊かな役柄だという感じがする。彼のただ一度の軟弱ならざる演技だ。このあと、彼はジンネマンやスティーヴンスやヒッチコックのもとに去ってしまう。
 地下映画が物語のつまらない紋切り型に、ひらめきに満ちた優雅なトーンで穴を穿つささやかで目につかない試みは、地下の監督たちの大きな快挙である。

 「赤い河」を見直してみると、たしかにモンティ・クリフトの優雅なものごしに目を奪われる(ついでにウェインのいつもながら鉱物的な——要するにミニマルでタフで down-to-earth な——演技も確認できる。ウェインについては後述する)。神経症的なメソード俳優と見なされることが多いクリフトだが、この作品では輪郭のくっきりした徹底してフィジカルな演技をしている。演技の手数が多く、例えば、同じ立ち姿でもたえずポーズにヴァリエーションをつけているし、一瞬たりとも静止した瞬間がなく、たえず身体のどこかしら、とりわけ、手を動かしているのがわかる。クリフトの深く青い瞳が西部の蒼穹と鮮やかに韻を踏み(モノクロ映画だが)、メロドラマ向けの華奢な身体が西部の大自然との間に不思議な化学反応を起こしている。
 とはいえ、これは、俳優にいつもの役回りとは逆の意表をついた役柄を振るという、よくある小細工ともちがう。繊細な知性派のクリフトに西部の行動的な若者を演じさせるというミスマッチにこのキャスティングの面白さがあるわけではない(多少はあるかもしれないが)。そもそも、この作品でクリフトが体現する「寡黙さ」「眼力」「動物性」「反抗」(クリスチャン・ヴィヴィアニによる。ヴィヴィアニの筆になる『ラルース映画事典』のクリフトの肖像は見事な名文だ)は、もともと俳優クリフトの持ち味である。つまり、クリフトには西部の男を演じる潜在的な素質が十分にあったということだ。ホークスは、クリフト潜在的な魅力をこの作品で見事に引き出してみせたのだ。いまさらながら、ホークスならではのゆったりしたショットがどれほど俳優の身ぶりを引き立てるかを再認識させられる。身ぶりのひとつひとつが才気に満ちているので、観ている者にとっては、ストーリーの凡庸さも、カウボーイという役まわりも、もはやどうでもよくなるという感じだろうか。
 「自然な見かけがけっして損なわれない」というところがミソではなかろうか。「地下の映画」の撮り手たちは、見かけだおしや仰々しさをきらう。何より、「地下の映画」は、その定義からして、人目につかないところでひそかに進行するものなのだ。


 もう一つファーバーの挙げている具体例を見てみよう。すでに引用したくだりに「背中に鋏を突き立てられて咳き込んでいるタレコミ屋」というのが出てきたが、これについては、別の箇所で詳しくコメントされている。

 『我暁に死す』でもっとも息詰まる瞬間は、密告者の殺害の場面だが、この密告者は、刑務所での映画の上映中、背中に鋏を突き立てられるのだ。ここでのキーリーとキャグニーの偉業は、すばらしく興奮されてくれる。スクリーンからごったがえした上映会場のうしろの方まで派手な三段跳びでアクションが駆け抜けていくのだが、場内の三つの別々の地点で起こるアクションが、それぞれ異なるテンポによって鮮やかにコントラストをつけられていて、この三つのアクションがともども、洞穴のようなうす暗がりの中で進行するのだ。いくつもの混乱が並行して皮肉っぽく描かれるが、その一つは鋏を刺された犠牲者の咳の発作であり、それがスクリーン上で太平洋上空を旋回する戦闘機の映像を背景に起こる。
 名人芸的な偉大な映画においては、どこか地下工作を思わせる何かがある。ただし、その何かは、物語の上空で進行しているのだ。

 序破急さながらのダイナミックな音楽的構成(場内前方→中央→後方)も鮮やかなこのシーン、たしかにすごい。まず、その簡潔さに驚かされる。
(1)シーンの冒頭では、行儀よく整然と着席した囚人たちが、スクリーンに写し出される米軍戦闘機による大爆撃に、これまた可笑しいくらいに整然と喝采をおくっている。闇の中に明るく浮かび上がるスクリーンを通路ごしに仰角ぎみのアングルでとらえたショットが印象的だ。観客には囚人たちの後ろ姿しか見えない。(2)殺害の瞬間は、ほんの二つのいずれもごく短いショットで示される。突然うめきながら上体を前方に傾ける密告者のミーディアムショット。緊張した横顔がスクリーンから注がれる間欠的な光の中にグロテスクに浮かび上がる。うめき声とも嗚咽とも咳の発作ともつかない、脚本上にはおよそ言葉で指示できないであろうようななまなましい動物的な喉音が短く漏れ、観る者の耳に搦みつく。つづけて、通路ごしにスクリーンを見上げる仰角ぎみのロングショット。棒切れみたいに無造作に通路に横ざまに倒れ込む犠牲者が映る。暗殺者の姿も、暗殺者が鋏を使う瞬間も、一度も画面には映らない。行為の描写はまるごと省略し(画面外に委ね)、結果だけしか描いていない。(3)つづけて、ざわめく周囲の囚人たちと看守たちが映る。犠牲者の姿もそれっきり映らない。薄闇の中で起こる殺害のドライで簡潔な描写と、その背景のスクリーンの中で大袈裟にとどろく轟音ときらめく閃光。この気狂いじみたコントラストになぜか無性にぞくぞくする。密告者をいつ殺るかというこの場面本来のサスペンスが見事にはぐらかされて、観客は物語上のサスペンスとは別のサスペンスに手に汗握っている。「映画の上映中に」「鋏で」「密告者を刺し殺す」という、ばかばかしさも三乗のアクションの枠組みはもはやどうでもよくなってしまうのだ。
 ここでファーバーは、スクリーンのなかの空間そのものをほかならぬ「洞穴」になぞらえている。まさに究極の「地下の映画」といえるだろう。「地下工作」という言葉は、すでに述べたような、クリシェの乗っ取りと流用という、犯罪の匂いの漂うヤバい所業を見事に言い当てている。最後の文句も気が効いている。急旋回する戦闘機の映像からおのずから引き出された一節であろうが、地下なのではあるが、低俗な見かけの地上よりもはるかにレベルが上だという、皮肉というか洒落である。



 さて、すでに引用したくだりで、ウェルマンのスタイルを「トンネル」と「獣道」という二重の比喩で言い表した箇所があったのを思い出していただきたい。この二つの比喩は、5年後の文章でただひとつの絶妙な比喩のうちに結びつけられることになる。「白蟻」というのがそれである。というわけで、次回は、「地下の映画」と並ぶマスターピース「白象の芸術 vs 白蟻の芸術」を読んでいく。



追記:

 この文章は、以前、発表のあてもなく書きかけた文章を手直ししたものです。書き直しているうちに、同じようなスタイルで映画批評の古典的文献を読む作業をつづけてみようかと思うようになりました。気長におつきあいいただければうれしいです。