alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

スタンリー・カヴェルのフレッド・アステア論

*Stanley Cavell : Philosophy The Day after Tomorrow (Belknap Press of Harvard University Press, 2005)

 『明後日の哲学』の第1章と第3章で、それぞれ『バンドワゴン』冒頭近くの二つの演目(routine)が分析されている。(第1章のみ『カヴェル映画論集』に再録。)

 映画は、アステアが駅に降り立つ場面からはじまる。かつての花形スターがブロードウェイに戻ってきたのだ。この作品のテーマがカムバックというすぐれてカヴェル的なテーマであり、アステアが演じるのが、帰ってきた人というすぐれてカヴェル的なキャラクターであることにまずは注目したい。

 周囲の人たちが彼の存在を気にとめないことが、流れ去った時代を実感させる。自嘲的な笑いに煙草のけむりがヴェールをかけ、男のメランコリーを際立たせる。

 わずかに誇張して体を左右に揺すりながら、プラットフォームを歩くアステア。

 歩くことは、ソローおよびベンヤミンにちかしいモチーフである。

 ところでカヴェルによれば、この歩みは単なる歩みではなく、すでに「ダンスのひとつの限定的な事例」、あるいは「初期状態(proto-state)」である。

 歩きながらつぶやくように口ずさんでいる<By Myself>にしても、「音節化」の状態にとどまっており(ダ;ダ、ダダ;ダ、ダダ)、いまだ歌になりきっていない。

 アステアのダンスが日常的な身ぶりと連続的であり、その歌が日常的な話し言葉と連続的であることは、よく指摘されるところであり、それ自体はカヴェルのオリジナルな見解ではない。とはいえ、「半ば踊り、半ば歌う」といった体のこの演目のうちに、気づかれないこと(unremarkableness)あるいは見逃されやすいこと(missableness)と、誤認すべくもないもの (unmistakability)の共存という本質をみてとっているのは、カヴェルならではだ。

 まわりの群衆(やはりベンヤミン的なモチーフ)がかつてのスターに気づかないのは、なによりこうした本質によるものだろう。

 カヴェルはここでのアステアの足慣らしを「音楽史上もっとも物議をかもした出だし」として知られる「トリスタン」の和声展開になぞらえる。

 それは「霊的浮上(psychic hovering)」への「カデンツァ的な準備」であり、歩くという身ぶりをいわば触媒(delivary)として、アステアは日常的な動作に閉じ込められたダンス的な本質(ないし物質的な肉体に閉じ込められた霊的本質)を解放し[delivary の語源は「自由にすること」]、「生のままの身体」ないし「生のままの生存」を露にしてみせる。この状態は脱自(ecstacy)の状態とも呼ばれている。


                 *


 「フレッド・アステアは賞讃する権利を主張する」と題された第3章においては、二つめの演目がコメントされる。アーケード(ふたたびベンヤミン的モチーフ)のゲームセンターで黒人の靴磨きをパートナーに踊る場面だ。

  この演目において、「浮上」 が着地点を見出し、メランコリーが脱自に高まるとして、最初の演目との連続性が指摘される。

 「賞讃」という本論文の主題を導入するにあたって、まずヘンリー・ジェイムズ短編小説『生誕地』の話題が枕に振られる。シェイクスピアと思しき大作家の生家の管理を司る夫婦の話だ。「見学客が毎日彼(くだんの大作家)を殺している」という幕切れ近くの妻の台詞が引かれ、偶像化が「偽の賞讃」であるとされる。『バンドワゴン』の二つめの演目において、アステアは自らのダンスの源泉のひとつである黒人的なダンスの伝統に対して、それとは別の賞讃の捧げ方をしているという。

 この演目に関して、政治学者マイケル・ロージンBlack Face and The White Noise)は、「玉座」のような高い椅子にふんぞり返ってアフリカ系の靴磨きに甲斐甲斐しく世話をさせているのは人種主義的であるとコメントしている。ロージンによれば、アステアは黒人の伝統を横領し、それへの負債を認めていないということになろう。カヴェルの分析は、この見解に対する反論にもなっている。

 ロージンは、靴磨きを下層階級の労働と決めつけているが、カヴェルはこの靴磨きが超自然的な能力を授かった特権的な人物であるとほのめかしている。

 じっさい、靴とはダンサーにとっての命である(この場面でアステアは証明写真の撮影機のなかで足を高く上げ、靴の写真を撮っているくらいだ)。くだんの靴磨きはその靴を魔法のワックスで宙を舞う履物に変える(高い椅子の上のアステアは、その身軽さともあいまって、浮遊しているように見える)。

 ちなみに、最初の演目では、アステアの足許が一度も画面に映らない。これは重要なディテールだ。もっともありふれたショットサイズであるアメリカン・ショット(膝から上のショット)で一貫して撮っているのは、 安易さのしるしであるどころか、考え抜かれた演出の賜物である。

 次いでカヴェルは二人のダンスの舞台となるアーケードの意味あいに注意を促す。 

 「このアーケードは何なのか。そこで何か起こっているのか。そこで起こっていないことは何か」。

 アーケードそのものは、アメリカという名の「誇り高き国」[画面に映り込むネオンサインの文字]の肖像あるいはアレゴリーだ。その国には、娯楽と仕事と他になすべきことのない人たちへの偽の約束だけではなく、アステアの退場のような魔法と免除を約束する領土も含まれる。

 アステアと黒人の靴磨きは、「つかの間」同じ舞台、同じ振り付け、同じポース(立ち姿と拝跪)を共有する。「<目的の王国>のつかの間の実現」であり、「ユートピアトラウマ的な一瞥」だ。しかし、二人は一緒に舞台を下りることができない。アステアはパートナーを舞台上に残したまま、一人で退場する。理由の説明もないままに。

 二つめの演目の最後にアステアがこじ開けてみせ、アメリカ的生活を閉じ込めていたことが明らかになる謎の機械が彼に思い出させるのは次のことだ。機械仕掛けの自己称賛というアメリカの表舞台と妥協し、それに同意することなしに、彼は黒人のダンスを賞讃することができないということだ。その表舞台の自己忘却を、アーケードの奥深くに潜むエンターテイメントの反-舞台は覚えている。アステアは、いずれの舞台にも顔を出し、いずれの舞台からも引き下がる。靴磨きと再会するときにクローズアップされる、アメリカが自らにつきつける真鍮性の[ brazen 恥知らずな]疑問符から、そしてまた、真鍮性の[brassy 耳障りな]出口から、スピンしながら遠ざかりつつ、普通
[ordinary]の通りがかりの群衆の方に戻っていき、その中に姿を消す。——これが意味するのはどういうことか? おそらく、この遊歩者[flâneur]がニューヨークの舗道で通行人と見分けがつかないとすれば、これらの新たな歩行者たちがどんな未来の道を彼ら自身で見つけることをあてにできるのかを問うてみるのはもっともなことだ。未来への道は果たしてあるのだろうか。
 エマソンと、それに続けてニーチェが、ないと考えている。彼らはむしろ未来というものを、現在の、そして現在からの、不連続的で、予測不可能な変容として理解している。エマソンは、ソローを先駆けつつ、白昼に別の夜明けがはじまるだろう、今日が別の日になるだろうと予言している。ニーチェは、未来を哲学のひとつの機能として、未来の哲学というかたちで告げ、「明日と明後日の哲学者」として未来の哲学者を特徴づけている。

 アステアはパートナーを残して去るが、アステアのこのふるまいを擁護するために、この退場自体も演目の一部であるととりあえず考えてみることが可能である。押しつけられた社会的役割を一旦引き受け、そのうえでキャスティングの仕方が恣意的で不適切であると社会に対して申し立てているのだと。
 
 これに対し、押しつけられた役柄を受け入れた時点で、すでに囚われの身なのだと反論することもできる。「それはあまりにも悲しく、アイロニーはあまりにも痛みに満ちている」。

 これにさらに反論することもできる。ダンスそのものが、この悲しい力についてのダンスなのであり、このアイロニーの痛みを受け止めているのだ、と。アステアはその場を去るが、差し招くように両手を靴磨きの方に伸ばしたままではないか。自分の身が二つに引き裂かれると言うかのように。

 この去り行く男はいったい誰なのか。彼を非難することはやさしいが、われわれ自身、彼とどう違うというのか。われわれの非難は、「偽の賞讃」ならぬ「偽の告発」なのではないか。アステアが自らのダンスの代価を自覚していないという思い込みのもとに、われわれ自身をアステアによる他者の伝統の我有化(横領)から切り離せると思っているのか。

 「アーケードですべてが起こったわけではないが、何かが起こった」。この賞讃を正当なものと認めるに十分なだけの何かが確実に起こったのだ。そこに積極的な意味を見出そう。

 アステアの「脱自的」なダンスのうちに、この両義性を読みとらなければならない。アステアのダンスは、自己のさなかで自己を自己の属する文化に対立させ、その文化が存続しているかぎり、この自己分裂の状態を持ちこたえよというエマソン的あるいはベンヤミン的な倫理を体現している。

 近年のカヴェルの映画論を代表するこの論文は、『北北西へ進路を取れ』論と併せて読まれるべき興味深いアメリカ論にもなっている。