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精神分析と映画をめぐる読書案内

愛の讃歌——アラン・バディウの映画論

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*Alain Badiou : Cinéma, Nova Editions, 2010.

 ジル・ドゥルーズやスタンリー・カヴェルと同様に、アラン・バディウ哲学と映画が同じ使命を担っていると考える。

 それを一言で要約するなら、ほんらい結びつきのあるはずのないところに結びつきを模索することだ。

 バディウはそれをカントにちかしい用語によって「綜合」(synthèse)と呼んでいる。

 孤立や断絶の単なる事実確認であってはならない。ましてや孤立や断絶に居直り、そこに安住してはならない。孤立や断絶のなかにあらたな共同性、あらたな普遍性を創り出さなければならないのだ。

 バディウ哲学および映画のうちに見出すのは、このような高度に政治的な使命である。

 同時に、こうした「綜合」は、愛というものの実体でもある……。


 以下の引用は、2010年にまとめられた映画論集に収められている「哲学的実験としての映画」という文章から。2003年にブエノス・アイレスでもたれたセミナーがもとになっているとのこと。

 映画は哲学とまったく特殊な関係を結んでいる。つまり、映画は哲学的経験であるということができる。[……]映画は哲学的状況である。抽象的な言い方をすれば、ある哲学的状況とは、ふつうは関係のない諸項のあいだにある関係のことである。

 「哲学的状況」の説明として、バディウは3つの事例を挙げている。
 
 ひとつめは、対話篇『ゴルギアス』におけるソクラテスとカリクレスの対話。正義をめぐる二人の立場にはまったく接点がない。どちらかの立場を選択するという読み方しか読者には許されていない。

 二つめは、アルキメデスの死。彼は砂に書いた数式の証明に没頭するあまり、征服民であるローマの将軍への謁見要請に耳を貸さなかったために殺された。「国家の法と創造的な思想のあいだには共通点がない」。
 
 三つめは、「これまでに撮られたなかでもっとも美しい恋愛映画」である溝口の『近松物語』。
 
 幕切れで、さらしものにされて死んでいく恋人たちがかすかに浮かべている微笑みにバディウは震撼する。

 これはほんとうにおそるべき微笑みである。ここにあるのは愛と死の融合というロマン派的な観念ではない。彼らは死ぬことなど欲していない。単に、愛もまた死に抵抗するものであるということなのだ。ドゥルーズとマルローが芸術作品についてそう言っているように。じっさい、おそらくそれこそが真の愛と芸術作品とに共通するものなのだ。

 [……]もちろん、恋人たちは社会の法と矛盾する存在であるが、微笑みが二人を結びつけていることのなかに、あり得る別の社会のかたちが予告されている。それはたんに社会の法との乖離ではない。社会の法は変わり得るという観念なのだ。愛を排除するのではなく、統合するような社会の法が可能性としてあるのだ。この恋人たちが普遍的な存在であるのは、そのような綜合が存在するかぎりにおいてのことである。万人にとっての法とそれに対する例外の綜合だ。あらゆる例外、あらゆる事件(événement)は、万人にとってのひとつの約束でもあるのだ。仮にそれが万人にとっての約束でないならば、例外的なものが芸術としての効果をもつことはないだろう。

 同感だ。恋人たちが口元に浮かべる笑みは、純粋に視覚的なレベルでは控え目なモチーフにすぎない。しかし、世間一般の世界観を一気に覆してしまうような革命的な力を潜ませている。溝口の本領はそういうところにあるのだろう。『雨月物語』の田中絹代殺害の場面のカメラワークしかり、『山椒大夫』の安寿入水の場面で水面に広がる輪しかり。


 バディウはまた、『イタリア旅行』の幕切れにも純粋な愛のあらわれを見出している。

 ロッセリーニの作品『イタリア旅行』の幕切れを見るがいい。これもまた愛についての映画である(そもそも、愛のない映画とはいったいどういうものなのだろうか。愛なしにわれわれ自身がすることとはいったいどういうことなのだろうか)。うまくいかなくなった夫婦の物語である。すっかりおなじみの話だ。夫婦仲がもとにもどるのではないかという漠とした希望を抱いて彼らはイタリアへの旅に出るが、実際にはそんなことにはならない。夫は別の女性たちへの誘惑に逆らえない。妻はといえば、孤立、孤独を求めてナポリの街中やヴェスヴィオス界隈の自然のなかをさまよう。しかし、映画は彼らの愛の真の再構築によって幕を閉じる。実際には、それはひとつの奇跡である。ロッセリーニがわれわれに言いたいのは、愛は意志よりも強いということであり、あなたが夫婦を救おうと努力するとき、あなたは非現実的なことを望んでいるのだが、実際には、この夫婦の何ごとかがおのずから救われねばならないということなのだ。まるで愛は新しいテーマ(主体)であって、交渉の対象などではないかのように。つまるところ、ロッセリーニがわれわれに言いたいのは、ひとつの極端な主張に帰されるのだ。つまり、愛は契約ではなく、事件(出来事)であるという主張である。愛が救われ得るのであれば、それは事件によって救われるだろう。幕切れの場面で、ロッセリーニは奇跡をカメラに収めている。映画では奇跡を撮ることができるのであり、おそらく映画は、奇跡的であることのできる唯一の芸術なのだ。奇跡を絵画に描くことはむずかしく、奇跡を言葉で物語るのは容易なことではないが、奇跡を映画に撮ることは可能なのだ。なぜか? その理由は、映画では、感覚的なものの内部から奇跡をとらえることができ、もっぱら、感覚的なものの色価のわずかな変化をとおしてとらえることができるからだ。映画は視覚的なものに内在する光を出現させることができるのだ。このとき、視覚的なものそのものが事件になる。このことは映画に可能なもっとも偉大な綜合のひとつであり、つまるところ、映画とはそもそも、感覚的なものと知性的なものとの綜合なのだ。
 思うに、映画と愛のあいだには密接な結びつきがある。その理由はまず、愛は、映画と同じように、実存のさなかでの奇跡の現れであるからだ。問題の一切は、この奇跡が持続的であるかどうかを知ることにある。「持続的ではない」と言ったとたん、シニカルで相対的な愛のとらえ方に落ち込んでしまうが、ポジティブな愛のとらえ方をしたいなら、永続する奇跡が存在すると主張しなければならない。愛の出会いは生における不連続性の象徴である。一方、結婚は連続性の象徴である。このことは哲学的かつ映画的な問いをつきつける。つまり、「分裂のなかにひとつの綜合を構築することは可能であろうか」という問いである。愛はつねに、<革命>と同じように、そしておそらく映画と同じように、この問題の特徴的な一事例なのだ……。映画が愛と似ている第二の理由は、映画が言葉の芸術ではないことである。
[……]映画では言葉はきわめて重要ではあるが、本質的な要素ではない。映画は言葉の芸術であると同時に沈黙の芸術でもあり、感覚的なものの芸術なのだ。愛もまた黙している。愛のひとつの定義を提示してみるならば、「愛とは告白のあとに来る沈黙である」ということになろうか。「愛している」と言ったら、あとは黙るしかない。というのは、いずれにしても、愛の告白が[愛という]状況を創り出したからだ。沈黙へのこうした関係、身体の現前へのこうした関係は、映画で表現するのにうってつけである。映画はまた性的身体の芸術でもある。映画は裸体芸術だ。このことが映画と愛とのある親密な関係を創り出す。

 映画における言葉の重要性のとらえ方はちがっても、カヴェルの再婚コメディー論に通じるところのある考え方だと言えるかもしれない。カヴェルは再婚コメディーを、やはり還元不可能な孤立性のいわば「綜合」の試みとしてとらえている。