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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネーのテニス論——ダネーのテレビ論(3)

Le Salaire du zappeur, P.O.L, 1993.

 ダネーのテレビ論をもう一席。

 ときあたかもテニスシーズンまっ盛り。それにちなんだお題をひとつ。

 セルジュ・ダネーリベラシオン紙上でテニス評を書いていたほどのテニスマニアだった。

 ローラン・ギャロスのシーズンになると、親友のマルグリット・デュラスと毎晩のように何時間も電話でテニス論を戦わせていたという。

 その記事は、そのものズバリ『テニス狂』(L'Amateur de tennis)というタイトルの本にまとめられている。

 以下に引用するのは、それに先だって刊行された名テレビ評論集『ザッピング業者の報酬』(もちろん、『恐怖の報酬』Le Salaire de la peur のもじり)に収録された「怒りのスマッシュ」と題する記事で、1987年9月16日の日付がある。

 テニスがその礼儀作法を失った瞬間を誰もが覚えているし、テレビがそれに一役買っていることを知らない者もいない。コートで禁じられていたものがテレビ画面という窓を通して回帰し、少しずつ、テニスというトータルなスペクタクルの一部になったのだ。「自分の」テニスとは関係のないものへのボルグの無関心、コナーズのうなり声、マッケンローの飛び跳ねながらの落胆は、80年代の初頭における一流テニスプレイヤーの新たな顔を描き出している。彼らはチャンピオンではあるのだろうが、もはやまったくジェントルマンではない。トータルなスペクタクルである以上、グランド・トーナメントの中継はもはや隠すことができないことを含んでいた。つまり、テニスは暴力の反対物ではないということだが、ただし、この暴力は他人に向けられるよりも自分自身に向けられることのほうが多い。
 それ以来、テニスの進化とテレビの進化はなんとかかんとか歩調を合わせてきた。[……]それ以来、世界のトッププレイヤーたちは、つねに自分がカメラで撮られているという意識を抱いて生き、仮に最初のうちは、感じがよくてエレガントなプレイヤーのイメージをあたえることを夢みていたとしても、しまいには、試合中にはばかるところなく自分たちからくすねられるこのようなイメージ[映像]を自分たちのほうからすすんで利用して、プレイを改善し、対戦相手のプレイを研究することができることを理解するようになった。
 それゆえ、エレガンスは、テレビ視聴者の目がエレガンスとは別のものをテニスに期待するようになるにつれて消滅してしまった。このようにして極悪非道のコナーズや常軌を逸したマッケンローは、彼らの行儀の悪さそのもののために愛されるようになった。なぜなら、行儀の悪さのほうが、つまるところ、最後のスタイリストたち(クラークゴメス)のもったいぶった気品よりもおもしろいからなのだ。こうした行儀の悪さは、つまるところとても人間的なものであるが、テニスのセノグラフィー[舞台装置、演出方法]に新たな一次元をつけ加えた。ラリーのあとのクロースアップ、プレイをばらばらに分解するプレイバック、スローモーションによるどうでもいい細部の拡大、コートの袖に設置された集音マイクなどだ。こうして、一秒ごとに、おびただしい出来事が、人間の身体が示し得るかぎりのありとあらゆる感情や癖や欲望や怒りによってふくらまされることになった。
 もはやテニスの暴力性を抑圧することなど問題にならず、また、その暴力性を映像で検証することだけでももはや十分ではない以上、重要なのは、テニスの暴力性にその身体表現、それゆえ視覚表現をあたえることなのだ。コナーズが不機嫌さとユーモアとをさりげなく混ぜ合わせてみせ、マッケンロー狂気と明晰さをものの見事に使い分けてみせる一方で、80年代の若造選手たちは、その卓越した才能にもかかわらず、その誰もが例の killer instinct をそなえているわけではなく、誰の目にもアピールする身ぶり、エレガントとはいえないが「人間らしい」身ぶりを演じることを「強いられる」のであり、その身ぶりには、人を殺める能力が自分には決定的に欠けているという彼らの悲しみが読みとられるのだ。この瞬間、テレビとテニスのあいだに近親相姦が起こっている。
 きのうのフラッシングメドーのファイナルには感銘を受けた。「決定的に」(finalement)感銘を受けた。かならずしもプレイヤーに感銘を受けたとか、プレイの美しさに感銘を受けたのではなく(ウィランダーとエドバーグのセミファイナルはさらに美しく、さらに完璧なテニスを堪能させてくれたものだ)、ファイナリストたちにとりついていた「暴力性の義務」に感銘を受けたのである。暴力性をどう表現すればいいかというルールは、いまではよく知られている。拳をつきあげ、首をひねり、体を反らせ、険悪な目つきをすることだ。何に対して憎しみを向けているのかをはっきりさせないまま、憎しみのポーズをできるだけ長くとっていることが必要であるかのようだ。というのも、このようなじだんだ踏んだポーズは、対戦相手に対して示されるものではなく、プレイヤーが自分自身に対してもつイメージ、視聴者が彼について抱くイメージ、カメラが冷酷に映し出すイメージに対してであるからなのだ。イメージが、最終的にイメージそのものに行きつくのだ。
 最近のテニスの歴史は、こうしたいくつかの身ぶりとこのような暴力性のコレオグラフィーの獲得の歴史である。[……]レンドルは、ながいこと決定的な試合をものにすることを忘れていた。なぜなら、あまりにもうぬぼれが強いので、ワンポイントをキープして安心しているように見えたり、対戦相手を打ち負かして感激しているように見えたりしてほしくなかったからだ。あまりにもったいぶり、ぎこちなく、屈服すること[コート上にくずおれること]をいさぎよしとしないので、トッププレイヤーにのしあがると同時に、負けることへの恐怖そのものを全身で表すことを学びとらなければならなかったのであり、しかも、試合を決めるショットのあとに「こそ」その恐怖を見せつけることを学びとらなければならなかったのだ。レンドルは[負ける恐怖を]払いのける演技を学んだ。彼の身体は、コート上にくずおれ、腹を立てた禿鷹のような首の動きをしてみせ、カメラがこのコミカルなジェスチャーを映し終るまでこのポーズをとりつづけている。テニスプレイヤーもまた俳優にならねばならないのであり、モチベーションを失いたくなければモチベーションがあるように演じなければならないのだ。この意味で、レンドルはアクターズ・スタジオ出身者なのだ。

 テニスプレイヤーの行儀の悪さはいまでこそあたりまえになっているが、コナーズやマッケンローの登場は、当時の観衆や視聴者の目にはさぞスキャンダラスに映ったことだろう。

 テレビカメラが被写体に演技を強いるという発想そのものは、当時としてもとくに目新しくはなかっただろうが、選手が単にカメラを意識するというレベルにとどまらず、カメラが選手の無意識的な動機(あるいはテニスそのものの無意識?)までをも引き出してしまう、あるいは、カメラの介入がプレイの目的そのものをねじ曲げてしまいかねないといった見解は、いまなお説得力に富んでいよう。

 スタンリー・カヴェルが『見知らぬ乗客』について述べていることを連想した。テニスという競技に内在しているが、われわれの目からは周到に隠されている暴力性を、ヒッチコックのカメラが暴き出しているという指摘である(『眼に映る世界』)。