ジャン=ジョゼフ・グーの『モーセと一神教』論
*Jean-Joseph Goux, Les iconoclastes, Seuil, 1978.
『偶像破壊者たち』と題されたもはや古い本のなかで、ジャン=ジョゼフ・グーはフロイトの遺言的著作『モーセと一神教』を政治的な文書として読み解いている(「フロイトとナチズムの宗教的構造」)。
『モーセと一神教』は、ナチズムのふるう猛威を背景に、亡命先のロンドンで執筆された。ところでグーによれば、ナチズムは無神論ではなく、宗教的構造をもっている。
ナチズムは聖書を『我が闘争』に、十字架をハーケンクロイツに、救世主をヒトラーに読み替えることでキリスト的な象徴を「流用」しつつ(状況主義のタームを使っているところはいかにもテルケル派のグーらしい)、本質的に「無国籍」なキリスト教をナショナリズムと野合させて「教会のゲルマン化」を押し進めたが、その際にヒトラーが手本としていたのはユダヤ教の選民思想にほかならない。
ナチスのイデオロギーはここで、ユダヤ教に対する模倣的かつ競合的な<契約>によって支えられた新たな象徴的秩序を打ち立てるという野心として現れる。つまり、唯一神とゲルマン民族の契約である。
ナチズムはユダヤ人の選民思想を受け入れつつ、その選民の座をユダヤ人から奪うためにユダヤ人を排斥した。この意味で、ナチズムがユダヤ人に対して仕掛けたのは「宗教戦争」であった。
ユダヤ人とアーリア人は奇妙にも似ている。ユダヤ人がかくも<他者>であり、別の人種であり、悪のおぞましい化身として抹殺しなければならないのは、ひとえにユダヤ人が同じ者であるからだ。ヒトラーにとって、ユダヤ人との戦いは兄弟間の殺し合いなのだ。「ユダヤ人はあらゆる点でドイツ人と反対であるが、それにもかかわらず兄弟のように似通っているということに気づかないだろうか」(ヘルマン・ラウシュニング「ヒトラー語録」)。[……]ユダヤ人は、奇妙な兄弟として必要な存在なのだ。形而上学的憎悪をかき立て、父なる神によって選ばれた者として名乗りを上げる者たちのあいだの死を賭した競合関係を保つために必要なのだ。世界という劇場のなかで、あらゆる戦いはユダヤ人とドイツ人の戦いに要約される。[……]そしてたとえばボルシェビキとその手先が奉じるマルクス主義は、「ユダヤ=タルムード的独善主義」(同書)のひとつの癌性の派生物にすぎないとされる。それゆえヒトラーは、あらたな神の物語を書き直しているのであり、その争点は世界の最終的な支配であり、その唯一重要な主人公はユダヤ人とドイツ人だけなのである。
ところで、ユダヤ人をいわば殺人者集団と見なす『モーセと一神教』でフロイトが行っていることは、一言で言えば一神教の権威の引き下げである。選民思想そのものをユダヤ人のフロイトみずから脱神話化あるいは脱構築しているのだ。それはヒトラーによるユダヤ思想の参照をはぐらかし、ナチズムのイデオロギーの立脚点をつき崩すことになるだろう。グーが『モーセと一神教』を政治的なテクストと見なすのはこのような意味においてである。
最初の唯一神である太陽神にまで宗教史を遡ることで、フロイトは選民という妄言を打ち壊す。[……]ユダヤの信仰を破壊することで、フロイトはドイツ人の妄想に横槍を入れる。フロイトはユダヤ教に対抗しつつ、ユダヤ人に味方する。[……]もはや自分が信じてはいない古い宗教の基盤を容赦なく掘り崩し、自分が連帯を感じている民族を救うのだ。
<神>と唯一の民族との契約としてのユダヤ教の神学的構造は、ヒトラーの「夢」なのだ。ヒトラーの「狂気」は、みずからをユダヤの民に対立させる形而上学的な競合関係のうちにある。それが前提とするのは次のことだ。a)ヒトラーはある意味でユダヤ人の信仰をみずから共有する。b)ヒトラーは契約という宗教的幻想をドイツ人に移し換えることによって完遂する。
『モーセと一神教』はヒトラーの「狂気」へのフロイトの言葉(parole)の介入(intervention)である。
フロイトがみずからをモーセになぞらえているとはよく言われるところだが、じつにシャープな説明ではないか。
なお、同書には「ミケランジェロのモーセ像」を論じたテクストも収録されているが、こちらはたいしておもしろくない。