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ジャン=クロード・ミルネールを読む(その1):『フランス革命再読』

 *ジャン=クロード・ミルネール『フランス革命再読』(Relire la Révolution, Verdier, 2016)

 

 

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 今世紀に入り、フランス革命再読の必要が高まっている。9.11テロは、革命なしに世界を変える出来事が起こりうる可能性を示した。これまでの世界を支配していた「革命への信」というパラダイムが過去のものになりつつあるのだろうか。

 

 革命は例外的にギリシャ・ラテンに由来しない政治用語である。古代において、現代的な意味での革命は、conversion という語で呼ばれていた(のちにこの語は宗教的な文脈に特化させられる)。革命という名詞が現代のような意味で使われるようになったのはフランス革命以来である。フランス革命の当事者たちは革命という言葉を発明してはいないが、みずからの発明したものではない名辞に新たな意味合いを与えた。

 

 後述するように、革命への信を生み出したのはフランス革命である。後続するロシア革命フランス革命を参照し、さらに中国革命はロシア革命をモデルにするというように、それ以後の革命は先行する革命を参照し、これを目指すべき理想として掲げていることにおいて革命への信を共有している。フランス革命は先行する革命をもたなかったので古代を参照した。具体的にはポリビウスの循環政体論である。

 

 ポリビウスによれば、君主制は必然的に専制に頽落する。そこから貴族制が生まれるが、貴族制は寡頭制に堕落する。そこから民主制が生まれるが、民主制は無政府主義に堕落する。ここから強者が現れて君主制に回帰する。革命とは、こうした循環においてある体制から別の体制への交代が行われる間(インターヴァル)の一つ一つを指す。

 

 このことを踏まえていないと、ルイ16世ラ・ロシュフーコー=リアンクール男爵の有名なやりとり(「これは反乱[révolte]なのか」「いいえ閣下、革命[révolution]でございます」)における「機知」が理解できないし、革命の各段階において発せられた「革命は終れり」(反革命派ではなくほかならぬ革命派の合言葉)の意味もわからない。

 

 実際、フランス革命の諸段階はおおよそ上のような循環的な軌跡を描いている。君主ルイ16世が暴君に変貌する。富裕なブルジョワ層・ジロンド派の支配がいわば貴族制に相当する。ロベスピエールが1793年憲法によってその支配を終わらせようとするが、けっきょく無政府主義ジャコバン独裁)へ移行する。そしてその後の混乱の中からナポレオンという強者が現れて君主制を開始するが、これはただちに専政(帝政)へと移行する……。

 

 このようにポリビウスにおいて革命とは二つの体制の交代を意味したが、サン=ジュストはこの定義を変更する。従来の革命は過渡期(インターヴァル)と定義されるかぎりで「永久に続いてはならない」ことを前提していた。対してサン=ジュストは、革命を「永久に落ち着くことがなく、無際限に継続される」ものと捉えている(マルクスの「永久革命」さえ共産主義体制という終着点を想定している)。

 

 この語義変更を促したのは、ポリビウス的な法則性で説明できない予期せぬ事態が生じたからである。ヴァレンヌ逃亡事件がそれである。それまではどんな暴君も、国を裏切るようなふるまいに及ぶことはないと想定されていた。海外に逃亡して敵と手を組もうとするルイ16世の裏切りはその意味で現代的であった。ところがそれまで王の「人格」が問われるということはなかったから、この事件はルイ16世の個人的な罪ではなく、王位そのものの罪に帰される。王個人の「行為」ではなく、王の「役職」そのものが罪深いとされたのだ。そして王政が罪深いとすれば、それは人民つまり「万人」から盗みをはたらいているからだ。こうして革命という語は定義を変える。これ以後、革命とはもっぱら「万人」の権利をうち立てることを意味することとなる。つまり、民主主義的な革命以外の革命はないことになる。

 

 それ以来、革命の実現は政治体制の交代においてその都度起こるものではなく、未来の一点に想定される目標となる。それは透視図法における消失点のように、すべてがその一点に収斂していくけれどもそれ自体の表象をもたない空虚な一点である。それゆえ「知」の対象ではなく、もっぱら「信」の対象であるということになる。ここに「革命への信」が生まれる。このような空虚な一点をミルネールはフロイト的な自我理想になぞらえて「革命<理想>」と呼ぶ。

 

 ペトラルカが言ったように、古代の歴史家は永久にローマ帝国を讃える。たいして、現代の歴史家の営みとはこうした消失点をこそ讃え、それに照らしてフランス革命を評価することである。「現代の歴史家であるとは、フランス革命に賛成か反対かを表明することだ」。その意味では、革命派であろうと反革命派であろうと、同じ「革命への信」を共有していることになる。「反革命派も革命派以上に革命への信を信じていた」。サルトルアレントは同時代にフランス革命にたいして正反対の評価をくだしたが、おなじ「革命への信」を共有していたのである。表象を欠いた、それじたいは無意味(ノン・サンス)であるものへの「信」であるかぎりで、革命への信は「あらゆる信のなかの信」である。ミルネールによれば、フーコーイラン革命においてみようとしたのはこのような何ものへの信でもない「純粋な信」もしくは「空虚な信」である。そこでは誰を信じるか、何を信じるかはどうでもよく、信じることそのものが重要なのだ。フーコーは革命から「知」を剥ぎ取り、革命への信を救済しようとしたのだとミルネールはいう(「知に対抗してしか信じることはできない」)。

 

 さらにミルネールは、このような「革命<理想>」を目指す個々の革命をフロイトの理想自我の観念に倣って「理想(的)革命」と呼ぶ。ミルネールによれば、「理想革命」とは具体的にはフランス革命ロシア革命、中国革命を指す。イギリス革命およびアメリカ革命は革命への「信」を共有しておらず、「理想革命」には含まれない。

 

 「理想革命」をミルネールはプロップの物語分析を援用していくつかの要件によって定義している。「理想革命」にはいくつかの共通する「身振り」(geste)があり、ミルネールはそれを9つに分類している。それはおおよそ以下のとおりである。(1)その勃発にあたって「革命」の名が宣言されること。(2)先行する革命の「革命」という呼称を参照すること。(3)被統治者が無定型の群衆ではなく、もっとももたざるものであることが明確化されていること。(4)他人のための闘争であること(「万人」のためであるとは要するに自分のためであると同時に他人のためでもあるから)。(5)個人ではなく集団を主体とすること。(6)唯一の至高者への崇拝が行われること(指導部の神格化への防壁として)。(7)国家の創設が企図されること。(8)国家形態の変更が目標になること。(9)国家は合法的に暴力を独占すること。

 

 というわけで、サン=ジュストにおいて革命の定義は根本的に変更される。ここで興味深いのはロベスピエールのケースである。行動をともにしたサン=ジュストとはちがい、ロベスピエールはいまだポリビウス史観を信奉していた。ポリビウスによれば、革命は期限をもち、革命の終わりが来ることはすでに知られていた(ポリビウス史観は「非知」を許容しない)。それゆえ、その終わりを到来させることがロベスピールにとって焦眉の急となった。ロベスピールは「革命政府はみずからの解消を早めようとたえず努力する」という矛盾を生きた。ロベスピールにとって憲法の制定は革命という過渡期が過ぎ去り平和が到来したことを意味しているはずであり、それゆえ1793年の憲法の施行は先送りされなければならなかった。内外の世論はロベスピエールを恐怖政治と同一視していたが、ロベスピエールこそ誰よりも恐怖政治を終わらせたいと願っていた本人なのだ。テルミドール9日はいわばロベスピエール自身のプログラムの一部だった。恐怖政治は現実をポリビウス的な「知」に合致させようとする努力であるということだろう。「プログラムをあまりにもよく分析していたために、力関係を分析できなかった」。ロベスピエールはいわば「知」の殉教者なのだ。

 恐怖政治は憲法の施行の条件である平和を到来させるための手段であった。ロベスピエールは群衆による虐殺を忌み嫌い、革命政府に合法的な刑の執行権を独占させた。その場合の刑とは死刑のみである(禁錮刑は事実上採用されなかった)。そしてその手段はギロチンのみである。これはより残虐な刑罰の否定をいみする。ギロチンによらない死刑を否定したことにおいてロベスピエール死刑廃止論者である。死刑は「人民」の名において革命政府が「代行」した(革命政府は定義からして一時的なものであらねばならなかったから)。「群衆」から殺す権利を奪い、「人民」にそれを委ねたのだ(この点で革命政府は民主主義国家を予告している)。そのいみでは人民はまさに殺す権利によって定義される。「死よ万歳」(ミルネールによると、この時代に最初に唱えられた)とは死をあたえうる人民の主権を君主の如くに讃える言葉である。

 

 ロベスピエールはポリビウス論者だったので、「革命国家」という観念は形容矛盾であり、受け入れがたいものであった。国家は定義上革命を終わらせるものだった。この点で、プロレタリア独裁を革命の本質的な段階とみなし(プロレタリア独裁はプロレタリアが存続するかぎり存続する)、革命は国家の設立を超えて継続される(革命国家は「革命」および「国家」双方の本質である)としたレーニンと対立する。レーニンのいう「一時的」とは、具体的な期間のいみではなかった。恐怖政治は革命の観念そのものに内在的であり、終わらせるのを急ぐ必要はなかった。恐怖政治はすでに戦時体制によって正当化されるものではなく、平和時における手段となる。国家の恐怖政治から恐怖政治としての国家へ。ロベスピエールスターリン毛沢東のように野蛮な資本主義にも人種絶対主義にも道を開かなかった。ロベスピエールは恐怖政治を終わるべきものとした。

 ロベスピエールは、ロレンザッチョのように仮面のパラドクスを演じすぎたために破滅した。「群衆に歯止めをかけるために群衆と連帯し、恐怖政治を制限するために恐怖政治を体現し、死刑廃止を早めるためにギロチンを使い、平和をもたらすために戦争を指揮し、憲法を保持するためにそれを一時停止し、安定した国家をもたらすために革命をし、フーシェを倒させるためにカンボンを告発した」。

 

 ミルネールはポリビウスとサン=ジュストを二項対立的に対置したうえで、それをいわば脱構築する(「循環史観が否定されていたときにおいてさえ循環史観が支配していた」)。革命への信が想定する線的な時間の実体は線状に置き換えられた循環的な時間である。線的な時間が想定する「新たなもの」とは、<他者>であるかぎりで、循環的な時間において回帰する「同一のもの」の別名である。いずれも「不連続な現実界を現実という連続的な時間の中に落とし込む」かぎりでは同じである。ミルネール(サン=ジュスト)にとって革命とは強制収容所と同じくレエルな出来事であり、それ自体は言語化し得ず、それゆえ主体の知を廃棄する(信に委ねられる。対してポリビウスは非知を許容しない)。ここにミルネールはポリビウスの現代性を見る。

 

 人権宣言(「人間と市民の権利の宣言」)の意義は、人間の諸権利と市民の諸権利を分離したことである。人間と市民という観念にはもともとどんな結びつきもない。人間という観念は、万人の身体的類似性に基づく(ルソーの独創性は身体への注目である。ラカン鏡像段階論も人間的主体の成立に際して身体の類似性を前提する)。この観念が、市民と非市民との共存を可能にする(人権が市民権を支えているのであり、両者はセットではじめていみをもつ)。

 人権宣言は生と死の間に保障される「権利」だけによって「人間」を定義している。こうした実体的ならざる人間の観念は、フロイト的な「人間」の観念を予告する。フーコーが『言葉と物』の末尾の一文で、波打ち際の砂の上に描かれた顔のように消滅するとした「人間」もまたこのような「人間」である。ミルネールによれば、この一文は、人権宣言の最初の一文を「アナグラムとパランプセストによって反復している」。

 

 人権のミニマムな定義にたいし、市民権は実定法により定義がどんどん拡大される。フランスは人権の国というのは「伝説」で、むしろ市民権の国である。宣言以前には市民権はなかった。イギリスのように慣習や伝統によって市民権が与えられているという共同幻想が存在しなかったので、フランスの憲法制定者らは「市民を発明した」。ただし、市民だけに権利があるとはしなかった(『監獄の誕生』のダミアンス)。生まれたというだけで獲得される権利があるのだ。そうした非市民の権利として人権が演繹された。非市民を権利の主体として定義するために「人間」という概念が導出されたということであろう。その意味で、「人間と市民」における「と」こそが1789年の真の発明なのだ。「人間」と「市民」とは逆説的なねじれたトポロジーによって関係づけられている。「人間」とは市民の総体が構成する政治的共同体の外部、すなわち「自然」に属する存在であり、それゆえその権利も「生まれながら」(naturel)のものである。善人であれ罪ある人であれ、個人と個人を区別するあらゆるものから独立しているものが自然としての身体である。それゆえ「人間」は非実体的であり、かつ自然に属する。そうした存在に備わる権利は自然と同じく善悪を超越している。非実体的であり、かつ自然に属するとは、「語る身体」(ラカン)としての人間ということだ(じっさい、ミルネールは他の理想的革命と比してのフランス革命の独自性が、暴力への訴えではなく言論の支配にあるとする。もっとも厳格なテロルの時期にあってさえ、言論が支配する空間が保持されていた)。

 マルクスは市民と区別されるかぎりでの「人間」をブルジョワ社会の「メンバー」(Mit-glied)としたが、この定義はまさに人間を身体(Glied:肢体)によって定義していることを示している。ここにおいてマルクスフロイトの人間観のパラレリズムが確認できる。

 

 容易に推測されるとおり、本書の仮想敵はハンナ・アレントである。アレント全体主義批判という個人的な文脈によって客観的事実を歪曲した。ロシア革命フランス革命を参照したことをもってフランス革命を貶めた。しかるに、アメリカ革命はナポレオンさえ行わなかったジェノサイドを行なっている。アレントはこの事実に目を塞いでいる。ミルネールのアレント批判はかなり痛烈であり痛快である。