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精神分析と映画をめぐる読書案内

ラカン派によるユング論:『精神分析と宗教的なもの』

*Philippe JULIEN : La psychanalyse et le religieux : Freud, Jung, Lacan, Cerf, 2008. 

 『ラカン フロイトへの回帰』(誠信書房)の著者で、ラカン派を代表する論客の一人であるフィリップ・ジュリアンが、カトリック系の出版社(アンドレ・バザン『映画とは何か』の版元)から『精神分析宗教的なもの フロイトユングラカン』という百頁足らずの小冊子を出している。精神分析とそれぞれユダヤ教フロイト)、プロテスタントユング)、カトリックラカン)というコンセプトで企画された本であろうが、ラカン派の分析家がユングに言及することはめずらしいので興味を引かれた。

 ジュリアンのスタンスは基本的にはクールな解説に終始していて、ユング独特の概念には深入りせず、その思考の大枠をざっくりと評価している。

 まず、「ユング宗教的なもの」と題された章において、ユング宗教思想のアウトラインが示され、その意義がつぎのようなところに見出されている。

 フロイトユングの決裂は、セクシュアリティの重要性の認識の隔たりのみを原因とするものではなく、「心における宗教的な機能」の認識のちがいに由来してもいた。

 フロイトが現代では失われたとみなす聖なるものが、ユングによれば現代人の心の奥にも潜んでいる。ユングはそれをルドルフ・オットーにならってヌーメン的なものと呼んでいる。

 あらゆる宗教はもともとひとつのものであり、それは人間の内にある普遍的な聖性の別々のあらわれである。ちがった宗教の教えにしばしば共通性が見出されるのはその証しである。

 聖性は教義によって外部からあたえられるべきものではなく、ひとびとの心の内側に発見されるべきものである。ところが現代の偏狭で権威的な宗教的言説は、信仰を上から押しつけることで、逆にひとびとを内なる聖性から遠ざけて苦しめている。その苦しみからひとびとを解放すべく聖なるものを発見させることは精神治療の務めである。

 神は超越的なものではなく、人間の心のなかのイマーゴであり、内なる聖性である。(ユングによれば「神は無意識である」)。ユングが信じているのは超越的な神の実在ではなく、人間の心に内在する神性だ。かれは神学者ではなくあくまで心理学者なのだ。(これはなかなかラディカルな内在主義ではないか。)

 ひとが内なる聖性を受け入れるのは、なんらかの利益にあずかるためではない。ヨブが、そして十字架上のイエスが直面したのは、一切の利害、一切の正義不正義を超越した純粋な聖性である。それを<他者>と言い換えてもよいかもしれない。

 じゅうらい神は究極の善と定義されてきたが、ユングは神を善と悪が二律背反的に結合したひとつの全体性としてとらえる。ジュリアンはユングの『ヨブへの答え』を「教会の教義に対抗する偉大な書」と呼んでいる。

 神はその二律背反的な本質を具現させるためにもともと悪や罪にまみれた人間という媒体を選んだ。ユングによれば、これは神が人間になることを欲しているということを意味する。それゆえ、イエスがあるていどまで果たした「受肉」の道をさらに押し進め、徹底させなければならない。

 このプロセスは、原子力の時代に生きる人間が内なる二律背反を引き受けようとする倫理的努力と重なるだろう。内なる闇を受け入れることで、それを照らし出す光のありかがはじめてわかるのである……。

 魅力的だが晦渋な『ヨブへの答え』にはいまなお賛否がかまびすしい。

 つづいて、「ユングのアクチュアリティー」と題された章においては、プロテスタント神学者心理学者のオイゲン・ドレヴァーマン、および民族精神医学を提唱するトビ・ナタンをユング思想の継承者と位置づけている。

 ドレヴァーマンは、ユングの反教会主義を押し進める。いまや「神の役人」になり下がり、福音を説くだけで現代人を苦しみから救うことができない教会に対し、ドレヴァーマンは聖書の訓古学的な読みをやめ、「詩的」な読みを実践すべきであると提言する。そのための手だてとなるのがユングの元型論であるという。聖書を古代の物語としてではなく、あらゆる時代、あらゆる地域の人間に普遍的な問題を扱った書として読むことで、それは現代人にちょくせつ救いをもたらすものとなり、ひいては全人類が互いに共有するものを理解し合うことで世界から争いがなくなるということらしい。

 ドレヴァーマンが引くアウグスティヌスの一節。

 こんにちキリスト教と呼ばれているものは、すでに古代人のあいだにも存在していた。それは人類の誕生からキリスト受肉まで、なくなったことがないのである。(『再考録』)

 キリスト教は真理をもたらしたのではなく、すでにあたえられていた真理を発見しただけである、というわけだ。ドレヴァーマンによれば、じっさいにキリスト教は、ユダヤ教以上にエジプトギリシャなどの宗教に多くを負っている。

 キリスト教をラディカルに普遍化することで、動脈硬化に陥った教会の教義を解消し、ほんらいの信仰に立ち戻ろうというのである。

 太古との連続性(普遍性)を強調するところにジュリアンはフロイトとは対照的なユングの典型的にアンチ・モダンな思考のあり方を見出している。

 一方で、ユング集合的無意識の概念をその普遍主義から解放し、逆に各民族に固有のこころのあり方を探求するための多文化主義的なツールと位置づけるのがトビ・ナタンらの提唱する民族精神医学である。ナタンらによれば、フロイト精神分析には、西洋人のこころをしか対象とせず、西洋人にしか有効でないという決定的な限界がある。こうした試みもまたユングの反フロイト主義を発展させている一例である。

 ナタンはその『他者の狂気』が翻訳されている(みすず書房刊)。ドレヴァーマンには『星の王子さま』のユング的な読解があるようですね。