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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネーのジョン・フォード評:La maison cinéma et le monde を読む(9)

 同じくベルール編「映画事典」より。「ある作家の全作品が、その作家の作品の礎になっているつねに隠された危険を追い払うためにのみ存在するということがある」という一節ではじまるジョン・フォードについての長い記事。上の書き出しは「その危険はまた特権でもある」とつづけられる。「これこそあらゆる偉大な作家の作品群の足下に口を開けている深淵である。ひとたび完成した作品はこの危険がもともとそなえていた強度と力を保持することしかしないのだ」。最後から二番目の作品である『シャイアン』が公開されていたこの時点で、フォードの映画はいまだに「力」「活力」「鬱屈のなさ」といった言葉で語られていたようだ。われわれの目からするとふしぎな気もするが、おそらくそういうマッチョで明朗なイメージがあまりにも強すぎて、後期フォードのモダニティが認知されるのには時間がかかったということだろう。いずれにしても、そのような風土にあって「脆弱さ」や「危険」というどちらかというと「悲劇的」な語彙によってフォードの世界をとらえていることにダネーの記事の意義はあるととりあえずは言えよう(知られるとおり、『カイエ』によるフォード発見はおどろくほど遅かった)。フォードの映画が曖昧なものを排除せんとする意志において際立っているのは、フォードの映画がまさに不明瞭なものに基づいているからだ。「現実のたえざる揺らぎ」をまえにして、フォードはたえずそのなかにゆるぎのない結束力につらぬかれた一つの特権的な集団を屹立させようとしてきた。たとえば「駅馬車」というミクロコスモスはそのみやすい一例だ。フォードがくりかえし語ってあきない一握りの男たちの冒険譚における真のドラマは、集団の調和を乱す分裂の危機にこそある。数ある事例のうちでもっとも美しいものとしてダネーが挙げるのは、『世界は動く』における家族の離散だ(わたしは未見)。フォードにとってのアイルランドにしても、それは現実のアイルランドである以前に、そうした結束力のひとつの神話にほかならない。それにもまして、フォードの映画を脅かす「現実のゆらぎ」は、「未知なるもの」というかたちのもとにあらわれる。<出会い>(Rencontre)というモチーフへのオブセッションがここに発する。フォードの映画の先の読めるパターン化された物語は、未知なるものとの一連の<出会い>によって分節されている。『幌馬車』のモルモン教徒の一行に起こることの一切は未知なるものとのたえざる<出会い>にほかならない。未知なるものはフォードがもとめてやまない親しみのあるものがそなえているゆるぎのなさを脅かす。フォードがマイノリティに寄せる共感は、未知なるものを歓待し、親しみのあるものへと変えるためだ。それゆえ世界にむかっておのれを開くことは、他なるものを飼い馴らすことと裏表である。ダネーがもっとも美しいフォード作品と評する『幌馬車』では、<人間>(l’Homme)と<未知なるもの>(l’Inconnu)とが前進と後退、開放と閉鎖をくりかえしながら織りなす出会いと闘争と融合のドラマが演じられる。未知なるものを完全には同化しないまま、その「トレードマーク」を維持させること。「フォードの世界はさまざまな『トレードマーク』の世界である」。フォード一家の結束を保証しているのは一家が共有する特徴ではなく、常連俳優ひとりひとりの交換不可能な「トレードマーク」にほかならない。かれらのキャラを立たせることは、ものごとを親しみのあるものであると同時に特異なものとして維持するための「視野のわずかな歪曲」であり、フォードにあってのカリカチュア偏愛と様式化への意志はそこに由来する。完全な同化はマイノリティ匿名性に埋没させ、その définition[定義=鮮明度]を剥奪するが、かといってぎゃくにマイノリティ存在感が際立ちすぎると、じぶんたちマジョリティの存在が霞んでしまうというジレンマ。自足と交流という相反する要請にたえず引き裂かれたマイノリティの姿にフォード映画の本質的な悲劇性は宿る。『幌馬車』の真の主題は歓待が侵害の危険に反転する臨界点ということにある。フォード的世界は揺れ動いている。フォード的世界を脅かすものが、ほかならぬフォード的世界を成り立たせているのだ。そのいみでフォード映画はたえずじぶんじしんの根拠を問われている。フォード映画の自己省察的ひいては「回顧的」な性質はそこからくる(「過去」の世界の重要性)。最後にダネーは、『ドノバン珊瑚礁』と『シャイアン』というあいついで撮られたまったくトーンの異なる近作二本がじつは双子の映画にほかならないことを舌を巻くような見事さで論証して記事をしめくくっている。