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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネーのオーソン・ウェルズ評:La maison cinéma et le monde を読む(12)

* Serge DANEY : La maison cinéma et le monde, tome1, Le Temps des Cahiers, 1962-1981, P.O.L., 2001.

承前)『オーソン・ウェルズファルスタッフ』の批評は、「権力の座にあるウェルズ」と題されている(「カイエ」1966年8月号)。遺作でこそないものの、この作品がウェルズの遺言的な作品であり、映画作家がその頂点をきわめた作品であることほぼ衆目(こころあるひとびとのそれ)の一致するところであってみれば、このタイトルはとりあえずもじどおりのいみでうけとれるが、同時にこのタイトルは、同じ1966年に発表されたロッセリーニの『ルイ14世の権力掌握』を意識したものでもあろう。じっさい、ダネーはすぐこれにつづけてロッセリーニ作品の批評を執筆している(1967年1月号)。『ファルスタッフ』がウェルズの芸術の総決算といういみをもつのであれば、この作品を評することはそのまま映画作家のキャリアぜんたいをふりかえったウェルズ論でもあるということになる。じっさいダネーによれば、ウェルズは『市民ケーン』から『ファルスタッフ』にいたるまでおなじひとつの物語をものがたりつづけている。権力を利用しそこなう男の物語というのがそれだ。しかしこの失敗は勝利よりも高貴であるとダネーは書く。いわく、映画というものはしかじかの人物がしかじかの権力(能力)を掌握する過程をえがく。しかしもっとも美しい作品たち(またしても『新・平家物語』。あるいは『捕えられた伍長』。そしてドンスコイの『母のまごころ』)にあって、そのみちすじは平坦ではなく、おおいなる迂回をたどるが、その迂回は直線よりもずっとゆたかだ。<< drôles de chemins>>。「ふうがわりなみちすじ」。ブレッソンの人物であればそう言うだろう。「ウェルズのものがたるのは権力の掌握ということではおよそない」。マクベスは魔女にあやつられ、クウィンランは直観のいいなりになる。「ウェルズの映画は他の人の映画が終わったところからはじまる」。すべてを手にいれたとき、のこっているのはもはやすべてを失うことでしかない。「失敗がかれらにのこされている唯一の冒険である」。かくしてウェルズの人物はおしむことなくおのれを失敗に委ね、余興として観客の目のまえにきまえよくさしだす。ファルスタッフはこうした度外れな「浪費」ぶりにおいて傑出している。ファルスタッフはうけとるべく生まれついた人間ではなく、あたえるべく生まれついている。このような美徳ウェルズじしんは「善良さ」ということばで呼んでいる。権力を手にした者は、権力が保障する絶対的な自由にたえられずに身をほろぼす。権力とは悪であり、そのおこぼれにあずかれるのは、まだ権力を握っていない者だけである。権力の逆説、権力の不条理をめぐるウェルズ省察をダネーはムージルの美しい一節に送り返している。「迂回」「浪費」という主題についてはアラン・ドワン論を参照のこと。