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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネーの後期ロッセリーニ評:La maison cinéma et le monde を読む(13)

*Serge DANEY : La maison cinéma et le monde, tome 1 Le Temps des Caheirs, 1962-1981, P.O.L., 2001. 

承前)つづく『ルイ14世の権力掌握』の時評(1967年1月)は、わが国での紹介が遅れている後期ロッセリーニ映画の意義を明晰な筆致で解明してみせた重要なテクスト。 
 R.R.に関心があるのは到達すること(atteindre)によってではなく待つこと(attendre)によってつくられる映画だ。「辛抱づよさの美と徳」。しかしこれは慎み深さとはぎゃくの途方もない傲慢さである。待ち望むものがかならず到来するという確信にもとづいているからだ。「偶然のおかげ」という控え目さはR.R.にはない。それゆえキャメラをむけることは暴行にひとしい(銃殺されたマニャーニのめくれあがったスカート……)。おぞましさ(ignoble)、つまり高貴(noble)ならざることを辞さない映画作家たちがいる。マッケリー(『誘惑の夜』)、ガンス(『盲いたヴィーナス』)、カザン(『アメリカアメリカ』)。いっさいが見世物に仕立て上げられる。のぞき魔はおのれがみるものをなによりも重大な出来事にまつりあげる。みているものをあざわらうのぞき魔など存在しない。「ロッセリーニは窺い、スパイし、待ちかまえ、望み、手にしてきた」。すべてを真剣にみつめることは、あらゆる細部のうちに全体の反映を見てとり、あらゆる瞬間のうちにきたるべきなにごとかの予感を見てとることだ。R.R.の映画においては万事がひとしい重みを担って共存し、両極端(善悪、真偽)でさえもが密かに繋がり合っている。スクリーンを拡大すれば、スクリーンの粒子よりも細かいものさえもがみえそうな気がするほどだ(『マン・ハント』を除くラングの映画でこういう感覚をいだくことはない、とダネーはやや唐突につけくわえる。ラングの映画は分断された世界を「演出」によって弁証法的に統合することを原理とすると言いたいのだろう)。「すべてはしるし(signe)である。ただし、そのしるしを読み解く鍵(code)は失われている」。同じく「あらゆる存在のしかたは儀式である。ただし、その意味は失われてしまった」。『神の道化師フランチェスコ』の修道士たちのきわめて簡素なのにもかかわらずかくも異様な身振り。ひとはまず感じとり、そのあとで理解したいというおもいがうまれる。「しるし」を「感じとる」ことをもっぱらとしてきたこれまでのR.R.は「もっとも感覚的な映画作家」であった。いまや「観念」に、観念が具体的なものに受肉する力(pouvoir)に、およそ「力」なるものに、憑かれたかれは「もっとも知性的な映画作家」に変貌する。ダネーはR.R.のキャリアを塔の建造にたとえる。完成への漠とした願いにみちびかれ、闇のなかで泥と汚穢をまさぐり、「しるし」という煉瓦をひとつひとつ積み上げてきたかれは、いまや頂をきわめ、これまで少しずつ征服してきた混沌とした領土をその高みから一望しなおす。そのとき土地は地図に置き換わり、もろもろの感覚はもろもろの観念に置き換わる。R.R.にとってとりくむべき問題は特殊なものから普遍なものへと移行する(ここにおいてかれはゴダールと歩調を揃える)。エチュードにすぎぬ『インディア』、退屈な『鉄の時代』を経て、『ヴァニナ・ヴァニーニ』においてR.R.は「過去」の世界と出会う。必然が支配し、総覧が容易な過去の世界は理想的な枠組みである。『ルイ14世の権力掌握』でかれはこの枠組みをはじめて縦横につかいこなす。これまで観客の感覚にむけてさしだしてきたものを、いまやR.R.は観客の知性にむけてさしだす。「しるし」はいまや読解の鍵をとりもどす。解釈し、理解し、判断をくだすてがかりがいまやあたえられる(ただしその解釈と理解判断のただしさを保障はしない)。R.R.はこれまでつねに「演出」(儀式的なもの、神秘的な儀式)を判断をくだすことなくキャメラにおさめてきた。いまやかれはベルサイユ宮殿の礼儀作法キャメラを向けるのみならずその「説明」にのりだす。「説明」は儀礼からひとを魅惑する神秘性を剥ぎ取り、そのメカニズムをあばきだす。つまり儀礼が「宗教」としてではなく「政治」として示されるのだ。十年前のR.R.であれば、見世物としての儀礼にただキャメラをむけていただけであろう。いまやかれはその舞台裏ともども観客にさしだしてみせる(R.R.が被写体にたいしてあきらかにいだいている魅惑は別である。通過儀礼 apprentissage という主題はつねに美しい)。これまでR.R.が目をむけようとしなかったものをあかるみにだしているといういみで、『ルイ14世の権力掌握』は、これまでのR.R.の映画の「批評」になっている。「みずからの芸術にたいするこれほどまでに明晰な自意識をもつにいたった映画作家は存在しない」。
 演出と政治、あるいは演出の政治という主題はダネーの第一評論集『La rampe』の中心的なモチーフのひとつとなるであろう。