alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その6)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l'antiphilosophie 3, 1994-1995, Fayard, 2013.


 第5回講義(1995年1月18日)。「現実界における想像的穴」につづいて、「想像界における象徴的穴」および「象徴界における現実的な穴」が考察される。

 「想像界言説の想像的一貫性]における象徴的穴」について。革命的政治理論、共産主義理論は、支配的なイデオロギーによって穴をうがたれている。政治は知の「機能」を果たす。「わたしはだれからもなにも期待しない。そして機能(fonctionnement)についてのなにか[=知]を期待する」(ラカン)。この「機能」は、象徴界の自動運動に関係している。
 「象徴界における現実的穴」について。政治はひとの生死を決定するが、政治が死を決定するのは法の穴においてである。これはシュミット的な例外状態に関係している。

 プラトンの『共和国』における「共産主義的」ポリスの建造は、穴のない言説という理想のもとにおかれているが、すべてがあるべき場所にあるというヴィジョン(職人は職人の……)は、政治が穴であることのアイロニー的な表現であるとバディウは言う。プラトンは政治の複数性、一時性、偶然性という認識において政治の「危険な裂け目」、現実的な穴を鋭く見抜き、その外部にかれの言説を打ち立てた。
 
 穴をふさがないような政治について、ラカン隠喩的にしか語っていない。たとえば、一時的にしか存在しないことが「場(Champ)」に、メンバーどうしが縦横にはりめぐらせる民主的関係性が「渦(=めまぐるしい動き troubillon)」に、といったぐあいであるが、発想そのものは満足のいくものではない。バディウ自身がラカンの立場を言い表す呼称として提案するのは「専制無政府主義」というものである(このばあいの専制とはローマにおける世襲貴族制に対置されるかぎりでのそれをイメージしているらしい)。バディウによれば、ラカンは政治的になにもうみだしていない。ラカン精神分析は政治的に沈黙している。すくなくとも現状では、分析家は dissous (解散=溶解した)の状態にあるとディスっている。
 政治にはふさぐことのできない穴があることをマルクスは見抜いていた。善、よき社会、進歩というヴィジョン(プロジェクト)は「想像的不能」にほかならない。行為によってその「不能を不可能に転換」(『ラジオフォニー』)せねばならない。「哲学は世界を解釈してきたが……」というれいのテーゼはそのように解されるべきである。

 ついでバディウラカン的反哲学の第三テーゼ(「愛が哲学言説の核心にある」)の解明におもむく。愛とはすぐれて知への愛である(『饗宴』)。「知によびかけるのは[欲望ではなく]愛である。Wisstrieb とはそのことだ。話す存在の中心的な情熱もこれである。知でも憎しみでもなく無知」(『エクリ独語版序)。哲学が力への愛だと自認する「真理への愛」とは、じっさいには「弱さへの愛、真理が隠している去勢への愛」(セミネール『精神分析の裏』)、ようするに「不能への愛」にほかならない。哲学の立場は「無知にたいする不能」(バディウ)と形容すべきである。そして哲学の「不能としての真理への愛」に「力としての無知への愛」が対置される。