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精神分析と映画をめぐる読書案内

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その8)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l'antiphilosophie 3, 1994-1995, Fayard, 2013.


 第7回(4月5日)および第8回講義(5月31日)。
 
 分析的行為においても、行為を欺かないものにするための「束縛」がひつようである。内的な束縛の存在が行為を外的な規範から自由にするのだ。そのような自己規範的行為(acte auto-normé)は、反哲学の根本的な主題である。「自由」連想とはそのような束縛にほかならない。精神分析における治療とは<主体>の現実界の「さししめし」(dé-monstration)である。治療において、現実界があらわれる(se montrer)のではなく、さししめされる(se dé-montrer)。
 治療は三段階を経る。第一段階においては、「適切な象徴化」(「ラジオフォニー」)によってシニフィアンを[愛の]「不能」から切断する。これは「souffrance(苦しみ=宛先人不明) 」という「不能彷徨い」を停止させ、しかるべく「位置づける」ことである。つづく第二段階において、とりあえず位置づけられていただけの現実界をピン留めする「形式化」が起こる。ここにおいて「不能」が「不可能」に高められる。最終段階において、象徴界の「屑」として現実界が到来する。象徴化が束縛であり、それが最後に「切断」され、その切断面(「縁」 bord)に一瞬、すがたなき現実界がすがたをあらわすといったヴィジョンであるらしい。第一段階から第二段階への移行を促すものは不安であり、これが象徴化への束縛として機能するようだ。象徴化と、不安による象徴化の支配が並行的に進行し、不安が象徴化の「導き手」となる。不安は象徴化の「持続、テンポ、時間」をなす。治療は「論理的時間」における形式化への「急ぎ」が不安の時間性による束縛を受けつつ進行する。行為はこのふたつの時間性の交点において起こる。治療の推進力となるのは「マテームへの欲望」であるが、上のようないみでこの欲望は[欺かないものによって]「妨げられた欲望」である。ラカンは「欲望について譲らないこと」によって「精神分析倫理」を規定したが、欲望を妨げるものについてもまた譲ってはならないのだと教えているのだ……。

 ラカンは「なにを為すべきか」とは問わなかった。「なにを為すべきか」という問いは、つねに「ほかになにを為すべきか」という問いだから。

 最晩年のラカントポロジーによる完全な空間化を試みた。ラカン的なトポロジーは、時間を空間という逆説的な「縁」の非時間的で瞬間的な切断として提示する。それはカントの超越論的美学カント的時空間)の批判としてある。ラカントポロジーは、行為の「場」についての問題意識とむすびついている。とりわけ「解散」という行為と。「解散は歪んだ空間的布置における瞬間的な切断である」。というわけで、現代的反哲学は[時間よりも]空間を志向する。

 最終回の講義(6月15日)は、出版されたばかりのジャン=クロード・ミルネールのラカンL’Œuvre claire をめぐり、著者を招いてのディスカッションにあてられている。