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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネー評論集 La maison cinéma et le monde を読む(その15)

* Serge DANEY : La maison cinéma et le monde, tome 1. Le temps des Cahiers 1962-1981, P.O.L., 2001.

 昨秋、Traffic 時代(1991-1992年)の文章を集めた第4巻(さいしょの3巻とはちがってずいぶんと薄い)が刊行され、めでたく完結をみた著作集をひきつづき繙いていく。

 モーパッサンの有名な怪奇小説を原作に戴くジャン=ダニエル・ポレの「オルラ」はまちがいなく映画史上もっともうつくしい中篇映画の一本といってよい。ダネーは「カイエ」1967年3月号にレビューを書いている。これは「ガイドがわりもしくは日記がわりに一冊の本を携えて夜の果てへの旅をくわだてる者たちのケーススタディー症例)」であるとのただし書きではじめられる。

 ロメール、レネ、ドゥミ、ルーシュ、ポレ。フランス映画の一群の新鋭作家たちは「地理学への愛」に憑かれている。かれらにとって映画とは旅。そこでは地図と土地、約束の地と現実世界、観念と感情とのたえざる照合(照応)が起こっている。かれらの映画は水に飛び込む人間の眼にうつる——スローモーションの——ながめである(これこそおよそ映画作家たるものに望まれることのいっさいだ)。ポレがカメラに収めるものはかれの作品などではなくかれじしんの驚き。かれは美の製作者などではなくその讃美者。かれはじぶんから語り出さない。物が語りはじめるのをただじっと待つ。そのうちに当の物が腐敗してしまう危険を冒しつつ。そこでは真理と死が結びついている。そこに悲劇性がやどる。ポレは肯んぜないもの(l’inexorable)の映画作家である。「〜しないうちに」という最後の瞬間の映画作家だ。かれは死刑宣告と死のあいだをカメラにおさめる。来るべき末期の叫びと臨終の言葉のあいだの執行猶予のときを。映画を撮ることはそれゆえわずかな時間をかせぎ、来るとわかっている最後の瞬間を引き延ばすこと。そのかぎりでポレにとっての旅とはもっとも厳粛な旅、すなわち彼岸への旅立ちをもいみしている。生そのものから毒のように滲み出す必然的な死。これはゴダールにとっての偶然的で不条理な死の対極にある。ポレにとっての死はむしろリルケ的である。ポレが存在感のない身体(たとえばフランソワーズ・アルディのそれ)をこのむのは、そこに来るべき死体を透かしみるためだ。こうしたヴィジョンはポレをまた Evariste Galois のアストリュックに、「家族日誌」のズルリーニに、「ガン・ホーク」のエドワード・ルドヴィグ(!)にちかづける。すなわち運動と物体の崩壊を主題とする死姦的な映画たち。ポレの主人公たちの魅力はじぶんが死にゆくことを知っていることからうまれているが、死をみすえているひとの特権として(ダネーはここで唐突にジュネの名前を挙げている)かれらの内面世界へカメラをけっして立ち入らせない。それゆえかれらの魅力には一抹の疑念(かれらの虚飾、芝居っ気にたいするそれ)がまといついている。致命傷を負わされてから生まれてはじめてひとにかまわれたことをさめざめと悟る『大砂塵』の人物のように。あるいは谷崎の『秘密』の主人公のように。かれらは詐欺師なのだろうか。俳優はそれを理解しないまま演じ、監督もそれを問いつめない。かれらは理解されるためではなく、ただ見つめられるためにカメラにおさまる。かれらはみずからの死が<人間>そのものの終焉であると任じている。ポレにとって、文明はすでに死滅している。『地中海』をいろどる廃墟は意味を喪失した記号である。およそ墓まで持ち込まれる秘密だけが価値をもち、沈黙を守る証人だけが正直者だ。ポレは人間を撮るように石(廃墟)を撮る。ポレにとって<人間>とは[悠久の歴史の]風景のなかに一瞬映り込んだ石ころにひとしい。とはいえそれは旅行者の夢想を花ひらかせる路傍の石のようにかけがえがない。