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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジャン=クロード・ミルネールを読む(その3):『知のユダヤ人』

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 *Jean-Claude Milner : Le Juif de savoir (Grasset, 2006)

 

 反ユダヤ主義はいっしゅの反知性主義(そういうことばは使われていないが)であるとの指摘から説きおこされる本書は、2004年から翌年にかけてレヴィナス研究所でおこなわれた「偶像としての知」と題するセミネールがもとになっており、ミルネール自身は『現在の傲慢』(L’Arrogance du présent, Grasset, 2009)および前号で紹介した『民主主義的ヨーロッパの犯罪的性癖』(2003年)とともに三部作をなすものとみなしているようだ。

               

 『民主主義的ヨーロッパの犯罪的性癖』同様、ウィーン会議が本書の出発点になる。1815年以来、ヨーロッパのユダヤ人にとって「同化」が最重要課題となる。

 

 同化の方法にはいくつかある。「富のユダヤ人」あるいは「影響力のユダヤ人」、もしくは「才能のユダヤ人」たることである。

 

 タイトルに掲げられた「知のユダヤ人」とはこうした「同化」の諸形態のうちの一つであり、「才能のユダヤ人」とおおよそ重なるが、これはドイツに特有の形態であったとされる。

 

 フランスでは政治的権利をつうじた「普遍的」同化が可能であったが、ドイツはそのかぎりではなかったので、いわば「知の教会」としての大学という“社会のなかの社会”をつうじての「例外的」同化に訴えるほかなかった。

 

 ヘルマン・コーエン、フッサール、ヴァールブルク、パノフスキー(条件つきながらフロイトも)に代表される「知のユダヤ人」は19世紀にあらわれたが、この時代は「知」そのものが変貌を遂げつつあった時期に重なっている。

 

 かれら「知のユダヤ人」がこととするのは典型的に近代知であったが、ぎゃくに近代知そのものがすぐれてドイツ的なWissenschaft のことでもあった。

 

 そこでいう近代知は『職業としての学問』のウェーバー(ないし『知の考古学』のフーコー)が思いえがいているような知、特定の対象(価値)に縛られず、もはやいかなる対象についての知でもない自己目的的なもしくは「自律的」な知のことである。

 

 ウェーバーが言うように、近代知においては研究者は将来の学問の進歩のために自己を捧げ、滅却する。そのかぎりで知の主体は廃棄される。それがユダヤ性の隠れ蓑にもなるということだろう。

 

 そのいみでそれは対象と主体の双方によって規定される相対的な知ではなく絶対的な知であり、その究極のかたちがフロイトの『人間モーセ一神教』にみいだされるという。

 

 「知のユダヤ人」において「知」はそうしたいみでの「研究」に残りなく置き換えられている。そして「研究」とはテクストについての知の厳密性を含意する。ガリレイ的な自然科学が手本にしていたのは文献学の厳密性であったことを想起せよ。

 

 ミルネールが本書でたどるのはこうした「知のユダヤ人」の誕生と消滅である。ミルネールによれば、「知のユダヤ人」はハンナ・アーレントとともに消滅する。

 

 アーレントは「知のユダヤ人」でありながら、社会的同化と知を通じての同化を切り離し、前者を目指した。これは「ユダヤの名」による同化と対照される。後者は同化社会の中でユダヤ性を維持しようとする行き方に対応し、ミルネール自身は同じユダヤ人としてこうした道を選択した。

 

 のちの『フランス革命再読』においてアーレントを目の敵にしていた理由がここからもわかる。

 

 アーレントの辿った運命をミルネールはラカンの「論理的時間」に即して描きだす。そのプロセスはおおよそ以下のようである。

 

(1)ガス室などあり得ない。(注視の時間)

(2)ガス室は存在していた。(了解の時間)

(3)ガス室は存在すべきではなかった。(結論の時間)

 

 ミルネールの図式化はあまりにアクロバティックでついていくのに難儀するが(とゆうか、私はついていけてないが)、近代技術がガス室という「知」によって表象され得ないものを生み出したことによって、「知」はその絶対性を技術に譲りわたすのだとされる。

 

 ガス室は技術のための技術である。技術の全能(マラルメの金槌どうように主をもたない)が絶対的な知の自律性にとってかわるのだ(この辺の絶対性についての議論は、『民主主義的ヨーロッパの犯罪的性癖』などでも問題になっている無限/無際限というミルネール的主題にかかわっている。これについては追い追いフォローする)。

 

 ここで“ガウス・インタビュー”での有名な一節「母国語が残った」が援用される。つまり、ガス室のあとにドイツ文明から残ったのはドイツ語だけである。(3)はこの一節の解釈として記述される。

 

 ミルネールは「過去の非現実」(条件法)によって過去をなかったことにできるドイツ語(だけでもないが)の特性に着目する。

 

 そしてそれをハイデガーによる詩的言語の解釈に強引にも結びつける。それは現実を表象するのではなく、概念を創出する言葉の力だ。言葉で現実世界を写し取るのではなく、言葉自体がひとつの世界を形成するということだろう。

 

 かくしてガス室はなかったことにされる(ホントにそうなるかは別として)。

 

 そしてこのとき、ドイツ語はすでに学問(知)の言語ではなく、詩(文学)すなわち文化の言語になっている。かくしてアーレントとともに「知のユダヤ人」は消滅する‥‥

 

 ガス室アイヒマン裁判によって悪が「凡庸化」されることによって相対化されるといったことも書いてある。

 

 ところで文献学に基づくユダヤ的知は1960年代以後、構造主義(ミルネール自身コミットした)としてフランスでリヴァイヴァルするが、これはもはやかつての絶対性を喪失している。

 

 フランスはまた「否定のユダヤ人」にも居場所を提供した(「肯定のユダヤ人」「問いかけのユダヤ人」に対置される。前号参照)。「否定のユダヤ人」とは簡単に言えば完全な社会的同化を志向する人たちであるが、ユダヤ人の被害者的立場のみをアイデンティティの拠りどころとしてちゃっかり確保しているとして批判の対象とされている。いうまでもなく、これはミルネール自身の立ち位置ではない。