alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

パーカー・タイラーを読む(その6)

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 (承前)

 「告げ口屋の声(Tattle-tale voices)」。

 女優ベティ・デイヴィスのキャラクターは『人間の絆』におけるヒロインの「声」によって固まった。その whinking, snarking, shrewish tones がデイヴィスをして皮肉屋、the legendary cat of colloquial esteem という女性の類型たらしめた。

 「この声は、たのしげな雰囲気のなかで発されようと、シニカルなハーモニーをにじみ出させ、その結果、洗練され、神経質で、artificial なタイプのフェミニティを表現している」。

 「ドからドへと不連続にスケールを移行させる」ジーン・アーサーのクレイジー・コメディー向けの声も、「人間的なおもいやりに満ちた」と形容されるマーガレット・サラヴァンのハスキーな声(おもいやりをふりまきすぎた疲れのあらわれか?)も、おなじく aritificial な声に分類される。

 「ハリウッドの声の工場はいっこの効率的な制度である」。変幻自在なアクセントをあやつるポール・ムニがその理想だ。あるしゅの俳優たちは早変わりする音声装置をその身にそなえつけている。

 The voice of Anne Sheridan, for instance, is a peeling voice, juste as one speaks of an eating apple.

 リンゴの皮を剥くように声でキャラを剥いでいく、というイメージであろう。

 「その声をドラムの連打のように低く鳴り響かせてみたまえ。たちまち『The Doughgirls』でおなじみになった女性レスラーの声が聞こてくる」。

 女性レスラーの声というのはもちろん譬えであって、同作でシェリダンが実際にレスラーを演じているわけではない。念のため。

 標題中の tattle-tale という語は、“表裏のある”といったいみでとっておけばよいのであろう。

 

 「ファニー・ヴォイス」のパートでとりあげられるのは、台詞の内容ではなく声だけで笑いをとる俳優たちである。

 Marjorie Maine, with a facial expression like dry ice, has a grave-shod voice with the emphasis of a stamping machine.

 舞台版の『デッド・エンド』で息子を告発する母親を演じて評判になったメインは映画版でも同じ役を務めたが、このように複雑なキャラクターはハリウッドの要請に沿うものではなかった。ハリウッドはかのじょの声だけを切り離し、その coal-bin croak (「石炭のゴミ箱のガーガーいうようなしゃがれ声」?)を磨かせて「シニカルなユーモアをたたえた人生観」をかのじょのキャラとして売り出した。

 「Rationing」におけるウォーレス・ビアリーとの掛け合いは、油を差したコーヒーグラインダーと差していないそれとのスパーリングもかくや(メインはもちろん後者)。

 ザス・ピッツW・C・フィールズエドナ・メエ・オリヴァー、あるいはローレル&ハーディの声のチーム。いずれも声をパーソナリティーの一部に組み込んでいることにおいて見事。アーサー・トリーチャー、エド・ウィンにいたっては声を演技スタイルに合わせるべく人為的に捻じ曲げてさえいる。

パーカー・タイラーを読む(その5)

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  Charade of Voices というエッセーのつづきをよんでいく。


 「谷と山と平原からの声」と題されたパートでは、「ヒルビリー、ディープ・サウス、カウボーイ」の類いにカテゴライズされる俳優たちが扱われる。

 ウィル・ロジャースゲイリー・クーパーの「ナチュラルな」声(“地声”もしくは“肉声”)。クーパーの声からは「なめした生皮(rawhide)と燃え残りのタバコの葉の香り」が漂う。

 しかし声の“リアリズム”は、ハリウッドの「声のまやかし(charade)」のほんの一側面でしかない。

 スター女優がディープ・サウスの女性を演じるとき、メイソン=ディクソン線の南側でじっさいに話されている言葉はこの路線どうようもはや役に立たない。

 『偽りの花園』のベティ・デイヴィスがお手本にしているのは舞台版を演じたタルラ・バンクヘッドの声である。

 アラバマの産であるバンクヘッドには「毛皮の裏地のついた」南部のアクセントを身につけることはずっと容易だった。しかしバンクヘッドはそのごアメリカ各地やイギリスの舞台で長年キャリアを積んできたため、その南部訛りにはときとして「外国風の(alien)ニュアンス」が混じる。

 その結果、デイヴィスはロンドンふうのアクセントをかぶせたバンクヘッドの南部方言を模倣していることになる!

 バンクヘッドの舞台を実際に見ているじぶんが言うのだから間違いない、とタイラーは念を押す。

 ことほどさようにハリウッドの「声のまやかし」は、いわゆるリアリズムには還元されない“作られた声”もしくは“ありえない声”なのだ、ということだろう。

 映画批評家の才能が端的に“耳のよさ”にあることを実感させる目の醒めるような指摘ではないか?

 声を視覚、味覚、嗅覚、触覚と自在に呼応させてみせるエイゼンシュテインばりの共感覚のセンスが冴える。

パーカー・タイラーを読む(その3)

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 Magic and Myth of The Movies (1947)の巻頭に収められたエッセー Charade of voices をひきつづきよんでいこう。


 「習得された英語の話し手」(Voices that learned to speak English)との小見出しの下に論じられるのは1940年代ハリウッドの外国人スターたち。


 外国人スターは異国情緒にみちた役柄を振られることでその外国訛りを魅力に転じる。

 アンナ・クリスティのキャラクターがガルボの声のハスキーさとむちゃくちゃな(abysmal)トーンを正当化したように。

 ガルボの才能は演技スタイルをみずからの声に合わせる技倆にあるのだ。

 ガルボの声はいわばサイレント時代のかのじょのイメージを聴覚化したものだ。

 かのじょのファンは、スクリーンから響いてきた「ビターチョコレートの色調とハープのメジャーコードのようにしっかりした指さばきで弾かれるトーン」の虜になった。ほかならぬタイラーじしんもそのひとりであった。

 アメリカのムーヴィーゴアは外国人スター(イギリス人は除く)の「かがやかしいダークブラウンの味わい」にやみつきになった。

 ディートリヒの声。

 Dietrich’s voice was charming, and remains so, subtly weighting the fluffiest phrases with a pleasantly meaty content.


 クローデット・コルベールの声。

 「ややもするとキーを低く設定しすぎるとはいえ、コルベールの声の魅力はそのはつらつさ(vibrancy)と軽快さ(good-sportiness)にあるが、鼻声がそれをあきらかに減じている。その鼻声は生まれつきのものであるだけでなく、喉と鼻のあいだの作為的な(洗練された cultivated)齟齬(ambivalence)ゆえであり、それはおもてだってはいないがあふれだすほどの自尊心を伝えている。色で(テクニカラーでというべきだろうか?)でいえば、リキュールでひたしたビスケットのブラウン……」。

 「エリザベート・ベルクナーの声とアクセントはその演技スタイルどうよう純粋な装飾。ルイーゼ・ライナーの声とアクセントはあまりに感傷的にすぎ、あまりに涙の出し殻みたいだ(cindery with tears)。Cinderella の声はきっとこんなふうだった」。

 トーキー初期にはブロークン・イングリッシュは矯正の対象であったが、そのうちアクセントが個性として受け入れられた。声の導入はぎゃくにサイレントの雄弁な身体言語(その筆頭がリリアン・ギッシュ)をブロークン化した。

 イングリット・バーグマンのアクセントはかのじょの魅力のじゃまをしている。ぎゃくにバーグマンほどの演技者でないヘディ・ラマールのアクセントは、マシュマロを口のなかで上手にとかすがごとき崇高なベイビートークをうみだすにいたっている。

 カルメンミランダのきついアクセントは官能性を強調しつつ笑いに転じる。シモーヌ・シモンのソプラノと抑えたアクセントのとりあわせの妙(『キャットピープルの呪い』)。

 男優陣はどうか?

 シャルル・ボワイエの Sir Galahad organ tones はかれの唯一の魅力であるが、ハリウッドに来たばかりのジャン・ギャバンの英語のほうがずっと朗々たるトーンを響かせている。

 ドイツ人俳優(ペーター・ローレコンラッド・ファイト)の英語がなめらかにきこえないのは、アメリカ映画の台詞のピッチがドイツ映画よりもスローであるからかもしれない。

(à suivre)

パーカー・タイラーを読む(その4)

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 ひきつづき Charade of voices というエッセーをよんでいこう。


 「バリモア一族を含め、さいしょに英語を話した声(Voices that first spoke English, including the Barrymore)」というパートにおいては、由緒正しい英語の話し手たちが俎上に載せられる。文中、バリモア家が「王族」と揶揄される。

 もっとも個性的なイギリス俳優であるチャールズ・ロートンの「水分過剰(overliquescence)」の声は、「フルートのように感傷的で、オーボエのように自己憐憫的」。

 ライオネル・バリモアのたえず corn(感傷的な芝居?)の皮を剥くような声は、ともかくも一個のすぐれた楽器である。

 ジョン・バリモアの声は持ち主を超えて自己主張する(always playing its own part)といういみでナルシスティックな声である。それはおのれのスタイルにケチをつける者らの育ちの悪さをあからさまに見下している。スクリーン上でジョンが苦悩するたびに、苦悩しているのはかれじしんであるよりも声であるように聞こえてしまったものだ。この声が安らぎをみいだすのはハムレットの黒かロメオの淡紫色を纏っているときだけであるが、そういうときでさえ安らいでいるようにはとても聞こえない。

 『特急二十世紀』は「声のコンプレクスが傑出した演劇的神経症である可能性をほのめかすがゆえに愉快なのだ」。

 『孤独な心』でコックニーの女性を演じているエセル・バリモア。このひとにはもともと Duse[イタリアの大女優]というより diseuse(朗読家)というイメージがある。『孤独な心』のかのじょは母親というよりは母親に捧げる記念碑のようだ。台詞のない場面はともかく、かのじょが口を開くとコックニーのアクセントにキッチンよりはクリュテムネストラを連想させる演劇的なスタイルが混じってしまう。ミュートをかけた自動ピアノの音さながらの。かのじょは声帯の水腫を必死に隠そうとしているようである(上述の「声のコンプレクス」)。かのじょの声には、「健康上の理由で得意の演目を医者から禁じられてしまった軽業師のような無気力」が宿っている。かのじょは「喉頭躁鬱病」を患っているひとのようだ。じっさいに作中のかのじょは病気である。それゆえ本作のかのじょは[病人を]「演じていない」!

 ハリウッド映画でコックニーを演じた名のあるイギリス人俳優はグレイシー・フィールズを除いて皆無である。一方でアイルランド人役にはバリー・フィッツジェラルドとサラ・オールグッドという両名優のほかに、『男の敵』で「矯正器(brace)」をつけて見事なアイルランド人役をこなしたスコットランド人ヴィクター・マクラグレンがいる。



 「可塑的な声、可塑的になった声」

 ヴィクター・マクラグレンはタフな外国人役を牽引している。記憶に新しいところでは、グリア・ガースンがそのゴクラクチョウ的なトーンとイギリス訛りを19世紀の中西部人役にねじ込んでなんとかもちこたえていた。

 女優がブルックリン訛りのようなローカルな特徴をとどめていると淑女らしく見えないが、ボガートやロビンソンはアクセントをのこしたままで典型的なアメリカの市民を演じられる。

 アクセントは出身地や社会階層や学歴の指標だ。生まれたときからボストンのカレッジ出であるかのような声を(養成所で)仕込まれた、古くはウィリアム・パウエル、ジョージ・ブレント、ロナルド・コールマンからフレドリック・マーチジョゼフ・コットン、フランチョット・トーンに至るまでのジェントルマン俳優たち。

 愛想笑いと癖毛を共通点とするジョゼフ・コットンとフランチョット・トーンが見栄えのする衣紋掛けたるにとどまっていないのは、主としてかれらの声の魅力ゆえだ。

 コットンの rich carpety crackle から発されるセックスアピールの火花、たいしてスコッチ&ソーダのフレーバーのまろみをおびたフランショット・トーンのdrawlish なトーンがかれらを世にもスマートな(smooth)若者たらしめているのだ。

 生粋のBriton ジョージ・サンダースおよびイギリス文化の影響下にあるレアード・クリーガーオーソン・ウェルズはその声だけで、そしてただ声によってだけ、 Mr. Winchell’s orchids(スキャンダル、ゴシップの意?)たりえている。

 ことほどさようにジェントルマンのキャラは台詞以上にその声によってきまる。


 (à suivre)

パーカー・タイラーを読む(その2)

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 パーカー・タイラーの Magic and Myth of the Movies の巻頭を飾るエッセーは「声たちのまやかし(Charade of Voices)」と題されている。

 charade という多義的な語はタイラーの批評の重要なキーワードのひとつ。

 このエッセーでタイラーはいわば1940年代のハリウッド・スターの「声」の一大カタログを作成している。

 すでにのべたごとく、アクティングが映画批評の表舞台に躍り出るようになってひさしい。

 しかし俳優の声は、その「役柄」とかヴィジュアル面の陰にいまなお隠れているのが現状だろう。

 声がヴィジュアルと並ぶ映画俳優のメディウムの片一方であるのにもかかわらず。

 ブレッソンをもちだすまでもなく、映画俳優の本質はヴィジュアル面以上にその声に宿る。

 タイラーも「声をスクリーン上の芸術的な幻影の独立したメディウム」として売り出そうとするほど聡明な撮影所のお偉方はほとんどいない、との指摘で論をはじめる。

 「しかし、上映室のきらめきのただなかで目を閉じていったん幻影を消滅させ、その幻影を、純粋な声の力(夜の闇あるいは無から発されるそれ)に返してやれば、ぼくたちは声の力だけを切り離して、おもってもみなかったダイナミックな構造のファクターのうちにそれをとらえることができるのだ」

 「闇のなかの声」という小見出しの下に読まれるさいしょのセクションはこのように書き出される。

 まっさきによびだされるのは『キスメット』のロナルド・コールマンである。

 drawing-room comedy の tatooing にハムレットのモノローグの陰影をまとわせつつ声という楽器を弾きこなす至芸ゆえに、このイギリス生まれの俳優はアメリカの三人のロバートたち(テイラー、ヤング、モンゴメリー)におおきく水を空けている……。

 「沈黙からの声」と題されたつぎのセクションでは、トーキーの到来があるしゅの俳優(プリシラ・ディーンの名が挙げられている)をその声ゆえに淘汰するいっぽうで、ブロードウェイのあるしゅの若手歌手の発声法と声の質が意外にもスクリーン向きであったという「じつに奇妙な strangest of all」事実の発見が回顧される。

 かれらの声をとくちょうづけていたのは、いわば「いいかげん擦り切れた子供向けフォノシートのようなハイピッチ」だ。

 トーキーはスコアと声をサウンドトラック上で同期化するという点で画期的であった。ジャネット・マクドナルドビング・クロスビーやその他有象無象の成功がこうして準備される……。

 すべての要素を(よくもわるくも)まとめあげてしまう音楽というファクターの機能についてはさらに後述されるだろう。

 マイクロフォンの偏在がサウンドトラックを「二次元のオペラ」とよぶべきものと化す。

 メトのスター歌手が舞台の“奥行き”を奪われ、オーラを剥がされた体であろうか。

 むりやり要約しようとしたけれど、原文はずっと含蓄に富んでいる(ようするにわかりづらい)。

 Flush with the microphone was also heard a sort of two-dimensional opera, allowing the more physically birdlike Metropolitan stars to reveal more pointedly whether or not they were capable of purely historinic flight. None achieved a better mark than “whether,” and most were “not.” 

 
 つぎは「集団の声」。

 集団の声(voices en masse)とは、まずは映像にかぶせられるコーラスのことである。コーラスは俳優の沈黙を埋め、そのクレッシェンドで感動を強要する。

 集団の声とは、またサウンドトラックの“多声”性のことでもある。

 「ナラタージュ」(ヴォイス・オーヴァーのたぐい)をふくめ、スクリーンは見えざる者の声で満たされる。画面上の話し手から切り離された人工的な声が籠から逃げ出した鳥さながら勝手にふるまいはじめる。


 「ザ・ヴォイス」。
 
 この通り名は伊達ではない。それを戴くかのスターにおける声の立派さとキャラのチャラさとのギャップがユーモラスに描写される。


 「習得された英語の話し手」(Voices that learned to speak English)は本エッセーの圧巻。外国人俳優の声がいかにそのスター・イメージと不可分であるかが説得力ゆたかに論じられる。


 (à suivre)

パーカー・タイラーを読む(その1)

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 『眼に映る世界』のスタンリー・カヴェルが謝辞を捧げている先人の一人にパーカー・タイラーがいる。

 昨年刊行された The Rhapsodes : How 1940's Critics Changed American Film Culture (シカゴ大学出版)のデヴィッド・ボードウェルが、アメリカの映画批評の“四天王”の一角にそのタイラーを位置づけているのにはうならされた。

 残りの三人は言うも更なり、オーティス・ファーガソン、ジェイムズ・エイジー、マニー・ファーバー。

 四人めにロバート・ウォーショーではなくタイラーを挙げているのがミソだろう。

 かれはシュルレアリスムに薫陶を受けた詩人・作家でもある。

 雑誌のレビューを中心に活動したほかの三人とはちがって、タイラーは書き下ろしの映画論を何冊か上梓している。

 そのうち、最初の映画論 The Hollywood Hallucination (1944) とそのつぎの Magic and Myth of the Movies(1947)は、映画批評のカノンとして祀られるのがふさわしい重要作である。さらにチャップリンのモノグラフィーもものしている(Chaplin, Last of the Clowns, 1947)。

 四人のなかではいちばん理論家タイプである(それゆえおなじ理論家肌のウォーショーに代わるチョイスとして格好でもある)。

 こういう立ち位置が、同時代のハリウッドにたいするタイラーの適度な距離感を保障している。

 すなわち、ハリウッドをいっこの charade のシステムとみなしつつ、そのシステムを性急に告発するのではなく、冷静に見つめ、おもしろがりさえするスタンスのことである。

 その方法をひとことでいうなら、[初歩的な]神話学と精神分析を援用したハリウッド映画の深層意識の繊細な腑分けということにでもなるだろうか。

 ジャン・エプシュタイン、ジャン=ルイ・ボリ、ジャン・ドゥーシェセルジュ・ダネー、ロビン・ウッド……。偉大な映画批評家が往往にしてそうであるように、タイラーもゲイであり、ゲイとして自己主張した。

 タイラーのもっともゆうめいな文章は『深夜の告白』について書かれたものだろう。

 『深夜の告白』におけるエドワード・ロビンソンとフレッド・マクマレーの関係にゲイ的なコノテーションをよみとる観点はいまやすっかり一般化している。

 タイラーによれば、マクマレーのスタンウィックとの情事は、かれを性的に拘束する超自我的な人物であるロビンソンへの反抗のあらわれである(スタンウィックをころしたあと、逃亡せずにわざわざロビンソンへの告白をしたために戻るのがその証拠だ)。 

 タイラーはまた、ハリウッド映画に“元型”のひとつを提供しているドリアン・グレー神話にゲイ的な契機をよみとっているほか(スクリーン=鏡)、同時代のコメディアンたちにおけるマスキュリニティとフェミニティの逆転を指摘し(ダニー・ケイベティ・ハットン...)、メエ・ウェストらの女優とその男性インパーソネーターとの関係を考察し、Turnabout といったファンタジー映画における『君の名は。』ふうの男女の逆転をとりあげるなどしている。

 ちょっとおおげさにいえば、映画媒体そのものにゲイ的な本質をみいだそうとしているといえないこともないだろう。
 
 というわけで、そぼくなかたちでではあるが、映画研究におけるジェンダーあるいはクイア的なアプローチの端緒がタイラーにある、ということなのだろう。

 このてんでもボードウェルのチョイスはさすがに隙がない。

 エイジーやファーバーとはちがい、タイラーの主な関心は監督にはなかった。

 これは神話学的なアプローチのひつぜんたらしめるところでもあるが、タイラーの関心はむしろ俳優に向けられている。

 たとえば近年の Film Comment などを眺めているだけでもあきらかなように、映画批評の世界では「作家主義」がすっかり過去のものとなり、アクティングが表舞台に躍り出るかの様相を呈している。

 こうしたてんでもタイラーのアクチュアリティには疑問の余地がない(ほかの三人、とくにファーバーもこの領域での偉大な先駆者であるが)。

 あらためてボードウェルというひとは抜け目がない。

 同時代のハリウッド女優を「夢遊病者」という括りで論じたおどろくべきエッセー( The Hollywood Hallucination 所収)はその代表的な仕事といえようが、それに劣らず重要な仕事が Magic and Myth… の巻頭に置かれた「声の charade」というエッセーであるとおもわれる。

 
 (à suivre)

古代史劇映画の誘惑

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 このほど Dictionnaire du western を著わしたクロード・アズィザは、ほんらい古代史劇(“ペプロム”)のオーソリティとして知られていて、この分野の著作として、前号でも言及した『想像の中の古代世界案内:小説、映画、コミックス』(Guide de l’Antiquité imaginaire : Roman, cinéma, bande dessinée, Les Belles Lettres, 2008)のほか、『古代史劇、悪しきジャンル』(Le péplum, un mauvais genre, Klincksieck, 2007)、『歴史上の憎まれ役ネロ』(Néron, le mal aimé de l’histoire, Gallimard, 2006)があり、ブリュワー=リットンの『ポンペイ最後の日』のほか、フローベールアレクサンドル・デュマの古代史小説に注をつけたり序文を寄せたりしている。

 『想像中の古代世界案内』は、最初の章において『ポンペイ最後の日』『ベン・ハー』『クゥオ・ヴァディス』『グラディーヴァ』といった小説が扱われ、第2章でサイレント期から『300』に至るまでの古代史劇映画の変遷がたどられ、第3章では、1948年にジャック・マルタン原作・作画により開始された Alix シリーズ(マルタン没後の現在も続いている)にはじまって今世紀までの古代史ものBDの歴史をふりかえり、第4章以下は主題ごとに三つのジャンルを自在に横断したクロスレフェランスといった体になっている。『古代史劇、悪しきジャンル』は、「50の質問」シリーズの一冊で(ピエール・ベルトミュによる同シリーズの『映画音楽』は名著だとおもう)、「衣服の名称がアートのジャンルの呼び名になっているのはなぜですか?」といった初歩的な質問にはじまり、「トルコインド中国にも古代史劇はありますか?」「チャップリンは古代史劇に手を染めましたか?」のようなマニアックなテーマにいたるまで、その政治的・教育的価値、ジェンダー宗教表象オペラ絵画・広告・考古学など隣接諸領域との関係といったさまざまな切り口からこのジャンルを明解に定義している。

 アズィザがいみじくもその著書のタイトルで mauvais genre(下品な趣味)と形容してみせたごとく、このジャンルにたいする無理解と偏見はなお根づよい。わが国においても古代史劇映画はおよそ本格的な研究や真摯な熱狂の対象とはなってこなかった。なるほど時代劇映画がヨーロッパにおける古代史劇映画の役割を果たしているのだと考えることはできるだろうが、だとすればいまひとつの時代劇映画の等価物である西部劇の人気をどう説明すべきなのか。マカロニ・ウェスタンのマニアは多くても、その血を分けた兄弟であるイタリア製古代史劇映画のファンにはめったなことではお目にかからない。ジャーロゴシック・ホラーの撮り手としてのマリオ・バーヴァの名前に反応する人はいても、古代史劇映画へのバーヴァの計り知れない貢献はろくに認識されていない。そのバーヴァと並ぶこのジャンルの中興の祖ともいうべきヴィットリオ・コッタファーヴィやリッカルド・フレーダにたいしてフランス人が捧げてきたような熱狂は日本のムーヴィーゴアにはついに無縁であり、かれらの作品がわが国でソフト化されたためしさえない。かつてフィルムセンターで催され盛況を博した「イタリア映画大回顧」でわたしがもっともたのしみにしていたのはコッタファーヴィの『ヘラクレスの復讐』であったのだが、会場はガラガラを通り越してほとんど無人状態であった。ちなみにこの企画を監修したアドリアーノ・アプラは、その若き日に『オトン』で主役を張り、コルネーユの由緒正しきフランス語にイタリアふうのアクセントをつけ、スクリューボール・コメディーばりの早口でブレッソンの「モデル」さながらに棒読みしていた人であり、ボローニャシネマテークにおけるコッタファーヴィ・レトロスペクティブの大部のカタログ Ai poeti non si spara : Vittorio Cottafavi tra cinema e televisione(Cineteca Bologna, 2010)の編者にも名を連ねている。わが国にもストローブ夫妻に色気を出してみせる御仁は少なくないが、夫妻が現代におけるもっとも精力的な古代史劇映画の撮り手のひとりであるという事実をどれだけの人が認識しているだろうか。そもそもイタリア映画はこのジャンルとともにはじまり、このジャンル抜きには語ることさえ不可能である。このジャンルにたいするフェリーニ偏愛ぶりはよく知られるところだし、パゾリーニロッセリーニIl MessiaSocrates)は言わずもがな、アントニオーニさえこのジャンルに関わったことがある。さいわいなことに二階堂卓也氏の『剣とサンダルの挽歌』(洋泉社)という貴重な労作があり、イタリアの文献を渉猟しつつ余計な思い入れを排したクールな視点からかの国の古代史劇映画を通覧しておられるが、これすらも絶版状態である。ましてハリウッドならびに他の地域(『テルマエ・ロマエ』正続篇を戴くわが国ももちろんふくまれる)をカバーした日本語文献はわたしの目の届く範囲にはみあたらない。こと日本にかんするかぎり、古代史劇映画は「貶められている」というよりも、いまだ暗黒大陸であるといったほうが正確であるのかもしれない。

 フランス語圏を省みれば、アズィザの仕事のほかに、昨年 Napoléon, l'épopée en 1000 films : Cinéma et télévision de 1897 à 2015 (Ides et Calendes)を刊行ナポレオンをめぐる映画史文字どおり総まくりしてみせて読書界を驚かせたエルヴェ・デュモン(ローザンヌスイスシネマテークの元館長で、ロベルト・ジオドマークやフランク・ボゼージのモノグラフィがある)による浩瀚な概説書があり(Antiquité au cinéma : Vérités,lédendes et manipulations, Nouveau Monde, 2009)、すでに入手困難で復刊待ちの状態だが、さいわいネットで全頁が閲覧できる。サイレント期から今世紀の作品まで、歴史上の人物ごとにそれをモチーフにした作品のデータが網羅的に列挙され、重要作には詳細な解説が付されており、BFI の Companion to The Western にも増して参照のし甲斐のある文献だ。わたしがつねづね不思議におもうと同時に不満に感じているのは、わが国においてこれに相当する時代劇映画事典の類いが存在していないことだ。どこかの出版社で出しませんか?

 さて、同じく仏語文献でよりハンディなものとしては、叢書 CinémAction の一冊 Peplum, l’antiquité au cinéma (Corlet-Télérama, 1998)が、やはり網羅的な古代史劇映画版「世界史年表」、監督・俳優小事典、およびアズィザの作成になるコンパクトな文献案内を付して資料価値が高い。また、「ポジティフ」が過去にイタリアとハリウッドそれぞれの古代史劇に捧げた Dossiers(特集)もいまなお貴重な文献のひとつでありつづけている。ロラン・アクナンの Le péplum(Almand Colin, 2009)は図版主体の簡潔な通史。このジャンルの特権的なフォーマットであるシネマスコープを模した横長サイズがおしゃれ。各論では、戦後におけるイタリア古代史劇映画の第二の全盛期にかんして フローラン・フーカールという人が博士論文をもとに上梓した Le péplum italien 1946-1966 : Grandeur & décadence d’une antiquité populaire(Editions Impo, 2012)が、いわばマカロニ・ウェスタンの露払い的な役割を果たした徒花的ないちムーヴメントの興亡を、毒々しくも美麗なカラー図版をふんだんにあしらったマニアックな視点から記述して鮮やかである。リュック・ムレの中編 Les Sièges de l'Alcazar からもうかがわれるヴィットリオ・コッタファーヴィの神格化についてはミシェル・ムルレの Sur un art ignoré (Henri Veyrier, 1987 ; Ramsay, 2008)、および上述のカタログに伊訳のあるムレ自身の『ヘラクレスの復讐』評を参照。英語圏ではジャンル研究に先鞭をつけたジョン・ソロモンThe Ancient World in The Cinema (A.S.Barns & Co,, 1978)以外にはこれといった文献がみつかならいらしいことから、やはり古代史劇映画が貶められたジャンルでありつづけていることがしのばれる。


 さいごにわたし自身の古代史劇映画ベスト10をたわむれに選んでみた。

1. 『十戒』(セシル・B・デミル1956年
2. 『剣闘士の反逆』(ヴィットリオ・コッタファーヴィ)
3. 『ローマ帝国の滅亡』(アンソニー・マン
4. 『キング・オブ・キングス』(ニコラス・レイ
5. 『クレオパトラ』(ジョゼフ・L・マンキウィツ
6. 『雲から抵抗へ』(ジャン=マリ・ストローブ&ダニエル・ユイレ
7. Spartacus(リッカルド・フレーダ)
8. 『ピラミッド』(ハワード・ホークス
9. 『ペルシャ大王』(ラオール・ウォルシュマリオ・バーヴァ
10. 『アレキサンダー大王』(ロバート・ロッセン
次点『エジプト人』(マイケル・カーティス

 この偉大な10本(+1)のうちのすくなからぬ部分がもっぱら失敗作扱いされているのは示唆的ではないだろうか。この事実はもしかしたら古代史劇映画というジャンルの本質にかかわっていることかもしれない。とくに5と8はそれぞれの監督の唯一の失敗作とされることが多い。純粋な傑作はおそらく1と2、それに6だけである。なお、1と2はそれぞれ同じ監督の『サムソンとデリラ』、『クレオパトラ』(1959年)に差し替えてもまったくかまわない。次点はきわめてムラのある作品ながら、『深夜の銃声』で「知られざる女」ミルドレッド・ピアースのメロドラマをちゃっかりフィルム・ノワールにすり替えてしまったカーティスが、ここでは古代史劇映画にたいしてまったく同じ所業をはたらいている。ジーン・ティアニーの最後の輝きを記録した作品であることもこのチョイスの大きな理由である。