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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジャック・リヴェットの映画批評集成(その8)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.

 1963年7月号からリヴェットはロメールの後を襲い「カイエ・デュ・シネマ」編集長をつとめる。『批評文集』編注によれば、つぎに挙げる記事は雑報欄にひっそりと発表されたが「批評家リヴェットの後期を画するマニフェストとはいわないまでも社説というべき文章になっている」。


「『殺人狂時代』再見」
 「カイエ・デュ・シネマ」8月号掲載。「映画の規則と例外がそこから出てくるような映画の純粋状態[即自]というものは存在するか。そういう議論がなされればなされるほど、わたしはますますそういうものの存在を信じられなくなる。映画とはつまるところ[個々の]映画作家たちが為すこと[のひとつひとつ]である。そしてエイゼンシュテインブニュエルチャップリンが『例外』であったとしても、例外こそが[映画の]特異性を基礎づけるのだ。バッハやシェーンベルクはかれらじしんの音楽言語を探求していたのであって、普遍的な音楽書法を構築しようとしていたのではない。ミケランジェロは絵画の役に立とうとしていたのではなく、絵画(あるいは映画)をじぶんの役に立てようとしていたのだ。芸術は探し求められる[courtisé 言い寄られる]ものではなく掴みとられるものだ」。
 「映画の目的とは何か[『ジャンヌ・ダルク裁判』論参照]。スクリーンに映し出された現実の世界が同時に世界についてのひとつの観念となることだ。世界をひとつの観念として見なければならない。世界を具体的なものとして考えなければならない」。世界と観念のいずれを出発点に選んでも、他方にたどりつけないリスクがある。しかし観念は「骸骨」ではなく「動的な形態[figure]」であり、その運動の正確さと内的な弁証法によって徐々に具体的な世界を眼前に再創造する。もうひとつの世界であり、説明された世界ではあるが、受肉された観念であると同時に、意味に貫かれた現実[réel]であるという二重性をもつ。これはまた、観念なるものがすでに世界の観念であり、概念的な視覚(スペクタクルないしメタファー)であるということでもある。ひとつの<映像=観念>(たとえば一部屋に閉じ込められた招待客たち、兎のように地面を転がるハンター、修道院に面した死刑台)はひとつの『登場人物』であり、登場人物のようにさまざまな矛盾をかかえていて、映画はこの矛盾の方法的な解明[dévoilement]なのだ[このあたりドゥルーズの「概念的人物」に繋がる発想?]。ヴェルドゥーの夥しい意味作用は舞台上の演技にというよりもこの演技を生み出す俳優の器用さに宿っている。すなわち主演俳優の『演技』[作用]をめぐる演出であり、この演出はこの演技と一体となる。というのも俳優の行動はたえざる創造であり、原動力の中心であるとともに眼差しでもある。チャップリンは動き[agir]、動かし、またみずからが動くのを見、他人をとおしてみずからの行為を見る。かれはスクリーンの空間のなかに意味の爆発を組織し、われわれ[観者]への影響に基づいて判断されたひとつの動き[agir]を実験する。これは科学者の方法だ。チャップリンブニュエルルノワールはともども現在の『科学の時代』の落し子である。[……]人間はかれらにとって研究と実験の対象であるが、その人間とはまずもってかれらじしんである」。つまりチャップリンにあっては「じぶんじしんの神話をじぶんのキャラクターにくみこみ、じぶんの『伝説』をじぶんの神話にくみこみ、大文字の『歴史』をこの伝説にくみこんで、ひとつの連鎖反応のシステムによって、新たな身体を獲得すること」である。このプロセスは「対象の再構成であるが、『この再構成において対象の諸機能を明らかにする』ことをともなう。これはバルトによる構造主義的方法の定義であり、この方法があらゆる現代芸術の原理となっている」。「チャップリンがじぶんの演じている役柄から突如として身を退けること」によって[その役柄に]意味作用が生じる。この身振りはブレヒト、フォートリエ、ブーレーズにも共通している。「こうして意味が到来し、刻み込まれる。作品はこの到来の運動をとどめている。作品はこの到来の運動であり、この運動を確証し、再開する」。
 読まれるとおり、バザンのチャップリン論を独自の視点から読み直した論文。つづく9月号でリヴェットはロラン・バルトへのインタヴューを行なっている。映画の「ゼロ度」についての本稿冒頭の問いがバルト的なそれであることはいうまでもない。


ジョルジュ・フランジュの『ジュデックス』」
 同11月号掲載。「白と黒、それらのニュアンス、それらのコントラスト、それらの戯れと闘争、これがまさに『ジュデックス』の主題だ。とはいってもその彼方になんらかの参照項や抽象的な意味があるわけではなく、ただその外見のうちにのみその主題は宿る」。「外見以外はなにもない。とはいえあらゆる外見がその出現[apparition]の、その誕生の、その『発明』の運動そのもののうちにある。映画の起源にある秘密がいまや秘密でなくなったかのようだ。とはいえ同時に驚かされるのは、フランジュはその知識[術]によってこの秘密を再発見する人であると同時に、この秘密が失われてしまったことを知っている現代人でもあることだ」。
 同号の「ミュリエルの不幸」にも著名がある。


「121名の監督辞典」
 同1963年12月号から1964年1月号にわたる特集「アメリカ映画の現状・II」に、それに先立つ「アメリカ映画の現状」特集号(1955年)で編まれた小事典の増補改訂版が掲載された。以下はその項目。

ジョン・カサヴェテス
 「カサヴェテスは狡猾な男を演じているお人好しだ。かれは狡猾なお人好したちや醒めた馬鹿正直者たちを撮る。かれらはパンチを喰らうのがこわいあまりあせってパンチを食らわせる。グルになった臆病者たちのマリヴォー劇」。

シャーリー・クラーク
 「アメリカの伝統である身体的な映画の感性を現在に受け継ぐ」。同特集に掲載されたアンケート「アメリカのトーキー映画ベストテン」の一本にリヴェットは『クール・ワールド』を挙げている。

モーリス・エンゲル
 「諸君[観衆]は存在しない。諸君を気になどするものか(視野の隅には入っているらしい)」。

ジョン・フランケンハイマー
 「信じがたいが真実だ」。ヒッチコックならぎゃくに「真実だから信じがたい」とするだろう。

ヘンリー・ハサウェイ
 『失われたものの伝説』は「野生状態のボルヘス」。

ジョン・ヒューストン
 ヒューストンを挿絵画家とみなすのが正しい。下手な作為は本の美麗さを損なう。

エリア・カザン
 「カザンがまず描こうとするのは有機的なもの、生物学的なもの、身体的なものだ」。初期の映画においては死に体になりながらももちこたえている生命活動[le vital]が描かれたが、ここ数年で生命活動そのものが主題に躍り出た。つまりはじめて「映画」になった。

アイダ・ルピノ
 「どんなストーリーを物語ることにもことごとく失敗している。策略があまりにもナイーヴなのにたいしインパクトは絶大なので、人の心を打ちはするがいつもそのタイミングを外している。かのじょの強みは、じぶんがつくりだした状況の犠牲者になる無防備な[désarmée]もしくは憎めない[désarmante]女性のポートレートをほんのいくつかの身振りだけから描いてみせることだ」。

ロバート・マリガン
 「クラレンス・ブラウン流のワンパターンな同軸上の繋ぎ」。戦前ならMGMの大監督としてひと財産築けただろう。現在かれは製作者として財産を築いている。

ラッセル・ラウズ
 極端なシチュエーションへの執着がたまにツボにはまって一瞬、絶妙のナンセンス描写を生む。

ドン・シーゲル
 傑作『殺し屋ネルスン』のドライなタッチは純粋な詩。「『ネルスン』はひとつの謎であるが、スフィンクスはいない」。シーゲルは「映画作家」ではないということらしい。

ジャック・ウェッブ
 愚直さ[無邪気さ]が創意の代わりをしている。


ジャン=ピエール・メルヴィルの『恐るべき子供たち』」
 同1964年2月号のコクトー追悼特集に寄せられた記事。コクトーのストーリーラインはお伽話のそれである。それは劇的な進行にも小説的な進行にもしたがわず、かれの偏愛する北斎の一筆書きさながらに、「単声によって」どこまでも伸びていく。その到達点は「語り手[作者]」にも読者にもあらかじめわかっている。その安心感があらゆる逸脱を許容する。物語のひとつひとつの瞬間は伝統的な物語話法の「重々しさ」を逃れてじぶんじしんにたいしてしか責任を負っていない。ひとつひとつの挿話、ひとつひとつのショットが終わりまで徹底的に「演じ」きられる。「無主題主義[アテマティスム]」もしくは「アンフォルメル」。物語の進行と語り手の声とは調和どころか「不調和」を奏でている。「声が映像を告発し、事物が言葉を告発する」。そこに謎が出現する。「かれが撮るのは語ることができないからだ。とはいえ撮ることができずにかれは新たに語らねばならない。この振り子の戯れ、たえまのない往復のさなかに、この戯れと往復が穿つ亀裂や空洞のただなかに、溶けた雪玉の真実、飲み込んだ毒の真実、気絶した詩人の真実、とはいわないまでも、その真実の不在と無という真実を書き込むために」。


「マックスが食い尽くす」
 同号掲載。マックス・ランデール上映会のレポート。舞台挨拶に立ったルネ・クレールが「またぞろ」チャップリンをディスった。「いくつかのギャグを盗まれたことをいまだに許せないのだろうが、もっと許せないのは『自由を我等に』で誰も笑わなかったその同じギャグが『モダンタイムス』では全世界を笑わせたことだ」。これにたいしクレールがリヴェット宛に送りつけてきた抗議の書簡とそれへの回答が掲載されている。
 同号にピエール・ブーレーズへのインタヴューも掲載。


スウェーデン対フランス:2対0」
 同4月号でブニュエルの『小間使いの日記』をめぐる討議に参加したあと、5月号に執筆された。スウェーデンが税制上の映画優遇措置を導入したことでフランスに差をつけた(前半戦)。国が『沈黙』にハサミを入れる方針を示したことでフランスは「後半戦」をも落とす。


「女性単数」
 同6月号でクロード・レヴィ=ストロースへのインタヴューを行なったあと、10月号に掲載されたマルコ・フェレーリ『猿女』評。「フェレーリは人の気をひくものや人を納得させるものを念入りに消し去り、感情移入を促すための伝統的ないっさいの作為を『厳格に』拒否し、じぶんが写しているものの(それはそれはまったく揺るぎのない)ロジックだけしか信じまいとしている」。とはいえ素材そのものがそのような中立性を拒否している。


「あらり」
 同1965年2月号掲載された短いメッセージ。パリじゅうのジャーナリストが『ゲアトルーズ』を八つ裂きにしようと発揮しているしつこさとたのしみは批評ではなく餌の分捕り合いにこそふさわしい。批評家とは犬なのか。そのとおりだ。


「パリでのロードショー公開作品」の短評
 1965年3月号から1969年10月号までのあいだに散発的に執筆されたレヴュー。批評家リヴェットの最後の文章はドキュメンタリー『神はパリを選んだ』評である。
 1965年12月号ではマルセル・パニョルおよびそのスタッフ、1968年2月号ではヴェラ・ヒティロヴァへのインタヴューに、68年5月にはラングロワ事件の記者会見に参加。1969年11月号でジャン・ナルボニとともにマルグリット・デュラスへのインタヴューを行なったのを最後に「カイエ」を去る。



ジャック・リヴェットの映画批評集成(その7)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.


「腹に魂を」
 「カイエ・デュ・シネマ」1958年6月号掲載の『夏の遊び』評。「批評は概してさまざまな外見の分析にすぎない。とはいえあらゆる偉大な映画作家の運動はまずもってさまざまな外見を問いに付すことであり、それを綜合によって飼いならすことではあるまいか」。「ローレンス・オリヴィエシェイクスピアをレパートリーの所与とみなすのにたいし、ウェルズはシェイクスピアを情熱たっぷりに尋問し、揺さぶり、八つ裂きにして、オリヴィエが想像さえしなかったひとつの謎をその口から吐き出させる」。シェーベルイの幼稚な反抗はシュルレアリスムの悠々自適のブルジョワ的反抗とえらぶところがないが、ベルマンは「みずからの反抗をも審問する」。ベルイマンの映画にいみがあるとすればそれは「問いかけ」ということである。それゆえベルイマンイプセンとか初期ストリンドベリとというより、『幽霊ソナタ』のストリンドベリもしくはベケットとこそ類縁性がある。
 映画作家には二つの精神的系譜がある。クレール、フェニーニ、ワイラー、タチという「分析」の系譜がひとつ。いまひとつはラング、ルノワールロッセリーニ、ウェルズという「綜合」の系譜。「フェリーニはおのれを開く」。ネオレアリズモ的な分離(scission)の運動をもっぱらとする。「ロッセリーニは拳のようにおのれを閉ざす」[『メキシコ万歳』論でもつかわれていた言い回し]。いっさいが一者に回帰する。綜合の運動は観念となるが、これは運動という観念である。
 ベルイマン映画のふるくさい道具立ては、「それじたいが別のものによって破壊されるがゆえに突如として新鮮になる」。「フレーミングへのこだわりがカメラのうごきによってたえずむいみになるように、あらゆる要素が映画作家省察にゆだねられる」。こうした要素の彼方にどのような問いが問われるのか。もっとも単純な問いである。「われわれはなにもので、どこへいき、この[人生という]喜劇のいみはなんなのか」。いわく「形而上学的な美」。「ベルイマンは行動よりも状態を撮る。恥辱、欲望、後悔。これらの状態にあるひとは、行為の時間によって破壊されるどころか、たえず新たに生まれ変わる。こうした状態を解消する充足、明察、傲慢によっても生まれ変わるのである。ベルイマンの主人公たちがこの悪循環から脱することができるのは冒瀆[不法侵入]もしくは見せかけによってだけだ。
 「ベルイマンバロックの罠を完全に逃れているのは肉体の感覚によってである」。より正確には「皮膚感覚」、表皮[うわっつら]の感覚。水、涙、化粧、汗がこの感覚を増幅する。クロースアップもこの目的のためだけにつかわれる。「カメラが寄れば寄るほど、それだけ曖昧さが剥き出しになり、それだけ外見は純粋な外見になる」。ベルイマンのライトは黄昏のそれだ。そこではいっさいがふたしかであり、容易に「諾」が「否」に、「否」が「諾」に反転する。とはいえ時間のサイクルから抜け出すことはできない。けれども主人公たちはじぶんじしんへの内閉[折り重なり]からかれらの意識の第二の運動を発見する。吐露[噴出]である。その根拠はじぶんじしんのうちにしかない。シュトロハイムにおけるように場面が嬉々としてとだえることなくつづき、いっさいの作劇上の必然性の限界をふみこえ、ただその持続だけによっておそるべき[すばらしい]ものとなる。この持続は反復[更新]でも変奏でもなくただのいみのないおしゃべり[反芻]だ」。「ショットはただその持続だけからその美とそのいみとをひきだす。この執拗さはいっこのモラルでもある。ある批評家は『夏の遊び』に存在への固執[persévérance]というスピノザ的大テーマをみてとる。肉体的な現前はそれだけでひとつの勝利なのだ。ベルイマンは事物や人間の密度と人物[形態、顔]の人工性との葛藤からこのテーマの教訓をひきだしている。この葛藤においては後者がつねに現実の重みにたえかねて降参するのだ。形而上学的な美とはまずもって存在論的な美である」。
 シムノンのばあいどうよう、ベルイマンの一本の作品はかれの別の作品に照らしてはじめていみをもつ。「シムノンの小説もベルイマンの映画もそのきわめて厚顔無恥かつ執拗な告白を倫理の水準にまで高めている。倫理とはすなわち作品の倫理、いいかえれば美学である」。「シムノンのモラルは泥にはまりこんだ人のそれである。ベルイマンのモラルは水に溺れた人のそれである」。「苦悩のはんたいがわにある至福をこそことほぎたまえ」(『歓喜に向って』)。「いっぽんの映画の理想的な批評とはその映画がもとづいているさまざまな問いの綜合にほかならない。つまり映画と並走する[=もぐりの]もういっぽんの映画であり、言葉の世界のなかへの映画の屈折である」。それゆえ「『夏の遊び』の唯一の批評は『第七の封印』と題される。いっぽんの映画の真の批評はもういっぽんの映画にほかならない」。
 リヴェットらしい明晰な名文。映画作家を二系統に分類するのはトリュフォーゴダールの十八番。ベルイマンのみならずリヴェットじしんまたシュトロイム直系の映画作家であることはいうまでもない。


「『夜の放蕩者』:いかがわしいがらくた」
 「アール」5月28日ー6月3日号。「圧延機」はハリウッドの専売特許ではない。「ルーティンワーカーの最たる者らにとってあらゆるかたちの意外性は天敵なのだ」。最悪なのは台詞のオーディアールで、あらゆる職業・社会階層の登場人物に同じことばをしゃべらせている。こんなリアリティのない登場人物たちは信用できない。脚本や演出以前の問題だ。


「アントワーヌの方へ」
 『パリはわれらのもの』撮影のため一年のブランクを挟んで1959年4月号にフェレドゥーン・オヴェイダと共同でのロッセリーニへのインタヴューで「カイエ」に復帰したあと、同5月号に発表された『大人は判ってくれない』評。
 トリュフォーは「じぶんのことを語りつつ、われわれのことをも語ってくれている」。このいみでトリュフォーは古典主義者だ。古典主義とは「描く対象だけに視界を限定しつつ、突如としてその対象のまわりに潜在的な世界の広大なひろがりを見せてくれるもの」だから。しかも自伝でありながらちょくせつじぶんを語らず、アントワーヌという「客観的な兄弟」を創り出し、おのれを虚しくしてこの人物を冷静に観察している。このいみでトリュフォーはフラハティの弟子である。
 インタビューの場面においては「映画がテレビを再発明し、テレビが映画を聖別化する」。
 エンディングについて。「はじまったときにはすでに時間は刻まれはじめていて、その加速と仮借のない経過によって映画はすでにひそかに傷ついている。幕切れは巧妙に組み立てられた物語の恣意的な結論などではなく、現実の時間のなかに一歩を踏み出すべく息をととのえるための踊り場にすぎない」。
 「『大人は判ってくれない』は簡素さの勝利だ」。映画が徐々に見失ってきた「眼差しの純粋さ」「カメラの無垢」がまだ残っていたのだ。カメラが捉えた世界がそのままのかたちで存在するという現代人が失ってしまった信頼がここにはまだある。映画の内部から外の世界へと目を開いていくというルノワールの辿った道筋をトリュフォーもまた辿る。
 「トリュフォーが残酷さを描くときのとてつもない優しさは、狂気を描くときのフランジュの甘美さもかくや」。いずれも省略という方法から大きな力を得ている。さらに「雄弁と絶叫と説明を拒否することによって、内なる鼓動とふるえをここぞという瞬間に刃のように鋭くひらめかせることができている」。ヴィゴ、ロッセリーニの名が想起させられる。
 トリュフォーとは長いつきあいのリヴェットであったが、会えば映画の話ばかりしていたのでお互いのことをよく知らなかった(「それで十分だった」)。かれが盟友の人生を知ったのもやはり映画をとおしてであったわけだ。


「国民の解剖」
 同7月号で『二十四時間の情事』をめぐる討議に参加したあと、11月号に掲載されたマーク・ロブソンアメリカの戦慄』評。ブレヒト流の「冷静な明察」があるが、リチャード・ブルックスの「客観性」には及ばない。


「まといつく死」
 同号掲載の『オルフェの遺言』評。現在のフランス映画に欠けているのは詩だ。それゆえ詩人の映画が不可欠である。詩とは何か。「ゆたかさへと向きをかえたまずしさ、舞踏と化した跛行だ。詩人はまずもって簡素さ、リアリズムを再発明しなければならない。コクトーはドキュメンタリーを再発明する。フリッツ・ラングに学んだフランジュがフィックスショットを再発明しているように」。『双頭の鷲』いらい詩人=映画作家となっていたコクトーがいまいちど『詩人の血』の映画作家=詩人に戻って「自画像ならざる薔薇」を描こうと試みるも成功していない。「不条理にひとつの意味をもたらそうとする人間の絶望的な努力がレイ、溝口、ムルナウの映画を貫いている。コクトーとフランジュは不条理を壁際まで追い詰めようとするが、その背後に人間を再発見してしまう。この映画はすぐにも死ぬことがわかっているが死を真剣に考えたいとおもいつつそれができないでいる人の映画であるがゆえに美しい。不条理と恩寵は同じ硬貨の裏表であり、詩人が夜のなかに投げたそれがわれわれの闇のなかに落ちてくるのだ」。
 タイトルは『北北西に進路を取れ』の仏訳。


「芸術と試み」
 同号掲載。フランス芸術映画協会(AFCAE)が選定した上映推奨作品リストの批判。『バレン』(レイ)、『抵抗する勇士』(ガーネット)、『クレオパトラ』(コッタファーヴィ)、『我が心に君深く』(ドーネン)の低い位置づけを疑問視している。
 このあと1961年1月号でアレクサンドル・アストリュックへのインタヴューを行なっている。


「おぞましさについて」
 同6月号掲載のジッロ・ポンテコルヴォ『ゼロ地帯』評。強制収容所の映画において「絶対的なリアリズム」は不可能だ。「スペクタクル」化は覗き見主義かポルノグラフィーにひとしい。『夜と霧』は強制収容所という現実を「理解することも認めることも受け入れることができない聡明な自覚」に基づいて、アーカイブ映像のインパクトに訴えなかった。どんなものにも人は慣れてしまうから。とはいえ『夜と霧』に慣れてしまうことはない。「映画作家がじぶんの見せるているものを裁き、それを見せるやりかたによって裁かれているからだ」。「トラヴェリングはモラルの問題だ」というムーレ=ゴダールの言葉は「形式主義」ではなくポーランがそれに対置した「テロリズム」だ。映画は「言語」ではない。[映画は道具ではない。もしくは映画を形式の問題に還元できない。]「映画を撮ることはなんらかの事物を見せることであり、同時に、そして同じこの行為によって、なんらかの方法で見せることだ。この二つの行為は厳密に不可分のかんけいにある」。形式主義者には後者[つまり映画作家の主体性ひいては責任]の自覚がない。
 『メキシコ万歳』論、『夏の遊び』論で提示された「綜合」という概念が倫理的な文脈でいま一度言及される。


「汚れ落とし」
 同9月号掲載のアーヴィン・カーシュナー『ザ・フッドラム・プリースト』評。脚本は「サイテー」(dégueulasse)で、出てくる人物は道で会うのもごめんこおむりたいヤツらばかりだが、街路、寝室、監獄、裁判所といった舞台装置のリアリティは最近のアメリカ映画ではお目にかかれないもの。映像、アングル、編集の飾り気のなさ。「漠然としているがたしかな魅力」のある小品。
 同号にはアラン・レネアラン・ロブ=グリエへのインタヴューも掲載、12月号では批評をめぐる討議に参加している。


「現在の芸術」
 同1962年6月号掲載の『草原の輝き』評。『草原の輝き』の主題は時間だ。時間の作用による腐敗と変容だ。これまでのカザンの映画になかったようなショットの瑞々しい輝かしさは、ひとつひとつの瞬間の「かけがえのなさ」を際立たせることでその変容をいっそう残酷に見せるためだ。「ひとつひとつのショットがそれ固有の真理のうえに閉じられている。24分の1秒の芸術である映画いがいのどんな芸術が同一性という観念の絶対的な批判という本作の主題にこれほどの説得力をもたせることができるだろうか」[『小さな兵隊』のれいの警句を踏まえている?]。ひとつひとつの瞬間がそれだけで完結した全体であるからこそ、時間の流れのなかで人間も世界も同一のままではありえない(ここには「進歩」への希望も含まれている)。「時間についてのすべての映画と同じく、何度も見る必要のある映画。いっさいの説教なしに事実だけを差し出してその意味や教訓に頓着しない。『草原の輝き』は進行する映画だ。すなわち冒頭のショットと幕切れのショットとのあいだに世界が動いてしまうのだ。こういう映画はめったにない。アンチ『裸の島』。あらゆる偉大な映画はクロニクル[クロノス的]だ。そしてこの映画ではあらゆる劇的な進行が純粋な時間的継起にとって代わられている」。「この映画では断片が不可避的にひとつの全体の印となっている。セリーの細胞がそのうちに作品のあらゆる可能なかたちを含んでいる」。いわく本作によって「無調の映画」への決定的な一歩が踏み出された。
 くだんのエイゼンシュテインベルイマン的「綜合」の概念がふかめられている。『夏の遊び』論で指摘されていた「水」の主題(河、ダム、滝)がここでもとりあげられる。「[水は]自然の力の抵抗不可能な流れであるのみならず、あらゆる見かけの勝ち誇った流動でもある。『見ろ、なにも変わっちゃいない』とバッドの父は叫ぶ。まったくちがう。同じではない。同じではありえない。そしてあらゆる存在はかけがえがない」。


「162人のフランスの新鋭映画作家
 同12月号「ヌーヴェル・ヴァーグ特集」のために編まれた小事典に無記名で執筆。アルジェリア闘争に取材した匿名のドキュメンタリー『パリの十月』(1962年)のシノプシス。「われわれの時代の歴史にとって重要なドキュメント」。


「興行的失敗についての覚書」
 同1963年5月号掲載の『ジャンヌ・ダルク裁判』考。「カイエ」は興行的・批評的大失敗をこおむった『ジャンヌ・ダルク裁判』を擁護する論陣を張った。
 『スリ』と『ジャンヌ・ダルク裁判』は「エントロピーを極限まで低下させた」「純粋な情報」だ。「観衆とのもっともダイレクトなコミュニケーションをこれほどまでに絶対的に押し進めた映画作家はかつて存在しない」。ブニュエルロッセリーニの映画もこれにくらべれば「レトリック」にすぎない。『ジャンヌ・ダルク裁判』は「潜在的にはもっとも『大衆的』な映画だ」。ところが観衆の好みは「レトリック」や「エントロピー」のほうにあった。だから「純粋なエントロピー」である『いぬ』はヒットした。使い古されたシネフィル的な記号だけからなる「シネフィル[だけ]のためのパブロフの犬的な映画」。とはいえ映画の目的はコミュニケーションであろうか。現実の世界は「かなり混乱したサラダ[ごたまぜ]」であり、「エントロピー」の塊である。芸術はそういうありのままの現実を描くためのものなのか、もしくはそういう現実を交通整理するためのものなのか。『ジャンヌ・ダルク裁判』のブレッソンに匹敵しうるのはブラックかフォートリエ、もしくはウェーベルンだけだ。「ブレッソンが純白のスクリーンを目指しているのだとしても、それはもはやなにも言わないためではなく、すべてを言うためである。もしくはすくなくともたったひとつのことを絶対的に言うためである[『悲しみよこんにちは』論参照]。たったひとつの単語ではあろうが、あまりにも完全に言われるので、それはあらゆるものの意味となり記号となるのだ」。


「映画と新音楽」
 同7月号掲載の『マホルカ=ムフ』評。「戦後ドイツの最初の作家の[ささやかな]映画」。作者の野心は「『キャラクター』を撮る」こと。すなわち「ひとりの人物の性格の外側からの描写」。リヴェットによれば、この試みは「高い密度と[映画のさまざまな要素の]内的諸関係の均衡をともなって完璧に完遂された」。いろいろな音楽的比喩が思い浮かぶが、本職の音楽家に発言を委ねよう、としてシュトックハウゼンがストローブに宛てた長い書簡が全文引用される。



ジャック・リヴェットの映画批評集成(その6)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.


「手」
 「カイエ・デュ・シネマ」1957年11月号掲載の『条理なき疑いの彼方に』評。かつての筋骨隆々できびきびしたスタイルに比べると骸骨どうぜんでぎこちないスタイルに変貌したラングの新作への驚きと、この作品が『ストロンボリ』『イタリア旅行』『奇跡』『間違えられた男』『抵抗』といった「最近のあらゆる偉大な映画」と“どんでん返し”という趣向を共有していることの発見とを結びつけた野心的な論考であるが、ヘーゲル哲学を参照してそこにはたらいているなんらかの弁証法的な契機を見定めようとするその思弁はときに錯綜をきわめ、リヴェットのもっとも晦渋なテクストのひとつになっている。
 リヴェットによれば、『条理なき疑いの彼方に』においては「場面の破壊」がある。「どの場面も場面そのものとして扱われてはおらず、純然たる瞬間の継起」「具体性を欠いたたんなる時空間的な目印」に還元される。くわえて「登場人物の破壊」がある。「登場人物たちはあらゆる個人的な価値を喪失し、もはや人間という概念にすぎないものとなっている。とはいえ結果としてかれらは個性を欠いているぶんだけ人間的なのである」。「ラングは概念の映画作家だ。それがいみするのは抽象化でも様式化でもなく必然ということである(必然はみずからの現実性を失うことなしにみずからに矛盾することができなければならない)。とはいえそれはたとえば映画作家の必然といったような外的な必然ではなく概念の運動そのものから生まれる必然である。観者はもはや登場人物の思考や『動機[モビール]』だけでなく、現象のさまざまな外見だけを出発点として<内面>のこのような運動そのものを引き受けなければならない。その現象の矛盾したもろもろの瞬間[契機]を概念に変容させることができなければならない。つまるところこの映画は何なのか。寓話、譬え話、方程式、図式のいずれかであろうか?どれでもない。これはひとつの『経験』の純然たる描写である」。なお、翌月号のルノワール論には「経験」が「個別から一般へ」というベクトルによって定義されている。
 『条理なき疑いの彼方に』の主題は「裁きの虚しさ」に還元できない。映画の結末はむしろ「あらゆる人間がつみびとである」というテーゼに導く(それゆえ「偽りの有罪者」[『間違えられた男』の仏題]というヒッチコック的観念は退けられる)。ここでわれわれは「無常の世界」に入り込む。そこでは「いっさいが恩寵を否定し、罪悪と刑罰が手のほどこしようもないくらいに結びつき、創造者に可能な唯一の態度は『絶対的な軽蔑』である。とはいえそのような態度をとりつづけることはむずかしい。寛容さがその実行の不可避的な敗北、怨恨、苦渋という危険にさらされているのにたいして、軽蔑は嬉しい驚きに出会うことしかありえず、最終的につぎのことに気づくのである。人間はまったく軽蔑に値しないということではなく(人間はあいかわらず軽蔑すべきものだ)、おそらく人間はそう考えられていたほどには軽蔑すべきものではないということに」。われわれはここでその「彼方」にある「真理の段階」に立ちいたる……。
 『条理なき疑いの彼方に』とそれ以前のラングは対立していない。『激怒』や『暗黒街の弾痕』では無実の人が有罪の見かけをしているのにたいし、『条理なき疑いの彼方』では有罪者が無実の見かけをしているだけだ。「見かけの彼方で有罪および無罪とは何なのか」。[つまり、見かけをとりのぞいてしまったところではすでに有罪とか無罪という観念そのものがいみをなさない。ことほどさように罪の観念は相対的であるということだろう。有罪と無罪はもともとメヴィウスの輪のように繋がっているのであり、くだんの“どんでん返し”はその表現であるというわけだ。]「それゆえひとりひとりがじぶんじしんのためにそのひとだけの真実を創り出さねばならない。それがどんなにありそうもないものであっても[仏題『ありそうもない真実』を踏まえる]」。
 ドゥルーズがラングにみてとる「偽なるものの権能」の概念を先駆ける。


「1957年トゥール。サスペンスなき映画祭。最高賞はアンリ・グリュエルの『モナリザ』に」
 「アール」11月27日-12月3日号掲載の短編映画祭のレポート。リヴェットはこの前年、同映画祭に『王手飛車取り』を出品していた。論の終盤、マクラレン『いたずら椅子』の「根っからのチャップリン的な精神」への好意的な一瞥につづけて、知性優位の映画祭にあってその肉感性において異彩を放っていたトリュフォーの『あこがれ』への賛辞が綴られる。「紋切り型のコーティングをすっかり取り払った幼年時代。スクリーン上の子供たちの顔はほとんどいつでもこうしたコーティングによって醜く歪んでいるのだが」。ヴィゴと[初期]ルノワールの教訓がみてとられる。いわく「自由と独立不覊の精神。じぶんじしんが課す規則いがいのいっさいの規則を受け入れないこと、および美学をつねにモラルの問題にしていること」。五人の「ガキ」[原題 Mistons]が若者のカップルとのあいだで演じているようなかくれんぼをトリュフォーじしんが登場人物および主題とのあいだで演じている。「絶妙のタイミングでつかまえてみせるのだが、相手のゲームの規則を踏みにじることはけっしてしない」。
 リヴェットにしてはめずらしい甘美なタッチ。むしろトリュフォーじしんの文章を彷彿とさせる。

ジャン・ルノワールの人と作品」
 「カイエ・デュ・シネマ」のクリスマス増刊号「ジャン・ルノワール」のためにバザン以下8人の同人が作成したバイオ=フィルモグラフィーの一部。バザン『ジャン・ルノワール』(邦訳フィルムアート社)に再録。なお、同号ではトリュフォーとともにふたたびルノワールへのインタヴューを行なっている。

『騎馬試合』
 「作者唯一の二元論的な映画なるも、悪役の描写にもいくぶんかの同情がこもっている」。歴史を「現在形で」描く試みは『ラ・マルセイエーズ』に十年先駆ける。「ルノワールは決闘の帰結までみとどけることをおそれない」。「真実の瞬間に仮面が剥がれる」。

『ブレッド』
 「全篇アレグレットで進行するなかにいくつかのもっと荘重な音がときどき滑り込むが、ハーモニーを乱すことがない」。

赤ずきん
 「マック・セネットふうの追いかけっこが牧神の世界と混じり合う」。

『トスカ』
 「『トスカ』は現実主義的なオペラであることをやめる。現実がオペラになる」。

浜辺の女
 「悲劇がなんらかの運命の仮借ない進行からではなく、ぎゃくに固定化と不動性から生まれている」点で、みかけとちがって反ラング的な映画。「三人の人物のいずれもがおのれじしんとおのれの欲望のみせかけのイメージにとらわれている」。「いまやルノワールは事実だけを順々に差し出す。そして美がここでは妥協のなさから生まれる。行為の剥き出しの継起いがいにはなにひとつない。ひとつひとつのショットがおのおの出来事となる」。いわく「純粋映画」。

『河』
 「あらゆる偉大な映画は経験の物語だ。つまり個別的なものから一般的なものへと進む。諸々の矛盾なるものをひとつの特殊な葛藤に帰してそこにはまりこませるのではなく、その物語は個人の運命をすぐには手放さず、その運命をもっともはげしい発作の状態にまで押し進める。新たな顔相[figure]があらわれたかとおもうやすぐさま新たな世界に向かって目を開く」。『河』はじぶんじしんを厳密に鏡に映した[反省した]映画の唯一の例である」。そこでは物語上の所与と社会学的描写と形而上学的な諸主題が呼応しあうのみならずあらゆる点で交換可能である」。「隠喩に富むこの作品はつまるところ隠喩そのものを、もしくは絶対的な知識を主題にしている」。

フレンチ・カンカン』。
 「あらゆる身体的な快楽へのこの頌歌の偉大さはまずもってとてつもなく時代遅れであることだ。しかしこの時代遅れは前向きかつ闘争的である」。「あらゆる偉大な映画には恥知らずなところがある」。「センシュアルなものとスピリチュアルなもの、『フレンチ・カンカン』と『黄金の馬車』を切り離すなと教える汎神論。それは苦渋をともなう。とはいえ快楽もまた陽気ではない。かたわれでしかないのにそれじたいの動きによってあたかも<全体>であるかのような幻影を生み出そうとする」。


エイゼンシュテイン万歳」
 同1958年1月号掲載の『メキシコ万歳』評。エイゼンシュテインは「本質的に綜合的な映画作家」であり、そのショットはそれじたいでひとつの全体たることを志向する(「ひとつひとつのショットは拳のようにおのれじしんのなかに閉じる」)。ショットどうしを近づける力は撮影される現実の論理によってではなく、「観念」の論理に依存する。「ショットはショットに対立させられることによってこの対立を破壊するものをよりいっそう肯定し、あらゆるショットを組み立てる媒介にいっそう大きな権限を委ね、この媒介を映画の唯一の真の主題にする。そしてひと塊りの現実と人間の観念との闘争のなかで精神の勝利をより輝かしいものにする。とはいえ重要なのが近づけられた二つのショットではなくてそれらを近づける観念であるとしても、この観念はひきつづき二つのショットの内部に回帰し、結びついて固有の運動となって、至るところに世界の魂を再発見する。この魂は個々の断片の魂のなかに宿っている」(?)。『メキシコ万歳』は「編集不可能」であり、ショットを描写ないし物語の分析的断片とみなして編集版を制作したマリー・シートンは間違っており、ラッシュのまま上映したジェイ・レダのほうが正しい。


「ロッテ・アイスナーの記事『二つのノスフェラトゥの謎』へのあとがき(2)」
 同号所収。アイスナーの記事はシネマテークで上映された『ノスフェラトゥ』の二つのヴァージョンの比較を内容としており、ロメールが「あとがき(1)」を付けている。アイスナーの記事には『愚かなる妻』のヴァージョン違いにも簡略に触れられていて、その詳細をリヴェットが補っている。「アメリカ版も才能豊かな映画作家の作品であるが、イタリア版だけが天才的なクリエーターの作品だ」。


「こちらから見たミゾグシ」
 同3月号掲載。溝口の映画は「演出」という共通言語で物語られている。この言語を溝口ほどに純粋化した者は西洋には例外的にしか存在しない。「溝口がわれわれの気を引くとすれば、それはかれがわれわれの気を引こうとしていないからだ」。「日本の伝統的なレパートリーだけを映画化している唯一の日本人映画作家であるようにおもわれる溝口は、真の普遍性すなわち個人という普遍性を自認し得る唯一の日本人映画作家でもある」。溝口の世界は「とりかえしのつかないもの」の世界である。溝口における運命は「屈服による甘受ではなく、和解への道である。いっさいが永遠の現在という純粋な時間のなかで生じる。いっさいがさまざまな観点からみたはかない現象を克服した者のこころしずかな喜びのなかで終わりを迎える。唯一のサスペンスはなにほどかの忘我の境地へと上昇していく留めがたいベクトルであるが、それは究極的な音色の『照応』、終わりのない微細な和音のそれであり、それは完結することがなく、音楽家の呼吸とともに息づく。いっさいが調和して中心的な場所の探求へと向かうのだが、そこでは外見が、そして『自然』(もしくは羞恥あるいは死)と呼ばれているものが人間と和解する。これはドイツ・ロマン派、リルケ、エリオットにもつうじる探求であり、カメラによる探求でもある。そのカメラはつねに正確な地点にセットされ、ほんのわずかな移動が全空間の配置を変え、世界と神々の密かな顔を一変させる」。いわく「転調の技法」。

 同じ号に「溝口レトロスペクティヴ」のレビューが掲載されている。

『浪華悲歌』
 イマジナリーラインとの戯れ方はラング、オフュルスもかくや。

『武蔵野夫人』
 溝口は作品ごとにショットの色調を変える。『武蔵野夫人』は前作(『雪夫人絵図』)よりも輝きとツヤがなく、より曖昧なグレーの領域を活用している。「被写体のミクロン単位の距離、ヒロインのどれほど低いためいきにも、どれほど小さな心変わりにも反応する」精密なカメラ。


「聖女セシル」
 同4月号掲載の『悲しみよこんにちは』評。プレミンジャーの「職人的知性」は、「素材の善し悪しを正しく見抜くが、月並みな素材をいつも退けるわけではなく、その月並みさの使い道をわきまえたうえで使う術も知っている」。「完璧さを避ける」ことがプレミンジャーの「秘術」だ。「ストーリーラインには忠実であることを条件にすべてを一から創り変えること。新しさと発見と若さとを、そのようなものを欠いている素材に取り戻させてやること」。「演出の技法は絶妙の配置(mise en place)ないしタイミング(mise en temps)だ」。配置とタイミングしだいで「すべてが恩寵」(ベルナノス)になりうるということのようだ。「プレミンジャーは出来の悪い文学の偽りを偉大な映画の真理にとって代える。その真理とは『直線』の技法である」。「『悲しみよこんにちは』のあらゆるショットにはっきりとみてとれる創意はまずもってあるしゅの『短縮』の才覚である」。プレミンジャーは原作小説が覆い隠しているものをストレートに見せる。プレミンジャーがオフュルス、溝口、アストリュックとともに体現する新たな「純粋映画」の定義は「それによって被写体が破壊されるどころかそのあらゆる顔を露わにし、重ね合わせるような鏡の作用」というもの。「ピカソが絵画において到達した地点へとわれわれの技法を高めること」。キュビスム、もしくはドゥルーズ的な「結晶イマージュ」であろうか。そしてそれは「ひとつの絶対的なもののためにすべてを犠牲にすること」なのだとされる。これはプレミンジャー流の「不完全性[未完成]の美点」と矛盾しないらしい。


「グッドバイ」
 同5月号掲載の『サヨナラ』評。「カイエ」が一時期もてはやしていたジョシュア・ローガンにたいして引導が渡される。「『ピクニック』『バス停留所』のいずれにおいてもローガンはたんなる現場の芸術監督、つまりハリウッド的ないみにおける“director”にすぎなかったのであり、われわれが少々早とちりして期待をかけたような『作家』ではなかったのだ」。「サヨナラ、ミスター・ローガン」。



ジャック・リヴェットの映画批評集成(その5)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.


「アジェジラスの後に(演出)」
 「カイエ・デュ・シネマ」1955年12月号掲載の『ピラミッド』評。作家主義の別名であるヒッチコック=ホークス主義が名前を戴くヒッチコックは評価が進んでいるが、いっぽうのホークスはというといまだに「呪われた映画作家」たりつづけている。とはいえヒッチコックについても脚本のレベルでの批評が大多数で、「映画の本質、つまりスクリーンに映っているもの」言い換えれば「演出」はないがしろにされている。なぜか?「音楽愛好家のおおくが室内楽よりも交響曲交響詩をこのむのとおなじく、映画の愛好家は映画作家のわざ[art]よりもそれをとりまき、それをおおいかくし、それを飾り立てる外見的なことに反応するからだ」。ホークスの新作についても、古代史スペクタクル映画(「ハリウッドで最悪のジャンル」)という「外見」に惑わされる危険にみちている。ましてやジャンルのルールにさからうことをせず、そのルールにできるかぎり忠実にしたがうことで、いまや形骸化してしまったそのジャンルがもともともっていた存在意義[nécessité]を再発見するという行き方をホークスは常としている(この見解はロメールに負っている)。こうしたいみでの伝統への忠実さに「個人的な主題」を織り込んで撮られているのがホークス映画のとくちょうだ。感傷や説教に堕してしまうのがおきまりの古代史スペクタクルという枠組みのなかで「神=専制君主および人間の天才が挑んだもっとも壮大な事業のはじまり」という例外的な主題を扱う『ピラミッド』は「デミル式の罠」を逃れている。それを可能にしたのは西部劇への参照である(ちょうど『大いなる蒼空』が古代史劇を参照しているのと対をなす)。『赤い河』との類似が指摘される。どんなジャンルであれ、ホークスの主人公は「高貴さ、大胆不敵さ、機転、知性」といった古典的(「コルネーユ的」)美徳をそなえている。コルネーユとのアナロジーはときとして喜劇をも手がける偉大な悲劇作家というとくちょうによっても裏付けられる。


「ある革命についての覚書」
 同11月号の特集「アメリカ映画の現状」に寄せた記事。
 「ふたつのアメリカ映画が存在する。ハリウッドのアメリカ映画とハリウッドのアメリカ映画だ」。二つのハリウッドがある。「数字」のハリウッドと「個人」のハリウッドだ。アメリカ映画の第一の時代は俳優の時代であり、第二の時代は製作者の時代であった。そしていまや「作家」の時代が到来した。先陣を切るのはレイ、ブルックス、マン、アルドリッチの四人。そのあとにはウルマー、ロージー、フライシャー、フラー、さらに予備軍として[結局大成しなかった]ジョシュア・ローガン、ガード・オズワルド、ドン・タラダッシュも控える。四人はともに若さの美徳をそなえている。その最たるものは「暴力」だ。これは心の奥底から発する「男性的な怒り」であり、脚本や素材にではなく物語話法のトーンや演出の技術においてあらわれる。暴力は目的ではない。もっとも有効な手段である。「慣習の残骸を吹き飛ばし、突破口をひらき、最短距離を確保するためのダイナマイトだ」。そしてありきたりのデクパージュを拒否する「非連続的で不調和なテクニック」。そしてコクトーのいう「尊大な不器用さ」。かれらはみな「エゴセントリックな演出家」というありかたを最初に認めさせたオーソン・ウェルズの息子である(「ウェルズ的クーデタ」)。マンキウィツ、ダッシン、プレミンジャーがこれにつづいた。暴力は単独では生き残れない。「省察」がいまひとつの極となる。暴力が切り開いた政治的空位において英雄たちはみずからの運命を問い、深めるのだ。かれらの映画に挿入される長い空白や後戻りはそのためにある。かくして効率性と観想の弁証法が演出の原理となる。あらゆる革命がそうであるように、この革命は各人が内に秘めた野心の共通性によってではなく各人が反抗する敵の共通性によって四人を集結させた。四人がともども現代的な映画を撮る意志をもっていることだけで結集の口実たりえた。四人はそれぞれ別々のやりかたで現代世界の見取り図を提示している。ニコラス・レイは四人のうちでもっとも謎めき[secret]もっとも偉大で生まれながらの詩人である。黄昏、孤独、人間関係の困難への強迫観念がその全作品を貫く。怯懦と怖れからの人間性の奪回を説くブルックス、努力の価値を顕揚するマンはともどもホークスの末裔である。アルドリッチは退廃した世界の明晰で叙情的な描写によって正確な不協和音を鳴らすことで四人の調和を完成する。ほかの三人の伝統的なモラルにたいしてかれは否定的なモラルを提示するがじつは「帰謬法によって」前者を諾っている。この「革命」は工場製規格品への長きにわたる従属を脱してグリフィスとトライアングル社の伝統と手を結ぶ。ウォルシュ、ヴィダー、ドワン、ホークスらがその樹液によってこの革命をひそかに育みつづけてきたのである。四人組の映画をとくちょうづけるあるしゅの身振りの豊かさとストレートな感情の表出はかれら先人の叙情とメロドラマが準備していた。ことほどさように「素朴さ」(しかり四人は素朴派である)は「洞察」の同義語であり、ともどもハリウッドの職業的脚本家らの狡猾さの対極にある。かれらの送ってくる息吹はロッセリーニによる革新と手を結ぶ。
 同号にはトリュフォーと共同でのマックス・オフュルスへのインタヴューも掲載。


ロバート・ワイズの『へレンのトロイ』」
 「アール」2月8日ー14日号掲載。本家ホメロスお家芸でありホークスの『ピラミッド』にもあった「親しみのあるものと偉大さの混交」は、本作においては安易な下品さととりすました味気なさとの野合におわっている。


シネマテークで毎晩開催中:ドイツ映画の黄金時代」
 同2月15日ー21日号掲載。「ドイツ表現主義はそのぜんたいが演出についてのひとつの形而上学に基づいており、そこでは倫理と美学が不可分である。映画的創造の中心にある根本問題がはじめて正面から問われると同時にほぼ完全に解決された」。絵画史でいうならクワトロチェントに相当するムーヴメントだ。


フリッツ・ラングの『ニーベルンゲン』」
 「カイエ・デュ・シネマ」1956年3月号掲載。「ラングが真に天才的な映画作家になったのは『クリームヒルトの復讐』によってである」。


フリッツ・ラングの『月世界の女』」
 同号掲載。『月世界の女』が『ファウスト』『サンライズ』と並ぶ表現主義的探求の総決算的作品と位置づけられる。


フェデリコ・フェリーニの『崖』」
 「アール」2月29日ー3月6日号掲載。小説的伝統の遺産を型にはまった脚本で置き換えようとする「映画界の新傾向」があるが、『崖』のフェリーニは小説家のように仕事をしている。たとえば二部構成とか新たな人物の登場のさせ方など。「この映画はそれがじっさいに見せているものによってよりも、たんに前提しているものによって、また、じっさいに使っている気の利いたアイディアよりも、安易なアイディアの使用を拒否していることによって、観る者の胸を打つようにおもわれる。これは描写の才能というよりも暗示の才能の証拠であり、この点で師のロッセリーニとは対照的である」。リスクのある主題であるがその罠を前作『道』以上にうまく回避している。後半の悲劇的な美は型にはまった運命の表現にたよるのではなくもっぱら俳優の顔から生まれている。「純粋な仲介者[俳優 interprète]、魂を探し求めてさまようたんなる身体」と化したかのようなブロデリック・クロフォードは完璧なネオレアリズモ俳優である。「脚本と俳優が完全に融合している」。「議論の余地なく『崖』はフェリーニの代表作である」。


リチャード・フライシャーの『恐怖の土曜日』」
 同3月7ー13日号掲載。ユナニミスム(文学上のいっしゅの群像劇のムーヴメント)の通俗版であり、登場人物はどれも類型のきわみという大方の批評にたいして脚本家シドニー・ボームと監督フライシャーの「脚色の才能」に目を向けさせている。ほんのいくつかの台詞だけでキャラクターを息づかせ血をかよわせる台詞作家の技倆。場面移行の滑らかさは露も不自然さを感じさせず、思いがけないどころかこちらの期待を快く裏切ってくれて飽きさせない。フライシャーの演出の「流麗さ、そのつど別の場所で別の人物がたえまなく引き起こすありとあらゆる問題をいとも容易に片付けていく手腕、ほんのいくつかのショットでおもいもかけなかったドラマティックな状況をたちまちのうちに組み立ててみせる早業」。すべての登場人物に平等な重みがもたされ、全体がひとつのアンサンブルに溶け込んでいるが、かといってひとりひとりの輪郭がかすんでしまうということがない。それによってお気に入りの人物から関心のない人物へのたえざる往復によって観客が飽きてしまうということもない。ジャンルの約束事をリアリズム表現に巧妙に活用している。というわけで、群像劇のジャンルにつきもののあらゆる罠が回避されている。


「ジョゼフ・フォン・スタンバーグの『アナタハン』」
 同3月14日ー20日号。「『アナタハン』は映画の中の映画[Le Film]である(ケイコがすぐさま女性なるものの化身[La Femme]になるように)」。本作はスタンバーグの総決算的作品であり、三十年代の作品に潜在していた世界観と人間哲学が要約されている。情念と本能が運命の役割をはたし、その操り人形となる男たちを破滅に導くという根本的に悲観主義的な哲学である。スタンバーグじしんによるナレーションはたんなる事実の提示にとどまらず、こうした観点からのモラリスト的なコメントになっている。起こることがナレーションによってあらかじめ伝えられるので、観る者は永遠の[=超時間的な]観点からこの「人間的マグマ」を眺めることになる。半亡命者的な身分ゆえにそれまで表立って言えなかったことがはっきりと口にされている。ルノワールの『河』やムルナウの『タブウ』がそうであったように。エキゾチシズムはじぶんじしんを白日のもとにさらし、じぶんたちの経験をより古い文明の試練にかける手立てとなる。低予算という条件は夾雑物の排除を強いる。「魔法は簡潔な身振りから生まれることで効果を増す」。『アナタハン』は「最高の日本映画」でもある。
 『アナタハン』は「カイエ」同人のカノン的作品のひとつだが、わりと常識的なことしか書かれていない。リヴェットらしさが感じられない文章。


ロバート・シオドマクの『鼠』」
 同3月21ー27日号掲載。メロドラマにあっては登場人物は行為の果てまでつきすすみ、完結させられずにおわるものはなにひとつ含まれていない。『鼠』はメロドラマのこうした「力」を糧にしている。二十年間の亡命からドイツに帰還したシオドマクの新作には三十年代のドイツ映画への郷愁がみちており、当時のドイツ映画のスタイルに新たな息吹をあたえている。


エイゼンシュテインの事例」
 同3月28日ー4月5日号。ジャン・ミトリによる研究書の書評。「エイゼンシュテインの天才は本質的に造形的なそれである」。「造形的ということばのいみをもっとも高められた意味で理解しなければならない。すなわち幾何学的な強迫観念、遠近法の体系的な歪曲、身振りの増幅ないし様式化。これらの方法はたいていの映画作家にあっては気取りとか難題を覆い隠すものでしかないが、エイゼンシュテインにあってはもじどおり演出の『目的』なのだ。マルローを引くまでもなく形而上学の領分と表現の領分とを切り離すことは不可能だ。エイゼンシュテインの偉大さはまさにこの結合にある。映画作家のうちでももっとも形式主義的な人がもっとも聖性に取り憑かれた人でもあるのだ」。エイゼンシュテインにあっては「美学が神秘主義の代わりをしている。エイゼンシュテインの野心は秘教的なレベルにある」。「『大地』や『母』が数年間でその威光を完全に失ってしまったのはその作者が秘密[秘訣]をもっておらず、たんに技法しかもっていなかったからだ。エイゼンシュテインははんたいに秘密に賭けた」。「その秘密が何であるかはつまるところどうでもよい問題だ。エイゼンシュテインの秘密はムルナウルノワールのそれとはちがう。マラルメの秘密がバルザックのそれとはちがっていたように。重要なのは秘密が存在するということだ」。

 
ウィリアム・ワイラーの『必死の逃亡者』
 同号掲載。「『必死の逃亡者』はブルジョワ的な犯罪映画である。それゆえおぞましい(abjet)。なんとなれば矛盾しているから。この映画ではヒロイズムはもはや計算高さでしかなく、知性は下品な狡猾さでしかないのだ」。本作の「トーンの信じがたい仰々しさ」は<善>と<悪>の葛藤を表現しているのだと言われている。ところが善人の「スーパーポリス」は苦虫を噛み潰したような面相をしており、悪人のボガートはといえば「聡明な悲しみ」をたたえた眼差しをしている。「一言でいうならワイラーにとって善と悪の闘争はブルジョワ的な世間体とお行儀の悪さとの 対立に帰されるのだ」。『素晴らしき放浪者』から笑いを取り除いたような映画だ。 
 知られるように、abjet はのちの『ゼロ地帯』論のキーワード。


「ハンス・リヒターの『金で買える夢』」
 同号掲載。「読者は私がこの手の実験になんの熱狂も感じていないことを行間に読み取ってくれることだろう」。


アンドレ・ミシェルの『野生の誘惑』」
 同4月11日ー17日号掲載。「この『魔女』[原題]はわれわれをまったく魔法にかけてくれない」。マリナ・ブラディはその役柄に脚本には読みとれない一貫性と存在感をあたえて演技力を証明した。


「ハリーを火刑に処すべきか」
 「カイエ・デュ・シネマ」1956年2月号でジャック・ベッケルおよびトリュフォーと共同によるハワード・ホークスへのインタヴューを行なったあと、同誌4月号に掲載された『ハリーの災難』評。寓話という共通項によってヒッチコックカフカが結びつけられる。たとえば法廷への強迫観念。ヒッチコックには「秘密のセンス」(ポーラン)がある。ヒッチコック作品は二重底であり、秘密の底にもうひとつの秘密がある。『裏窓』以来の作品ではこのもうひとつの秘密がクローズアップされている。「この人物は善人か悪人か」という問いは「この世界は善か悪か」といういまひとつの問い(悪の全能性についてのそれ)にすぐさまとって代わられる。『ハリーの災難』においては典型的に人物の善悪が不明である。紅葉は世界の腐敗への暗示かもしれない。
 このあと同12月号にはシャルル・ビッチと共同でのジョシュア・ローガンへのインタヴューが掲載されている。


「英国人ども[Godons]を待ちながら」
 『王手飛車取り』撮影のため一年の休筆をはさんでの「カイエ」復帰(1957年7月号)となる『聖女ジャンヌ』評。「ジーン・セバーグはジャンヌではない。かのじょはジャンヌを演じているだけだ」。しかるに理想的な演技とは、いっさいの演劇的な道具だてが舞台上に“ジャンヌそのひと”を顕現させるための「仮面」として機能するようなそれではあるまいか。本作では[有名な撮影事故のおかげではからずも]それが実現している。セバーグが身に降りかかる火の粉を払いのけるただひとつのショットが本作でのかのじょの素人演技のいっさいを正当化する……。
 『聖女ジャンヌ』には文章の末尾で触れられているだけで、本論のほとんどは映画界の現状回顧に費やされている。アメリカ映画の「崩壊」にはフランス映画の悪影響も与っており、両者の「失墜」は連動している。ブレッソンヒッチコックの近作への皮肉たっぷりの言及があり、『大運河』のロジェ・ヴァディムおよび「もはや脚本をひつようとしないほど」アイディアが豊富なフランク・タシュリンへの賛辞が捧げられる。
 これに先立ち同5月号ではバザン、ドニオル=ヴァルクローズ、カスト、レーナルト、ロメールとのフランス映画をめぐる共同討議に参加し、つづく6月号にはトリュフォーとのマックス・オフュルスへのインタヴュー(およびフィルモグラフィー)が掲載されている。




ジャック・リヴェットの映画批評集成(その4)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.

 承前。

「演出家の時代」
 「カイエ・デュ・シネマ」1954年1月号掲載。『聖衣』の公開を受けたシネマスコープ考。画面の奥行きが「不条理」の感覚に結びついているのにたいし、画面の幅は「知性、均衡、明察」ひいては「モラル」に結びついているのではないか。「身振りと態度の新たな幅の探求にのりださねばならない。とくにこの時代に固有の身振りの幅である。それがこの平たい底に『立体感』[立体映画ブームを踏まえる]をもたらすだろう」。最初の「天才的な」シネマスコープの例としてホークスがプロモーション用に撮り直した『紳士は金髪がお好き』中のモンローのクリップが挙げられている。


「本質的なもの」
 同2月号掲載の『天使の顔』評。「演出」概念を明確に提示した重要論文。
 「貧しさの賛美」。このRKO作品でプレミンジャーはフォックス時代にはその潤沢さの陰に隠れていたみずからのわざ[art]を「本質的なもの」へとつきつめている。「映画の諸要素がここではほとんど剥き出しで作用している」。プレミンジャーにとって本作と『月蒼くして』はドライヤーにとっての『二人の人間』(!)、ラングにとっての『復讐は俺にまかせろ』、ルノワールにとっての『浜辺の女』に相当する。プレミンジャーの才能の秘密は映画についてのひとつの正確な「観念」である。「プレミンジャーはわたしを熱狂させるというよりも気がかりにさせる。こういう映画作家はけっして多くない」。純真な嘘つきもしくは犯罪者というプレミンジャーのヒロイン像はそれじたいとしてはありふれているが、この人物像は脚本に由来するものではない。本作の謎は物語の謎が解けたあとでも解消しない。「筋立て以外のある興味がわれわれを登場人物のさまざまな身振りに執着させる。とはいえいくら考えてみたところでその内奥に何かが隠れているわけではないのだ」。この「内奥」は登場人物じしんに由来するのではなく演出に由来している。脚本はいわば「口実」だ。「問題なのは嘘くさい物語を信じさせることではなくて、劇的ないし小説的な真実らしさを超えたところに純粋に映画的な真実を発見させることである」。「ホークス、ヒッチコック、ラングといったオールドスクール映画作家たちはまず物語を信じ、この信頼のうえにかれらのわざの威力を基づけていた。プレミンジャーがまず信じるのは演出である。つまり登場人物と舞台装置の精密な複合体の創出であり、さまざまな関わりのネットワーク、動的で空間に宙吊りになっているようなさまざまな関係性の建築物の創出である」。そのような「演出」をリヴェットは「水晶を切り出すこと」になぞらえる。
 プレミンジャーが典型的な「演出家」なのは、その演劇的な出自とはかんけいがない。「人間と人間の対立する演劇的な空間のさなかに偶然やアクシンデント性[思いがけない創意]をつかみとることでプレミンジャーは映画の能力を最大限に活用する。眼差しを近づけ研ぎ澄ますことで」。ジーン・シモンズの夜の彷徨は脚本のうえではありふれているが、プレミンジャーは「眼差しの明察」によってここからシモンズの打ちひしがれた歩き方やソファーにうずくまる姿勢を発明している。ここにあるのは「心に訴えかける、自明さによって胸を引き裂くような、映画の現前」である。「映画とは何か。男優と女優、主人公と舞台装置、言葉と顔、手と物体の戯れ[jeu]にほかならない」。
 同号にはトリュフォーとともに行なったジャック・ベッケルへのインタヴューも掲載されている。ついで4月号でジャン・ルノワール、1955年1月号でアベル・ガンスへのインタヴューを同じくトリュフォーとともに行なっている。


ロッセリーニについての手紙」
 同1955年4月号掲載の長尺論文で批評家リヴェットの代表作。「わたしがロッセリーニをもっとも現代的な映画作家とみなすのは理由[raison]のないことではないが、理性[raison]にしたがってのことでもない」。『イタリア旅行』は「突破口をひらく。映画史のぜんたいにいまや死刑判決がくだされる」。「ロッセリーニの任意の作品を考えてみたまえ。ひとつひとつの場面、ひとつひとつのエピソードが、ショットとフレーミングの連続、おおかれすくなかれ輝かしい映像のおおかれすくなかれ調和的な継起としてではなく、ひとつの長大な旋律の章句、ひとつの途切れることのないアラベスク文様、ひとつの確固たる描線として記憶によみがえってくる」。つまりロッセリーニのうちに、メディウムのあらゆる束縛から解放されたかのようなマティスの軽々とした絵筆づかいが見てとられ、ストラヴィンスキーの奔放なフレージングが聴きとられているのだ。「モーツァルトには音楽がもはやおのれじしんをしか糧にしていないようにかんじられる瞬間がある」。ロッセリーニしかり。おのれいがいのなにものにもしたがうことのない徹底して自由な映画。



「あるアヴァンギャルド映画」
 トリュフォーら「カイエ」同人が執筆していた週刊誌「アール」(1955年9月7-13日号)への初の寄稿となるアストリュック『悪い出会い』評。
 アストリュックはドイツ表現主義アメリカの若手映画作家らを参照しているが、表面的な模倣ではなくそれらの原理に学んでいる。「アストリュックがムルナウとラングに学んでいるのは光と影の劇的な意味であるが、両者の葛藤によって人間たちの秘密を表現するためである。また、ショットに内在的な生命である。それは諸力の不安定な均衡を表現するためである。レイやブルックスやプレミンジャーから学んでいるのはあるしゅの明察、登場人物の偉大さへのあるしゅの希求、魂の高貴さへのあるしゅの志向、一言で言えばモラルである。ついでにオーソン・ウェルズからは偉大なシェイクスピア的な教訓を学んでいる。このしみったれた男女関係と堕胎の話にたいしてシェイクスピア的映画とは奇妙な形容であるかもしれない。ところが私はその形容に値するとおもっている。『上海から来た女』とかガンスの素晴らしい『ルクレチア・ボルジア』がそうであるのと同じ理由で。というのも、主人公の意識がたえず状況を凌駕し、あらゆる瞬間にドラマの場面を破裂させるような映画をほかに何と形容すればよいのか」。


ダグラス・サークの『自由の旗頭』」
 同9月28日ー10月4日号に掲載。サークはウォルシュの弟子たるに値する。


ホセ・ファーラーの『もず』」
 同10月5日ー11日号掲載。切り返し場面ばかりの平板な演出。


ニコラス・レイの『追われる男』」
 同号掲載。「『追われる男』の脚本を要約するのはむずかしい。筋書きの細部が極端に込み入っているからではない。重要な部分が登場人物の行動にも台詞にもなく、それらが隠しているもののうちに宿っているからだ」。あらゆるショットが「詩情」に貫かれ、ときとしてこの「詩情」のために物語話法上の効率さえが犠牲にされる。映画の基準を巧妙さとかサプライズにではなく「美」に求める人たちに心から薦めたい作品とされる。
 有り体に言えば出来がわるく退屈な映画という意味だろう。


ジョン・スタージェスの『日本人の勲章』」
 同号掲載。タイトルバックと30分置きに配されたアクションシーン、くわえてシネマスコープの美しさは一見の価値あり。


シドニー・ギリアットの『完全なる良人』」
 同10月12日ー18日号に無署名で掲載。フランス映画は曲がりなりにも存在するが、イギリス映画は存在していない。 


ジーン・ネグレスコの『足ながおじさん』」
 同号掲載。レスリー・キャロンがすべて。「かのじょがスクリーンにすがたをあらわすとあらゆる批評的な観点は消え去る」。
 リヴェットは1976年にキャロンとアルバート・フィニーを主役に『マリーとジュリアン』の撮影を開始するが、クランクイン三日目に現場を放棄。結局この企画は2003年に『Mの物語』として実現する。


アメリカ映画は再生する」
 同10月19日ー25日号掲載。ここ十年ほどのある「奇妙な現象」の指摘によって書き起こされる。フランスの批評家がアメリカ映画を理解できなくなったというのだ。かれらはアルドリッチブルックス、マン、レイの名前を知らない……。かれら(くわうるにウルマー、クワイン)はジャンルの垣根を軽々と踏み越える。かれらが忠実であるのはおのれじしんにたいしてだけだ。すなわち固有の主題やキャラクターや「文体」にたいしてである。


「絶対の探求」
 「カイエ」1955年11月号掲載。アストリュック『悪い出会い』再論。リヴェットはこの作品のために「若者による若者のための若者の映画」というキャッチコピーを振ってみせる。若さとは陽気さでも浮薄さでもなく厳粛さだ。『悪い出会い』の主題はこのことだ。厳粛さはおよそひとに好まれるテーマではない(「『ゲームの規則』『ブーローニュの森の貴婦人たち』)。映画を観にくるひとは表面的なディティールの観察は好きでももっと深い部分での「正確さ」は好きではない。『悪い出会い』の強みはまさにその「正確さ」だ。
 ロマン主義の小説は「修業時代」を主題としていた。20世紀の小説はこの主題を継承できなかった。この主題を受け継いでいるのはむしろ映画である。ヒッチコックの映画が英国小説の継続であり、ホークスの映画がスティーヴンソンの継続であるように、アストリュックは同時代の小説家が書けないでいる『感情教育』を撮ったのだ(アストリュックはじっさいにこの7年後に『感情教育』を映画化する)。
 「ぼくたちは芸術に何を求めるのか。ぼくたちを弁護してくれることをだ。定着させることで、芸術は証明する[prouver]。見せることで、芸術は証明する[démontre]。『悪い出会い』はぼくたちの目を迷いから開かせる。ぼくたちはパリを、パリのひとびとを、これまでまったく見たことがなかったように目にするのだ」。知られるとおり、これはいまではリヴェットじしんの映画を論評する際のひとつの決まり文句になっている!

 以下は本作を「形式主義的」とする批評にたいする反論。「アストリュックの技法[art]は小説家のそれとおなじく教育的である」。「アストリュックの描写は行き当たりばったりではなく一貫してひとつの抽象的な観念に導かれている」。この「隠れた建造物[architecture secrète]」は観者の導きの糸となる。これをたどって物語に身を委ねればけっして裏切られることもない。観者は想像をめぐらせたり解釈や詮索をこらしたりすることなく物語を文字どおりに受け取ればよいのである。とはいえこうした態度こそ現代人がその習慣を失ってしまった最たるものなのだ。もはや神も悪魔も信じていない現代人にはこの真理があまりにも耳障りなのだ。アストリュックの意図は驚かせることではなく説得することだ。離れ業を期待してはいけない。ただいっさいの偶然を排除した物語の厳密な進行をたどればよい。「芸術の世界は必然の世界である」。必然があらゆるもの[エモーション、美]の代わりをする」。「そして論理と正しさ[justesse]、描写の真実と建築の正確さ[précision]との調和から崇高さが生まれる」。ひとは本作がさまざまな「効果」を狙っているとする。とはいえ効果とは「崇高さへの意志の技術的な呼び名」である。ヒッチコックやラングやウェルズにあっては「効果の多用は生まれながらに偉大さを志向する魂の徴しであり、はずしたときにのみ効果は欠点となる」。「ここではあらゆるキャメラの動きが魂の動きにしたがっている。演出は徹頭徹尾、照応への信頼、存在から放たれるひそやかな輝き[effluve]への信頼、そうした輝きが映画の形態そのものにおよぼす精神の力への信頼の上にうちたてられている。この輝きの波動がキャメラを引き寄せたり突き放したりするのである。クレーン移動のこのような神秘主義は滑稽に見えるかもしれないが、諸観念のほとんど身体的な現実、諸観念の神秘的な闘争と親和、諸観念の絶え間ない運動(これが厳密な意味での叙情だ)を信じない者にはおそらくこの映画は理解不可能である」……。
 ほぼ無意味な言辞の羅列?あるいみで典型的な「作家主義」的批評。 



ジャック・リヴェットの映画批評集成(その3)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.

 Gazette du cinéma 終刊後、二年あまりのブランクを経て「カイエ・デュ・シネマ」への執筆が開始される。

「羞恥の新たな相貌」
 「カイエ・デュ・シネマ」1953年2月号掲載。同誌デビューとなるボリス・バルネット『豊穣な夏』評。
 「うわべだけ無邪気な映画であるとともにほんとうの、内奥の無邪気さをともなうこの映画がわたしはすきだ。世界およびソヴィエトという場所に向けられたバルネットの眼差しは無垢なるものの眼差しであるが、無垢な人の眼差しではない。バルネットはこの苛酷な(exigeante)純粋さを知っており、それを慎重にじぶんじしんの秘密のなかにしまい込んでいる。おそらくは残酷なこの世界にたいするもっとも貴重な抵当、もっとも確実な保証として」。「この映画の無邪気な外見は仮面か罠もしくはなんらかの防衛にほかならず、ときとしてあまりにもありきたりな見かけの下にひとつの謎を隠している」。


ハワード・ホークスの天才」
 同5月号掲載。「自明さはホークスの天才のトレードマークだ」「存在するものは存在する」という冒頭と締めくくりの一句はすっかり人口に膾炙している。


フーガの技法
 同8-9月号掲載の『私は告白する』評。ヒッチコックの職業的な秘密[秘訣]は同業者にしか理解できない。「われわれの時代のもっとも気高い思想が映画をとおして表出されることを選んでいるとしても、その思想がそのあとでなんらかの外国語に翻訳できるということではなく、映画というアートの外見そのものへの感受性をもたない人にはその思想は目に見えないままなのだ。映画の権能の日常的な実践をとおしてこそ映画作家はその思想をもっとも厳密に表現する。そのときもっとも内奥のものが一見してもっとも外部にあるもの、もっとも形式的な諸要素の使用と混じり合うのだ」。このような芸術の典型として挙げられるのはバッハである。「外的なものときわめてひそやかなものとの結びつき。ひとつのおもいがけない身振りが説明なしに露呈させるそのような結びつき」こそ映画なるものの定義である。ヒッチコックの芸術を一言で要約するなら、“きびしさ”(exigeance)ということになる。ヒッチコックの望むものはたえまのない不均衡状態だ。あらゆるショットに危険の予感が刻印されている。安易な解決を拒否し、「根本的な思想」を厳密に帰結に導く(これが“サスペンス”の謂である)。心のうちから魂に由来しない部分を抽出するという問題意識をヒッチコックルノワールおよびロッセリーニと共有している(これが「カタルシス」の謂である)。「笑わせるにはあまりにもコミカルな映画、感動させるにはあまりにも悲劇的な映画というものがある。[ヒッチコックは「極端さを処世訓とする」]そこではエモーションが押さえつけられ窒息させられる。ヒッチコックに関心があるのはさまざまな情熱ではなく、それを押し潰してそのうえにそれら情熱の偉大さを打ち立てるものである」。「人間そのものよりも人間を蝕むものに関心を向ける」「非人間的な映画」。「ヒッチコックにとって演出は身体[物体]の秘密に照準を合わせた倦むことなき武器である」。


「創意について」
 同10月号掲載の『ザ・ラスティ・メン』評。「ニコラス・レイはアイディア[観念]を惜しまない」。それは「演出のアイディア[さまざまな演出の観念]」だ。ただフレーミングやショットの並べ方においてのみ深遠なるものが宿り、それらのみがあらゆる芸術作品の目的であるひそやかな figure[形態] に到達する」。トリュフォーはレイとブレッソンを結びつけたが、それは「抽象」への強迫観念においてであろう。この強迫観念が狙いをつけるのはただこの「理想の顔」(くだんの figure)のみであり、「そこにすばやくたどりつくためには不器用さをも辞さないのだ」。『ザ・ラスティ・メン』においては「役柄」の観念および「場面」の観念そのものが、しばしばその観念の「実現(réalisation)」に優先されている。それゆえリヴェットは réalisateur ではなく metteur en scène と呼ぶことでレイへの敬意を表する。その瞬間その瞬間の「創意」がその都度「ただ一体の埋もれた彫像」を彫り出すための鑿の一撃となる。
 ニコラス・レイの映画全般についての有益な指摘に満ちた一篇。


「仮面」
 同11月号掲載の『たそがれの女心』評。オフュルスの複雑なテクニックはエモーションに横槍を入れようとする意図に発する。「なにほどかの冷淡さが心のもっとも奥深い豊かさの保証となる」。「浮薄」とおもわれているオフュルス作品は「容赦のない分析」であり、その「見せかけの優雅さ」は「厳粛さ」を隠そうとしていない。
 いまではわりと常識化しているオフュルス観が綴られる。


アンソニー・マンの『裸の拍車』」
 同12月号に掲載された短評。「努力、疲労アウトローたちのあらあらしいライバル関係、かれらの闘いや友情のはげしさといったものについてこれ以上に心をうつ映像は存在しない。ジェームズ・スチュアートロバート・ライアン、ラルフ・ミーカー、ミラード・ミッチェルのもっとも原始的な、しかしときとしてもっとも本質的なエモーションによって歪んだ厳格な顔相とジャネット・リーのとり繕うところのない童顔は、ただ汗や傷跡や不意の微笑みのまとう威光だけによって忘れがたいものとなっている」。
 同号には「オットー・プレミンジャーとの会見記」も掲載されている。


イングリッド・バーグマン
 同年のクリスマス増刊号「<女性>と映画」のために編まれた女優小事典の項目として無署名で発表された。
 「これほどの明察[lucidité]を極度の孤立[abandon]に結びつけ、魂のもっとも密やかな動きをも目に見えるものにし、魂のもっともすばやい流れをもダイレクトな証拠に変えてしまうことのできる女優がほかにいるだろうか。かのじょは罅のかけらさえない躍動をイメージとして伝えてくれる。心の躍動ということでもあるが、むしろ思考に結びついた感覚の躍動だ。かのじょにあってはもっとも身体的な不安[peur]が口にできない問いかけから切り離せない。罠にみちた見せかけ[apparences hostiles]の世界にとつぜん投げ入れられれば、かのじょはみずからが出会う謎となり、その謎をわれわれに差し出さずにはおかず、そのすえにいまや差し出すことのできるものといっては、あの倦むことなき歩行、かのじょの歩みの生まれつきの躍動に導かれているかのように数々の留[stations]を無意識裡にたどるあの行程しかのこっていない。そしてこの歩みがかのじょをわれしらず救済へと導くのだ。なぜなら、この歩みは愛、しかももっとも無慈悲な愛であるから。また、この歩みは慈愛、しかももっとも仮借のない慈愛であるから。『汚名』から『ストロンボリ』まで、『山羊座の下で』から『ヨーロッパ一九五一年』まで、イングリッド・バーグマンはうわべの神秘と[内奥の]魂の自明性との同じような結びつきを演じつづけているのだ。はんたいの道をたどりつつも同じようなわざ[art]をつかって、外見の曖昧さから真理をつかみとり、われわれの目の前に叩きつけているのだ。のみならず、精神の、あるいは世界の、あるいは心の苦難[troubles]をものともせずによこぎる同じように情熱的な歩み[démarche]とこれ以上ないくらい純粋な同じような大胆さとを」。



ジャック・リヴェットの映画批評集成(その2)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.


 『批評文集』は「批評文」「モンタージュ」(共同討議に基づく長尺論文)、「ポルトレとオマージュ」「未発表の著述」「秘密と法」(エレーヌ・フラパとの対話)の五つのパートで構成されている。以下、編年体で編まれた「批評文」各篇の内容紹介。


 1950年

「ぼくたちはもはや無垢ではない」
 モーリス・シェレールエリック・ロメール)の薦めにより「カルティエ=ラタン・シネクラブ会報」に寄稿された処女論文。
 「ぼくたちは修辞[テクニック]で窒息し中毒にかかっている。フィルムの表面にうつしとる映画(cinéma-transcription):シンプルな『エクリチュール』に回帰しなければならない」。「フィルムの表面にひとの生き方やものの存在の仕方がどうあらわれているか、各々の小宇宙がどううごいているかを単純に書き込むこと。冷徹に、ドキュメンタリー的に撮影すること。宇宙を生きるがままにさせておくこと。カメラを証人の役割、眼の役割だけにとどめておくこと。コクトーはまさに『無遠慮』という観念を提示している。最大限にくっきりと。『覗き魔』にならねばならない」。
 「宇宙と眼差しはともどもいっこの同じ現実である」「そこにおいては視覚(vision)が物質(matière)を創りだすようにみえ(ルノワールの移動撮影)、物質が視覚を含んでいるようにみえる」。そのようなひとつの不可分の現実以外はいっさいが「見世物」にすぎない。
 「なるほど映画は言語であるが、それは具体的な記号でできている」として、ポーランが<修辞>に対置するかぎりでの<テロル>が顕揚される。


ジャン・ルノワールの『南部の人』」
 シェレールの創刊した Gazette du cinéma に掲載。
 プラン=セカンス、インプロヴィゼーションといったかつてのトレードマークが影を潜め、いっけん無個性なスタイルに回帰したアメリカ時代のルノワールをおとしめる通念が告発される(手段を目的と取り違えることなかれ)。「ルノワールは純粋な存在の領域から脱け出した。いまや事物はなにものかであり、愛はいまや覚醒している[lucide]。精神はいまや自由で明快[clair]である」。つまり処女論文でいうところの「各々の小宇宙」の前におのれを虚しくする境地に達したということだろう。


アルフレッド・ヒッチコックの『山羊座の下に』」
 「秘密」というリヴェット的キーワードが導入される。ヒッチコックキャメラは人物の内面に入り込むことを控えている。
 演劇と映画、あるいは俳優というこれもすぐれてリヴェット的主題についての初の考察。映画においてはショットのなかのあらゆる要素がひとつの調和を形成しており、人間はその世界に「如何ともしがたく[irrémediablement]」埋め込まれている。こうした機械的厳密さゆえに映画俳優に固有の演技は「メカニックな演技」となる。
 「俳優の身体は演劇においては身振りとことばの抽象的な支えにすぎないが、映画においてはその肉としての生々しい現実をふたたびとりもどす」。「映画においてはたえず肉体に精神が宿りに来る。なにほどかの造形的な醜ささえこの映画の純粋に精神的な[moral]美を際立たせるに至っている」。ヒロイン、バーグマンの変容にそれがみてとれる。


ビアリッツ総括」
 映画祭の形骸化への失望が吐露される。


ビアリッツ映画祭の主要諸作品」
 『ある愛の記録』のアントニオーニはもっぱら俳優(acteur[演技者] ≠ comédien [役者])を中心に映画の世界をくみたてているがゆえに審美主義を免れている。
 「ニコラス・レイの映画の中心を占めるのもまた俳優である」。『暗黒街の弾痕』におけるラングの厳密な演出が運命の役割を演じていっさいの希望をシャットアウトしているのにたいして、「ヘミングウェイの文体の映画的な等価物」によって撮られている『夜の人々』において運命は俳優の顔の上にじかに読みとられる。


「オルフェの不幸」
 コクトー『オルフェ』の独自性は神話の世界と偶然性の世界の交錯にある。「『オルフェ』は断片的で未完のギャング映画だ」。コクトーに関心があるのは「美学」よりも「倫理」である。コクトーは初期の技法偏重主義を放棄した。ウェルズ『マクベス』やエイゼンシュテインの『十月』といった超絶技巧を凝らした映画においては「映画が自壊し、被写体への信用の拒否によって映画が被写体を殺害するに至っている」。
 スクリーン上では「魂」(精神)は「身体」(肉体)に還元され、身体以外のなにものでもない。「映画は完全に身体的な[physique]アートであり、身振りや外見のみが重要であるようにおもわれるが、素材=物質[matière]のかずかずの変遷[vicissitudes]をとおしてなにかが輝き出る」という逆説。「映画の美は目や耳ではとらえられない」(コクトーの引用?)。それは「精神的な[moral]美」である。 
 「映画は[演]劇的なアートである。そこでは宇宙が諸力の対立によって組織される。いっさいが決闘であり葛藤である。しかしおそらく映画はみずから[の演劇性]の否定において成就される。つまり凝視[省察]において」。遠心的なアートである演劇においては観者への「感染」が起こる。一方、映画が演劇的な閉鎖空間を必要とするのは、観者がそこで自らに向き合うためだ。そのいみで映画は「内的なアート」である。スクリーンは「精神」にちょくせつ対峙する。「私はスクリーン上で私自身のもっとも密やかな[secret]宇宙と向かい合うのだ」。


「アレクサンドル・ストルペルの『本当の人間』」
 「映画においてダンスは特権的な行為である。そこでは身体の全体が肯定されると同時に廃棄される」。
 「他のどんなアートにもまして映画は受肉の神秘に接近する術を知っている。たったひとつの動きによって身体[受肉]そのものを人間の贖いと化してしまう。人間と人間を超越するものとを親密で身体的な結合によって繋ぐことで」。
 Gazette du cinéma は本稿が掲載された第5号をもって終刊。このあとリヴェットは翌年創刊の「カイエ・デュ・シネマ」同人となる。