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精神分析と映画をめぐる読書案内

スタンリー・カヴェルの『北北西に進路を取れ』論

*Stanley Cavell : North by Northwest, in Cavell on Film (State University of New York Press, 2005)

 『北北西に進路を取れ』論は、論文単位としてはカヴェルの映画論の代表作の一本に挙げることができる。初出は Critical Inquiry 1981年夏号。その後、『課外の諸主題』に収録され、さらに『カヴェル映画論集』に再録された。

 『幸福の追求』の刊行と同時期の論文であり、実際、この論文では、『北北西に進路を取れ』が『幸福の追求』で論じられた7本の再婚コメディーのいわば外典ないし異本と位置づけられている。

 特に『フィラデルフィア物語』との関連性が強調される。いずれの作品においても、主役のカップルの結婚が「国家的重要性」をもたされている。いずれの作品においても、カップルは結末近くで見晴らしのいい孤立した場所に出る。

 また、いずれの作品においても、石像に閉じ込められた人間が救出されるというかたちでの「死と再生」というプロセスが見られる。

 ただし、正統的な再婚コメディーにおいては、このプロセスをたどるのが女性であるのに対し、『北北西に進路を取れ』においては男性のほうであるという違いがある。

 『北北西に進路を取れ』において石像から救出されるのは、『フィラデルフィア物語』において女性(キャサリン・ヘプバーン)を救い出す役回りを演じたケイリー・グラント本人である。

 また、カヴェルは再婚コメディーをシェイクスピア喜劇ロマンス)のリヴァイヴァルと見なしているが、『北北西に進路を取れ』は、「俺が狂うのは北北西の[風が吹く]時だけだ」という台詞、および演劇性という主題(いずれの作品においても「劇中劇」の最中に現実の殺人が起きる)によって、『ハムレット』と結びつく。この点でも再婚コメディーのうちでは異例に数えられる。

 何より興味深いのは、『幸福の追求』に通奏低音として流れていたアメリカというテーマが正面切って扱われ、再婚コメディーがアメリカについての寓話であることが明言されていることではないか。
 
 ラシュモア山でのラストシーンをコメントした結論部は本論文の圧巻であり、反復あるいは贖いというモチーフをとおしてアメリカ、結婚、そして映画という三つのテーマが交錯する目の眩むような文章は、読者を深い思索に誘う。

 世界に生命を吹き込むこと、ないし再び生命をあたえること、ないし人間化すること、それによって世界との相互性を実現することは、ある種の詩とか哲学に認めることのできる野心である。たとえば、ソローは『ウォールデン』の「池」という章で次のように書いている。「湖は風景の顔のうちもっとも美しく、もっとも表情豊かなところである。湖は地球の眼だ。湖を覗き込むことで、眺めるものは彼自身の自然の深さに思い至る」。ソーンヒルがそのように——[自分から]切り離されていないものとして——自然を眺める術を知っていることは、彼が救われることの予兆である。
 ラシュモア山のモニュメントは、世界との相互性というこうした野心を文字どおりに実現してみせるというアメリカ人の気狂いじみた所業である。より具体的に言えば、それはアメリカの山々や平野はアメリカの詩のうちで最高のものであるというウォルト・ホイットマンが抱いていたような考えを文字どおりに実現したものである。まるで、このモニュメントは、入植者たちの時代にまで遡る、アメリカの土地をめぐるアメリカ的アンビバレンスに対するひとつの解決策を提示しているかのようだ。つまり、アメリカの土地は人間、なかんずく女性であって、処女であり、かつ育ての母でもあること、それと同時に、われわれは彼女を陵辱し、われわれの印を彼女に刻みつけたいと願うことによってその自然を抹殺してしまったということだ。(『北北西に進路を取れ』は、農薬散布機の場面においてこのアンビバレンスを召還し、それに対するひとつの解決策を要求している。)モニュメントの提示する解決策は、刻みつけられた印が十分に大きく、十分に人工的で、十分に男性的であれば、進歩の根絶を償えるかもしれないというものである。ワシントン、ジェファソン、リンカーンの観察と記憶からは、ほとんど救いとなるメッセージは引き出せない。
 Encyclopedia Americana によれば、モニュメントの顔は、顎から額までおよそ60フィートあるといい、それに加えて、これはギザスフィンクスの顔の二倍であるとの、どちらかというと誇らしげな註釈がついている。とはいえ、その数字に巨大であること(monumentality)以外のどんな意味があるというのか。また、アメリカが二倍にエジプトの土地になってしまったこと、二倍に奴隷を生み、二倍に謎だらけのエジプトになってしまったということ以外にそこからどんな結論を引き出せるというのだろう。ヒッチコックは、スクリーンに投射された映像にとって、これらの顔のサイズの隅々を覆い尽くすことは一瞬の仕事であることを示し、それゆえ彼は同時に、自分の作品を、アメリカに捧げられた、アメリカについてのモニュメントとしてのラシュモア山と競合するものであると宣言し、モニュメント性(monumentality)がいまやどういう意味をもっているのか、記念することの価値はどのように可能なのかを考えさせる。こうした理由で、この作品は、ヒッチコック円熟期(ほぼアメリカ時代に相当)のキャリア全体の総括たろうとしているのであり、一種の再奉献(rededication)として、その全体を秤にかけ直そうとしているのだ。再奉献とは、モニュメントを前にしてのふさわしい心的態度であり、とりわけ、自己懐疑の瞬間である。そしてたとえこのモニュメントが、記念するのと同じくらい競合と支配の好例となっているとしても、なおそれは、父親たちの築いた礎を確固たるものにしようとしており、起源に回帰することへのおずおずと口にされた願望なのだ。ヒッチコックモニュメントに対する自らの態度を、カフェテリアでカプラン=ソーンヒルに「このゴージャスな眺めのなかでどんな小芝居をお目にかけてくれるのかな?」と問いかけるヴァンダムの、モニュメントに対する侮蔑に満ちた否定的態度から注意深く区別している。[……]そして、このモニュメントが過去を記憶するやり方に対して、別のやり方を見せつけることで競合すること以上によい再奉献があるだろうか。つまり、——過去を石化し、切断しようと試みるのではなく、過去から受け継いだものを見直し、受け継ぎ直そうとすることだ。

 [……]この二人組の逃走は、ヒッチコックによって、国家的重要性をもつと見なされている。彼らは誰なのか。そして、彼らはこのモニュメントで何をしているのか。
 彼らはアメリカの再婚コメディーから派生している、あるいは、それと同じところに根ざしているが、それが私にとって意味するのは、彼らのゴールが結婚の合法化と私の呼ぶ事柄であるということだ。幸福はそこでいまなお勝ち取られることができ、そこででなければどこにおいても勝ち取られることはできず、そしてアメリカはその幸福が見つかる場所、おそらくは虚構の場所であるという宣言だ。[……]

 なぜこのモニュメントの顔からの救出が実現するのか。私はこれを地球の顔、純粋な表面として可視的となった地球そのものと呼んでおいた。これらの小さな生きものたちは、天と地の間を這っていく。まるでふたたび子供になるという形而上学的な快挙をなし遂げたかのようだ。ハムレットは、自分を子供のように感じ、もはや結婚などないだろうと告げるとき、自分がこの快挙をなし遂げたと主張する。ソーンヒルは、彼と女性が崖からぶら下がっているとき、女性にプロポーズする。あたかも結婚は、精神の現前であり、将来の保証を要求しないかのような立派な考えだ。モニュメントの顔の上でのカップルのクロースアップは、彼らが異星にいるかのように見せている。地上にもはや自然はない。地球はもはや神による創造になぞらえられるような人為ではない。それは字義通り、そして完全に人工的であり、人類の手によって石化されている。あなたの映画をこのような所業と競合して位置づけることは、あなたの映画を、世界を石化することによって保存する、あるいはともかく、世界をセルロイドに固定する映画自身の特殊な力と競合させることである[強調は引用者]。再婚コメディーのカップルは、最後に孤立し、世界[による認可]なしで結婚を合法化することを期待される。それができたところで痛みが和らぎはしない。ヒッチコックのラシュモア山の表面は、絶対的な霊的孤立の場所として私を打ちのめす。文明は、何もない空間さえもを飲み込んでしまった。アメリカでの初期作品の一本『逃走迷路』において、ひとりの男が自由の女神像のてっぺんの副梁材から悪役の手をつかんで支えるが、悪役の袖はずるずるとずり落ち、地上へと転落する。私が想像するに、ラシュモア山から転落することは、地球の外に転落することであるだろう。世界の荒涼とした広大な果ての底へと。
 ソーンヒルモニュメントの岩棚での孤立から新婚の床の孤立[水入らず]へと直接イヴを引っぱり上げる。まるで二つの場所のいずれもがサスペンス[cliffhangers]の舞台であり、彼らはそのいずれをも家となす[くつろいでいる]と宣言しているかのようだ。ソーンヒルがイヴを支えている場面で、レナードが倒される際に花崗岩モニュメントに落ちて割れる彫像がいわばイヴの分身と考えれば、このアイディアをもとにしてある種の映画を作れそうだ。実際、私は『フィラデルフィア物語』を、彫像を壊してそのなかからひとりの女性を現れさせるというかたちでの救出というアイディアによって作られた映画であると説明している。私はまた、再婚が、この作品においてくり返される文句を使うなら、国家的重要性をもっているとも主張している。そう主張する根拠は、アメリカが、あるいはいかなる発見された世界も、もはや結婚を認可することができず、真の結婚の達成の方が[逆に]そこにおいて結婚を探求すべき場所としてのアメリカと呼ばれる何かを認可するかもしれないという考えである。このことは国家機密である。

 アメリカ建国神話のアンビバレンスについては、『眼に映る世界』第9章で『リバティー・バランスを射った男』を論じたくだりにも興味深い記述がみられることをつけ加えておこう。