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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジルベルト・ペレスの遺稿:『雄弁なスクリーン』

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 Gilberto Perez : The Eloquent Screen ― A Rhetoric of Film (University of MInnesota Press, 2019) 

 

 名著『物質的な幽霊― 映画とそのメディウム』(The Material Ghost : Film and Their Medium , Johns Hopkins University Press, 1998)で知られるジルベルト・ペレスの新著の出版は格別の驚きとともに読書界に迎えられつつある。本書『雄弁なスクリーン ― 映画の修辞』は、ペレスが2015年に亡くなる直前に脱稿していた遺稿の書籍化である。

 

 英米の映画研究・映画批評の世界におけるペレスの影響力の大きさは、たとえば十年ちかくまえであったかに「サイト&サウンド」がおこなったベスト映画本アンケートにおいて『物質的な幽霊』に多くの票が集まったことからも容易に推し量ることができる。ちなみに同アンケートにおいて、カヴェルの『眼に映る世界』は二票にとどまり(そのうちの一票はかのトム・ガニングによるものである)、ドゥルーズ の『シネマ』に至っては一票すら獲得していないが、ペレスは現役の書き手としては例外的な票を集めていたと記憶する。

 

 1943年、ハバナに生を享けたペレスは、若き日に同郷の作家カブレラ=インファンテの映画批評に大きな薫陶を受けた。MITで物理学を専攻した経歴がペレスの映画観に影響している。ジークフリート・クラカウアーがその映画観客論で強調し、アンドレ・バザンが「真実である幻覚」と呼んだ、「マテリアルでありながら、別の世界に移し置かれ、作り変えられた」世界、すなわち「物質的な幽霊」としての映画というヴィジョンである。

 

 ペレスは「フレンチ・セオリー」を踏まえた明快で啓蒙的な文体と粘り強い思索力を持ち味とするモデルニテの伝道師といった人だ。強いて言えばスタンリー・カヴェルとロビン・ウッドの中間に位置するような人とでもいえようか。サラ・ローレンス大学で映画学を講じる傍ら、「イエール・レヴュー」、「ニューヨーク・タイムズ」、「ネーション」、「フィルム・コメント」、「サイト&サウンド」といった媒体に寄稿した批評家として活躍したかれが映画の領域においてアカデミズムと批評の橋渡しをつとめた功績は広く認められているところだ。

 

 生前に刊行された唯一の著書である『物質的な幽霊』はまさにバイブル的な書物であり、裏表紙には、エドワード・サイード、スタンリー・カヴェル、ジョナサン・ローゼンバウム、ジェイムズ・ネアモアといった大家らによる賛辞が連ねられている。

 

 『物質的な幽霊』において、ペレスはムルナウキートン、ドヴジェンコからアントニオーニ、ゴダール、ストローブ、キアロスタミまで、映画のモデルニテを築いてきた伝統を振り返る作業にとりくんでいる。カヴェル の『眼に映る世界』にも似て、『物質的な幽霊』はいっこの知的自伝である。

 「ジェイムズ・エイジーが十代と二十代の頃に見た映画を振り返り、グリフィスやチャップリンエイゼンシュテインやドヴジェンコの映画のうちに映画芸術の偉大な時代を見たように、わたしはいま、わたしの十代と二十代の頃に見た映画をひさしぶりに振り返り、60年代にピークを迎えた映画芸術の全盛期をそこに見る。……ひとは若い日に見た映画にたいしては初恋の感覚に似た思いをいだいて反応するという事実は意義ふかい」。

 

 『物質的な幽霊』で提示された複数の問題意識を発展させた『雄弁なスクリーン』において論じられるのは副題にあるように「映画のレトリック」という、あるいみでいまどき流行らないテーマである。

 すでにアンソロジーアメリカの映画批評』(American Movie Critics, An Anthology from the Silents until Now, The Liberary of America, 2006)にもその一部が収録されていた序章は、フォードの『プリースト判事』の寓話的読解にあてられている。それは弁舌の才に長けた敵対候補を、別のしゅるいの「修辞」を操る口下手な主人公(ウィル・ロジャース)が打ち負かすといった寓話である。ここにおいて、映画における修辞が雄弁術における狭義の修辞とは別のとくしゅなものであるという本書の主題が明確に読みとれる(副題の不定冠詞の意味あいに注意)。

 また、この序章には本書を貫く方法論もはっきりと提示されている。すなわち、雄弁と寡黙という偽の二項対立を注意深く腑分けすることによってパラドクスに追い込み、つき崩していくという論法のことである。

 これ以後、本書のいたるところで、たとえば隠喩と換喩、主観と客観、ドキュメンタリーとフィクション、リアリズムとモダニズム、リアリズムとメロドラマ、バザンとブレヒト、悲劇と喜劇、「ラウンド」と「フラット」(フォースター)などなどの二項対立をめぐる同じような脱構築(??)作業が展開されることになるだろう。

 

 最初のパートは「映画のさまざまな比喩[tropes]」と題される。グリフィス、チャップリン、ヴェルトフ、バルネット、キャプラ、清水宏からスピルバーグ、チミノ、エロール・モリス、キャサリン・ビグロー、キアロスタミに至るまでの諸作品にそくして、隠喩、換喩、提喩、アレゴリーアイロニー、省略法、パロディーといった修辞が映画においてどのようなかたちでつかわれているかが構造主義的文学理論やウォーショー、クラカウアー、カヴェル、ジェイムソンらの映画理論を参照しつつ分析される。

 

 次のパートは「メロドラマと映画技法」と題されている。グリフィス、シュトロハイムからミヒャエル・ハネケテレンス・マリックマイク・フィギス、ヒューズ兄弟、王家衛らの作品が俎上に載せられ、クロースアップ、視点ショット、切り返し、長回しキャメラ移動、スローモーション、ヴォイス・オーヴァー、ジャンプカット、クロスカッティング、スプリットスクリーンといったテクニックがいかにメロドラマ的表象に寄与しているかをたどる。

 

 たとえばペレスは、アレン&アルバート・ヒューズのデビュー作『ポケットいっぱいの涙』(Menace II Society, 1993年)におけるヴォイス・オーヴァーの使い方に着目する。『サンセット大通り』とどうよう、この作品では死者によるヴォイス・オーヴァーが使われるが、ワイルダー作品ではこの技法が「アイロニー」の効果をもつのにたいし、ヒューズ作品では「悲劇」の物語話法として機能している。『ポケットいっぱいの涙』は“一人称の語りによる悲劇”という例外的な手法に訴えることによって(「例外が規則を証明する」)、物語が基づいているオイディプス・コンプレックスの図式にツイストをほどこし、アフリカ系コミュニティに固有の父性の継承のあり方を提示し得ているとされる。

 

 「同一化」と題された短い「コーダ」では、フロイトあるいはクラインを参照しつつ、映画における同一化が距離の廃棄と維持という背反的な契機を同時に含むパラドクシカルな現象であることがヒッチコック(悪人への同一化、etc.)や『キートンの探偵学入門』を素材に論じられる。フロイトにおいてもきわめて多義的である同一化という概念は、あるいみでペレスが探求してきたすぐれてパラドキシカルなものとしての映画を象徴するようなそれであるといえようか。

 

  (à suivre)